武蔵野五輪弾圧救援会

2021年7月16日に東京都武蔵野市で行なわれた五輪組織委員会主催の「聖火」セレモニーに抗議した黒岩さんが、『威力業務妨害』で不当逮捕・起訴され、139日も勾留された。2022年9月5日の東京地裁立川支部(裁判長・竹下雄)判決は、懲役1年、執行猶予3年、未決算入50日の重い判決を出した。即日控訴、私たちは無罪判決をめざして活動している。カンパ送先⇒郵便振替00150-8-66752(口座名:三多摩労働者法律センター)、 通信欄に「7・16救援カンパ」と明記

宮本弘典教授、武蔵野五輪弾圧控訴審意見書「過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性」を語る

妨害の結果がなくても罰することができる威力業務妨害罪。裁判官の好き勝手に対抗する叡智とは…

 宮本弘典さん(関東学院大教授・刑法)は、武蔵野五輪弾圧控訴審提出意見書「過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性~いわゆる『武蔵野爆竹事件』をめぐる威力業務妨害罪の成否をめぐって」で、黒岩さんの無実を論じてくださいました。

 中世からファシズムの歴史を振り返りつつの、非常に重厚な意見書です。ただ、法律に慣れ親しんでいない人には、ちょっと難しいかもしれません。

 そこで私たちは宮本さんをお招きして、刑法や武蔵野五輪弾圧について話を伺いました。丁寧にお話いただいき、宮本さんの意見書を読む前の予習にもおすすめです。ぜひ、この講演録を読んで、意見書にもトライ ↓ 

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(前半) ーいわゆる「武蔵野爆竹事件」における威力業務妨害罪の成否をめぐって…宮本弘典氏意見書 - 武蔵野五輪弾圧救援会

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(後半) ーいわゆる「武蔵野爆竹事件」における威力業務妨害罪の成否をめぐって…宮本弘典氏意見書 - 武蔵野五輪弾圧救援会

 

2023年4月23日@武蔵野芸能劇場「武蔵野五輪弾圧 控訴審突入決起集会」講演録

インタビュー:井上(武蔵野五輪弾圧救援会)

 

意見書で、裁判の技術論にとどまらず歴史・思想についても述べた

―― 今日は、関東学院大学で刑法を教えている宮本弘典先生にお話を伺います。宮本先生は武蔵野五輪弾圧裁判の控訴審において、非常に重厚な意見書で、黒岩さんの無罪を主張してくださいました。

 弁護団会議では控訴審で学者の先生に意見書を書いてもらおうと決まり、なかなか書いていただける方が決まりませんでした。最初に宮本さんが手をあげてくださり、それからパタパタと笹沼弘志さんと酒井隆史さんにも快諾いただきました。お三方には、大変内容の濃い、裁判全体の意義を一段と深くする意見書を書いていただけたと思っています。

 私が普段活動している立川自衛隊監視テント村という反基地団体は、2004年に反戦ビラ弾圧という刑事弾圧を受けました。その事件は大変注目されて、最高裁の時は何通も学者意見書を頂きました。

 でも正直言って、そのどれよりも今回の宮本さんの意見書の方が嬉しかったです。

 反戦ビラ弾圧は、誰がみても酷い弾圧だったから意見書も書きやすかったと思います。でも今回は爆竹ですから、一瞬「ウンッ?」となる人も当然いる。でも宮本さんは無罪だ、公訴棄却だと言い切ってくれています。その宮本さんの理路は、細い道筋をしっかりと歩んでいくやり方で、とてもスリリングで読み応えのあるものでした。

 それでは宮本さん、自己紹介を含めてよろしくお願いします。

 → 反戦ビラ弾圧とは 立川反戦ビラ弾圧 裁判闘争について

 

宮本

 関東学院大学で刑法を教えております宮本です。

 今回の裁判では笹沼さんも酒井さんも、大変良い意見書を作ってくださいました。酒井さんの意見書は「ですます」調で書かれていて、裁判官に「君達でも分かるだろ」と優しく教え諭しているようで「いいなあ」と思いました。

 酒井さんなどに比べて、私は売れない学者です。裁判記録を送っていただいて、意見書を依頼され、2つのことを考えました。

 一つには、この黒岩さんの事案について、裁判官を説得するのは実に困難だということです。これまでの判例や教科書のロジックに従う限り、無罪を取るのは針の穴にラクダを通すより難しいでしょう。でも私は立川反戦ビラ裁判と同様で、「こんなの無罪に決まってるじゃん!」と思います。

 こういう事案を検察が捜査し、身柄を拘束し、起訴する、それがそもそもおかしなことです。そういうおかしな起訴に対して、裁判官が(目に浮かびますが)したり顔で「こんなの有罪に決まっているだろ」という判決理由を書く。この日本の刑事司法の文化そのものが問題だと思うわけです。

 いま一つは、意見書を求められたことについて、少しばかり嬉しい気持ちもありました。このひどい現実に対して、売れない学者が実際の裁判で意見書を書いて批判できるチャンスは実はそうあるものではありません。日本の司法文化、日本の刑事司法のおかしな現実を実践的に批判できることは、研究者にとっても得がたい機会だからです。

 そうした批判を展開するには、裁判の技術論だけではなくて、歴史的・思想的な観点から物事をみておくことが必要です。今日はそのような考え方の大切さを伝えいと思ってやってきました。

 

近代刑法の理念と現実

―― 今日のお話は、大きい話から小さい話へ、つまり「刑法とはなにか」という話から「武蔵野五輪弾圧裁判の評価へ」という流れで伺っていきます。

 まず刑法の根本的なことについて。私は宮本先生の意見書を読んで、遅まきながら初めて知ったことがあります。

 「そもそも刑法は、権力が人を捕まえるためにある」とこれまで思っていました。でも宮本先生の意見書には、「そもそも近代刑法というのは、国家権力が好き勝手に人々を裁いて刑罰を科すことを抑制するという理念から出発したものだ」と書かれています。

 もしそれが本来の「刑法の理念」だとしたら、自分の知っている刑法のありようと全然違うなあ、と大変びっくりしました。

 まず初めに、近代刑法の理念とは何か、どういう理由で成立したのか、また実際どのような経過を辿ったのか、というあたりを教えてください。

 

宮本

 最初に結論のようなものを述べておきます。刑法は現実においては、つまるところ社会の統制装置だし、国家の暴力装置です。それはそのとおりです。

 でも現実がそうであるからこそ、それを抑制する理念装置や理論構築が必要だったわけです。そうした理論構築を実践したのが、僕らが中学や高校で習ったモンテスキューやルソーとかロックとか、そういう人たちです。

 近代初期のこういった人たちの著作では、必ず「刑事司法改革」に一章、あるいはまとまった頁数がさかれています。つまり、「刑事司法改革」は、自由主義的な政治改革・国制改革にとって大きな課題だと考えられていたわけです。

 刑事司法改革というのは、今でいう刑法というより、多くは刑事訴訟法に関する分野に関係します。要は、刑事裁判そのもののあり方を変えていかなければならないと、当時の識者は痛切に考えていました。これは知識人が頭の中だけで、絵空事として考えていたことではありません。刑事裁判のあり方を根本的に変えることは、現実問題として強く求められていました。

 ではその時代の裁判はどんなものだったのでしょうか。

 まずは「魔女裁判」をイメージしてください。魔女裁判では、例えば街はずれに住んでいた老人が可哀そうなことに「魔女」と名指されて処刑されることもありましたが、そういうものだけではありません。

 皆さんもご存じと思いますが、一番有名な魔女裁判はジャンヌ=ダルクの死刑です。あれは、一言でいえば政治犯の処刑ですね。貴族にとってジャンヌは、自分たちの権威や支配体制を脅かす時代のヒロインでした。刑事裁判は、彼女を「魔女」として排除(抹殺)する手段だったわけです。その裁判では「ジャンヌ=ダルクが何をしたか」、つまり「行為」が問題だったわけではありません。決定的な有罪の理由は、「ジャンヌがサタンと契りを結んだ」という内心の悪性、道徳的堕落でした。

 このように前近代の刑事司法では、その時どきの支配階層にとって都合の悪い人を排除(抹殺)するために、「あいつは魔女ですぜ」というウソの密告者を作り出し、証言なり拷問で自白を得たりして、簡単に裁き、排除し抹殺することができたわけです。

 18世紀後半の後期啓蒙思想が普及するとともに、この耐え難い国家体制と刑事司法に対する改革要求も高まりを見せました。その改革要求のモットーを端的に示す標語があります。「刑法の世俗化・合理化・人道化」です。世俗化・合理化とは、刑法の背後にある宗教的な倫理や道徳を除いていくべきということ。人道化とは、刑罰の残虐性を排除するということです。

 こうした考えにたって刑法(刑事司法)改革運動が展開され、その成果・果実として「刑法の謙抑性・断片性・補充性」という三つの理念が近代刑法の公理として確立されました。

 どういう意味でしょうか。それぞれの反意語を考えると分かりやすいですね。

 まず謙抑性の反意語は「積極性」ですね。「社会に色んな紛争が生じたときに、積極的に刑法を用いるのはやめましょう」、これが刑法の謙抑性です。

 次に、断片性の反意語は「包括性」です。「社会で生じるありとあらゆる紛争すべてに対して刑罰を用いるべきではない」、ということです。例えば今回の五輪弾圧のように、一見他人の業務を妨害しているように見えるけれども、そうした行為すべてに刑法234条の威力業務妨害罪を適用するようなことはやめましょう、というのが近代国家の約束事だというわけです。

 最後の補充性ですが、その反意語は「優先性」です。「優先的に刑法を用いるのではなく、他の手段で問題を解決できないときにのみ刑法を用い、刑法の使用は最後の最後だけにしましょう」と。これが補充性です。

 これをまとめて「刑法はウルティマラティオ(最後の叡智)である」ということになります。

 近代とは、領主や教会の権力が暴力性をはく奪されて、国家権力だけが暴力を系統的・組織的に独占する過程でもあります。軍隊も、刑罰も、警察も、いまや国家が独占的に所有する暴力です。だから、その国家の暴力をどうやって抑制するかということは、現実的な大問題でした。

 なぜかというと、近代以前には、無辜の政治犯たちが「魔術師」「魔女」として、他人の密告や拷問で得られた自白によって有罪が認定され焼き殺されていた経験をしており、その記憶がなお生々しく残っていたからです。

 そうした耐え難い刑事司法を克服するための手段として、啓蒙思想家たちは近代刑法のイメージを提示し、その実現のための実践も積み重ねられました。たしかに近代刑法とはあくまでイメージであって、「これが近代刑法です」という個別の確定例があるわけではありません。

 しかし大事なことは、近代刑法は決して頭の中だけの理念ではないということです。残虐で誰が刑罰に科せられるか分からない危険な中世的刑事司法の「現実」に対して、その抑制のための極めて「現実的」で実践的な運動として、近代刑法というイメージが生み出されたのです。

 このような歴史は、1945年以降の日本の刑事裁判や刑法適用の現実に対する痛烈な批判と反省を迫るものといえるでしょう。

 日本国憲法ファシズムによる暴力的支配・抑圧との訣別を宣言するものであるならば、日本国憲法の下で目指されるべき刑事司法もまた、言葉だけの綺麗事ではなく、特に1941年以降の思想的総力戦体制下における、治安維持法や国防保安法に典型的な刑罰権の濫用という、あの酷く耐えがたい刑事司法を克服し、それと訣別するものでなければならなかったはずだからです。

 しかし、裁判所や法務・検察はいうまでもなく、私たち研究者もまた、そうした歴史的な省察を欠いているというのが現実です。刑事司法における自由保障という点で、非常に大きな問題です。

 

憲法31条と「過度に広汎な処罰の禁止」

―― そう考えてみると、近代刑法の理念が現実的にどういう姿で立ち現われて来るかがとても大事なことだと思います。

 宮本さんの意見書の流れでいうと、そうした近代刑法の理念の具体的な立ち現われ、というのは、1つは憲法31条を軸として権利化されていると書かれていました。憲法は色々有名な条文がありますが、31条をそらんじられる人ってそんなにいないと思います。私もこれまで全然知りませんでした。読んでみますね。

憲法31条 : 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない

 一見すると、結構普通の、そのとおりなんじゃないかという内容です。でもこの中に、深い思想と脈絡がある、と宮本さんはおっしゃっています。

憲法31条は、一般的には「罪刑法定(ざいけいほうてい)の原則」とつながっているといわれていて、「罪刑法定の原則」は、例えばWikipediaでは「ある行為を犯罪として処罰するためには、法令において、犯罪とされる行為の内容、及びそれに対して科される刑罰をあらかじめ、明確に規定しておかなければならないとする原則のこと」と説明されています。

 つまり「前もって法律がない内容で刑罰を科してはならない」ということですよね。しかしこれは単に、「法律なくして刑罰無し」を意味しているのではなくて、もっと深い含意があるということを宮本さんは意見書で展開されています。

 

宮本

 近代以前にも、大昔だって法律はありました。日本の刑法学者の中にも、皮肉交じりに、「律令の時代からこの意味での罪刑法定主義は存在した」という人はいます。そりゃそうです。

 法に定めのない刑罰権というのは、古代であれ、いわゆる国家体制が成立してからであれ、ありません。ローマでも、古代中国でも、古代日本でもそうです。法律に定めがないのに、正式に裁判をして有罪判決を下すことはできないのです。ですから憲法31条を文字どおりに解釈するだけでは、これは「当たり前の話」となる。

 ところで中世には、「よきキリスト者の教えに反する行為」を理由として処罰されることもありました。どんな行為が処罰されたのでしょうか? 井戸端でおかみさんたちが集まってお喋りに興じ、時には修道士や神父さんに対する卑猥な眼差しを交えた話題が上ったりする、そういう行為です。

 もう少し身近で深刻な例もあります。日本の治安維持法は、「国体変革」を目的とする結社(を組織すること)が処罰対象でした。後には法改正により、結社の「準備」や、「国体変革」という目的遂行のための行為も含めて、処罰対象行為は止めどなく拡大していきました。

 治安維持法があれだけ猛威を揮い得たのは、「国体の変革」が何を意味するか、いえ端的には、「国体」が何を意味するかが明らかではなかったからです。

 「国体ってなんぞや」というとき、例えば当時の文部省が出した「国体の本義」という文書によっても「国体」の定義は結局のところ内容空疎で、「天皇を中心とした国のありよう」だとか「天皇中心の国の道徳体系のありよう」といったものでしかありませんでした。先ほどの「よきキリスト者の教えに反する行為」と、「国体の変革」は一体何が違うのか、ということです。

 このように、ありとあらゆる行為を包含して規制し処罰することを可能にする法律の存在を許すと、耐え難い刑事司法が現実化するわけです。

 一言加えておきますが、内地の刑事裁判で、治安維持法違反単独での死刑判決は一件もありません。死刑判決が乱発されたのは、当時は日本統治下にあった朝鮮半島においてです。弾圧のための刑法適用も、中心と周縁で全く異なる相貌を見せることに注目しておくべきでしょう。

 憲法31条の意味を理解するとき問題となるのは、20世紀の前半から半ばにかけて、立法府(国会)が法律を作って行政府や司法府をコントロールするだけでは結局のところ市民的な自由を守ることができないのだ、という歴史的な経験=ファシズム体験です。その典型は、治安維持法や国防保安法による刑事弾圧でした。

 治安維持法や国防保安法も議会によって制定された法律です。議会による適正な手続きを経て成立した法律に他なりません。

 そうすると市民の自由を保障するためには、たんに「議会が法律を作った」という形式的合法性を確保するだけではだめで、その法律が内容的にも私たちの自由を十分に保障するものでなければならない。そういう風に憲法31条を解釈しなければならないわけです。ファシズムの経験を教訓として、アメリカとかヨーロッパでこうした議論が形成されるようになります。

 残念ながら、日本はファシズムの本場だったにも関わらず、この議論は相当に遅れて出てきました。最高裁が(形式だけにせよ)この考えを受容れたのは1975年のことです。有名な徳島市公安条例事件ですが、そこまで時間がかかりました。

 私が意見書の中で強調した「過度に広範な処罰の禁止の原則」とは、まさに今お話したことです。単に議会によって法律が制定されたというだけでは、罪刑法定の原則を満たすことはできないですよ、ということです。刑罰法規は、私たちの自由を不当に侵害するような内容を持っていてはいけない。またその法律の適用も、不当に広い=不必要な範囲に及んではいけない。そうでなければ、その法律は罪刑法定の原則に反し、憲法31条に違反すると捉えるべきだということです。

 今回の事件では、抗議の爆竹使用が威力業務妨害罪の求める「威力」の行使に当たるのか、が問題となります。構成要件に該当するのかどうか、構成要件には該当するけれども違法性がなくなるのではないかとか、刑法学者や司法試験受験生が好みそうな刑法上のややこしい問題については後でまた話します。

 もっと重要なのは、そうした問題以前の段階です。議会によって制定された法律に基づいているのだから、罪刑法定の原則の問題はない、あとは解釈による法適用の妥当性を争うだけだ、といった狭い議論に陥ってはいけません。罪刑法定の原則は「過度に広汎な処罰の禁止」という要請を含んでいます。威力業妨害罪についても、その適用が「過度に広汎な処罰」をもたらすような解釈は許されないのです。罪刑法定の原則は、その意味で単なるモットーではなく、現実に働くべき憲法上の要請です。

 罪刑法定の原則を講じるのは私たち刑法学者ですが、本当は憲法学者がきちんと議論しなければならないテーマだと思います。

 

構成要件と違法性の関係性について

―― 憲法31条が歴史的に含意しているはずの、「過度に広範な処罰の禁止」は立法、解釈、適用のすべての段階で本来は検討されるべきものであるというお話でした。

 次の質問はちょっとマニアックかもしれません。

 構成要件と違法性判断の関係について、宮本さんの意見書を読んでいて一つ気付きがありました。

 刑事裁判は一般的にまず構成要件該当性を争います。その上で、たとえ構成要件を満たしていても違法性は無いのだ、という風にふつうは主張します。

 しかし私は、以前から「構成要件」という概念の意義というかレゾンデートルがいま一つはっきりしていない気がしていました。一般的には構成要件とは、「刑法が類型化した犯罪行為の型」というように説明されると思います。しかしある「行為」を「犯罪行為の型」に該当するかどうかを決めるためには、そもそも違法か合法かの判断が先に紛れ込まざるをえないのではないか。とすると先に構成要件該当性を争って、次に違法性判断を争うという刑事裁判の仕組みがどうも変な気がします。

 宮本さんの意見書のなかには、そもそも構成要件該当性を判断するのにも、違法性評価が入り込んでいる、むしろ先行している、と書いてありました。これには、これまで謎だったものがひとつ解けた気がしました。

 このあたりのことをお願いします。

 

宮本

 昔は「姦通罪」の規定がありました。不倫について女性だけを処罰するという酷い法律でしたが、現在では廃止されています。また、借金を期限までに返済しないと「債務不履行」という民法上の不法行為となりますが、債務不履行罪という刑法の条文はありません。債務不履行は民事賠償の対象にはなりますが、(黒岩さんのように)逮捕されて139日間も勾留される、ということにはならないわけです。

 なぜかというと、先ほどの「過度に広範な刑事規制の禁止」とも関係しますが、立法段階(刑罰法規を創設する段階)で、どのような行為に対して国家の物理的な実力=暴力である刑罰を科すべきか、という評価があらかじめ存在するわけです。

 つまり不倫なんて、婚姻制度への侵害ではあるかもしれませんが、恋愛や性的自由という自由の行使の問題でもあります。これに国家が物理的な実力=刑罰をもって干渉すべきかどうか、というあらかじめの判断が先行し、「やはり刑法で介入することは許されない」と帰結したわけでしょう。

 このように、刑法典をはじめ、あらゆる刑罰法規に規定されているのは、刑罰という国家の暴力をもってしてでも介入すべきだとあらかじめ評価された行為だけであり、その意味で、違法性評価が構成要件に先行している、といえるわけです。

 このことは刑法の謙抑性・断片性・補充性の観点からは当然の帰結です。ありとあらゆる社会的な紛争の全てに刑法が適用されるわけではないという以上、このことは至極当然というべきでしょう。

 ここからが、質問の本旨だと思います。

 「威力を用いて人の業務を妨害した」、これは国家の暴力をもってしてでも介入すべき事柄である、という評価(つまりは違法評価)があらかじめあって、威力業務妨害の構成要件を規定する威力業務妨害罪が制定されました。

 しかし、刑法の謙抑性・断片性・補充性の要請が働く限り、国家が刑罰をもって市民の社会活動に介入することは、極めて抑制的で限定的でなければなりません。威力業務妨害罪でいえば、「威力を用いて」「他人の業務を」「妨害した」というそれぞれの要件について、抑制的で限定的な解釈が求められるわけです。

 「直観的に」という言葉をよく使うのですが、ありありと明確に心の中にイメージできるようなかたちで、「これは許されない」というような威力業務妨害のみが刑法234条の構成要件該当性に該当し、違法性を有するということです。そうでないと、罪刑法定の原則の「過度に広汎な処罰の禁止」に反して、憲法31条に違反する法適用になると思います。

 その意味では、構成要件に対して違法性の評価が先行する、ということもできます。ただ、罪刑法定の原則から明らかなとおり、構成要件に該当するかどうかの判断は、裁判官の恣意や専断(勝手気ままな判断)を排して、市民に対して予測可能なものでなければなりません。自分の振る舞いが構成要件に該当するかどうか予測できないと、自らの活動が国家の暴力的な介入を招く危険を払拭できず、市民の行為の自由を確保することができないからです。

 したがって、その場しのぎの機会主義的な、あるいは便宜主義的な裁判官の判断を許さないためにも、構成要件該当性の判断は斉一的で類型的な判断でなければなりません。ところが、違法評価は個別的で具体的な事柄(事実)に及びますから、違法判断は必ずしも斉一的で類型的なものとはなりません。要するに、刑罰法規による構成要件の創設に対しては(一般的な)違法評価が先行しますが、それとは逆に、有罪認定プロセスとしては斉一的で類型的な構成要件該当性判断が個別的で具体的な違法判断に先行しなければならないわけです。

 これを逆にして、有罪認定プロセスにおいて個別具体的な違法判断を先行させると、ある意味で戦前の治安維持法裁判に戻ることになるのです。

 

―― ああ、ある意味そうなるのか。

 

宮本

 戦前の刑事裁判は「形よりも実質」です。裁きの対象は(外形的な)「行為」ではなく、被告人の(思想・信条に及ぶ)「人間性」そのものでした。有罪宣告は、法的のみならず道徳的にも、まさに被告人の人間性を全否定するものでした(「非国民!」)。

 「形」としては犯罪とはみなしにくい行為であっても、その内実は「日本的な道義」とか「天皇制の倫理」に抵触する。つまり、構成要件に当てはまる行為であるかどうか微妙だとしても、あるいは構成要件に該当しない行為であっても、それが「日本的な道義」を侵害すれば違法であり処罰すべきである、戦前・戦時の刑事司法はこうした論理で市民の自由に対する国家権力の暴力的な介入を許してきました。だから戦後刑法学は、外枠より内実が先にあるんだ、という議論は絶対にしてはならない。いわゆるリベラリズムです。

 有罪認定において外形(客観的事実)を先行させることは決定的に大事です。ただ、その外形(客観的事実)がなぜ処罰されるのかといえば、国家の暴力をもってしてでも規制し抑止しなければならない事実だ、という違法性評価が先に存在するからだ、ということなのです。

 

―― 今のお話はとてもよくわかりました。ただ実質的に今は、外形の規範が強すぎる気がします。戦前は、外形の判断がないがしろにされて、内実が肥大化して、外形なんてどうでもいいんだ、となってしまった。それへの反省から、戦後の刑法(学)はまず外形判断が大事になった、という経緯はひとつ大事にしなければならない、ということですね。

 でも今はまさに「犯罪行為の外形を満たしているから」というのが非常に画一的・抑圧的に適用されています。今回の弾圧でも形式的に構成要件を満たしているから有罪っていうやり方に、現実問題としてはなってきてしまっている。

 そういう現状を批判的に考えるうえで、実は違法性評価が構成要件に先行しているんだ、という問いを宮本さんの方から立てている、という、そんな理解でいいでしょうか。

 

宮本

 はい、そうですね。

 

刑法234条「威力業務妨害罪」の特徴について

―― この点については、今後も考えていきたいと思います。特に社会運動に対する弾圧を考える上では重大なテーマだと思います。

 次に、「威力業務妨害罪」の内容に入っていきます。

 私たち、黒岩さんが爆竹でパクられて、最初はなんの罪状かも分かりませんでした。それで弁護士さんに接見に行ってもらったら、どうも威力業務妨害罪だということで、初めてその被疑事実と向き合いました。威力業務妨害というけれど、何が威力で、どこが業務妨害だったのかのがよく分からないところもありました。

 それからまた数日すると、勾留状が宅下げされてきました。それを読むと、どうも「聖火」イベントそのものに対する業務妨害ではなく、イベント会社の社員に対する業務妨害であるらしい、ということが分かったわけです。

 最初に弁護士さんに聞いて一番驚いたのは、「威力業務妨害罪は妨害の実態・結果がなくても成立する」ということでした。これはかなり衝撃的でした。これではほとんど何も限定がないじゃないか、という気持ちになりました。

 こういう法律が公安事件の弾圧に使われるようになると、果てしなく弾圧の可能性が高まってしまうのではないか。

 つまり「被害者」と名乗り出た、あるいは警察や検察が白羽の矢を立てた人物が、「自分は威力を受けました。業務妨害されました。」といえば、形式上は成立してしまう。客観的な妨害結果が不要なわけですから。こういう罪状を公安事件で使うことについての危険性について、最初にお願いします。

 

宮本

 威力業務妨害罪とか、住居侵入罪もそうですが、独特の規定なんですよね。

 例えば殺人罪だと、殺した対象が人間にあたるかどうかは、条文の文言をどのように定義するかで定まります。つまり殺人の対象となる「人」を定義すれば、その意味と範囲は確定します。

 例えば胎児の状態から母体外に一部でも出てきたら「人」である、とか。全部出てきて独立肺呼吸を始めた段階で「人」である、とか。そういう議論です。殺人罪が成立する「人」に該当するかどうか、これは定義の問題です。

 あるいは「人」の中に自分自身も含まれるかどうか。「含まれる」とすれば自殺も殺人罪ということになりますね。でも、ここでいう「人」は自分以外の人である、と一旦定義してしまえば、自殺は殺人罪には該当しなくなる。死体は人には含まれないし、熊も人には含まれない。「この子は私の家族です」といくら主張しても、犬を「人」に含めることはできません。

 このように、条文にある文言を定義してしまえば、犯罪にあたる行為の「外枠」は動かないわけです。

 ところが、威力業務妨害罪の「威力を用いて」という部分の解釈について、判例は、「人の意思を制圧するに足る勢力」としています。こんなこと言われたって、いま殺人罪でみた「人」のような定義はできますか? 不動の「外枠」を画定できませんよね。

 定義できないから、裁判所はさらに悪あがきをして「四囲の状況からして威力(人の意思を制圧するに足る勢力)といえるかどうかの問題だ」と言います。一般的な定義ができないから、対象行為が行われた状況を考える、つまり個別的で具体的なその時の状況から威力といえるかどうかを判断する、としているのです。

 要するに、威力といえるかどうかはケースバイケースである、と裁判所が自ら認めているわけです。

 ケースバイケースというのは、もはや定義ではありません。「威力を用いて」という行為の「外枠」を画定できないからです。

 「外枠」を画定できないということは、「威力を用いて」という文言の「解釈」ですらない、ということです。「解釈」とは、言語的に表示される概念、「威力を用いて」とはどういうことかの「外枠」を画定させる論理形式だからです。

 先ほどの「人」の解釈(つまりは定義)のように、「人」という概念の「外枠」が画定していれば、ある行為が「人」を殺したといえるかどうかの認定について、その適否・正誤を判断したり批判したりすることもできます。

 しかし、威力業務妨害罪の「威力を用いて」については、このような意味での「解釈」を許さない、というのが裁判所の姿勢です。そうすると、「解釈を許さない」わけだから、裁判官に対して「これは威力の行使にあたらない」という反論も意味をなしません。

 だってそうですよね。裁判官の「威力の行使だ」という認定は、ケースバイケースの判断でしかありませんから、それに対して、ロジックの問題として「その判断は間違いだ」という反証ができないわけです。そういう条文(解釈)になっているわけです。

 このように、裁判官のケースバイケースによる判断には限定や拘束がありません。この条文の適用を抑制し限定するには、やはり「解釈」が必要です。ケースバイケースの判断を限定する「準則」を確立し、「威力を用いて」という場合に満たさなければならない要件や基準を明示して、「準則」が示すそれらの要件や基準をすべて満たさなければ威力の行使に当たらない、そういう判断を可能とすべきでしょう。私が書いた「武蔵野弾圧裁判」意見書では、例えば相手方の活動の自由を完全に制圧しさらにその自由の断念・放棄を迫るような有形力の行使に限定すべきだ、と主張しています。やはり、「威力を用いて」の「定義」によって限定するしかないのです。

 しかし残念ながら、日本の裁判所にはそういうカルチャーがありません。

 このことは、日本の刑法典の歴史にも関係しています。現在の日本の刑法典は1907年に制定されました。この日本の刑法典は、ナチス刑法と並ぶ「社会防衛刑法」の典型だといわれています。

 世界史の大きな流れをみておきましょう。19世紀末から20世紀初頭の世紀の転換期、資本主義の矛盾・行詰まりが顕著に現れて都市の治安が悪化し、社会防衛的な刑法の制定という運動が各国で起こります。この時代、先ほどお話したような近代刑法は自由保障を重視する刑法だから、国家にとって、治安維持・強化にとって役に立たないとして批判されます。だから近代刑法の理念に沿うような自由主義的な刑法をかなぐり捨てて、国家にとって有益で使いやすい刑法を制定しようという運動が各国で生じました。その典型が、(もはや廃止された)ナチス刑法と、現在も生きている日本の(現在の!)刑法典というわけです。

 100年以上の時を経て、日本の刑法典は現在もなお生き続けています。敗戦後も刑法の根本的な全面改正ができなかったからです。そういう法的な伝統のなかで、判例がずっと積みあげられてきたのです。

 法律を勉強する者にとってすごく不思議に思うことがあります。私も学生時代に不思議に思ったのですが、例えば「因果関係」の重要な判例を学ぼうとすると、戦前の判例も出てきます。日本国憲法以前の判例が、日本国憲法下においても、現在の裁判所の判断を支配し拘束する先例だとされているわけです。

 このように、日本の刑事司法では、敗戦の前後を通じて、国家万能主義の刑法解釈や刑法適用が一貫して継続しています。そういう法文化を背景として、いま申し上げたような威力業務妨害罪の無限定な適用も、そのまま許されてきたのだと言えるのではないでしょうか。

 先ほど申し上げたとおり、判例によれば「妨害結果」も不要です。さすがに学説は、妨害結果を必要とするという人も多いのですが、あくまで「有力な反対説」にとどまります。判例は、現実の業務妨害結果の発生は不要で、その結果の「抽象的危険」があれば足りるとしています。

 「抽象的危険」とは分かりにくい言葉ですが、その行為の中にほんの少しでも妨害結果を発生させる「可能性」が含まれていれば抽象的な危険がある、ということです。その判断は、もちろん裁判官に委ねられます。

 こうなってしまうと、どんな行為であれ、「妨害結果」の抽象的危険があるとされかねません。具体的に見てみましょう。黒岩さんが爆竹を鳴らして、今回の件ではイベント社員が「一瞬びくっとした」という。現実の結果は「一瞬びくっとした」だけなのに、妨害結果の抽象的危険は肯定されます。裁判官が、現実に生じた事実に架空の「はみ出し」や「上乗せ」を加えて、第2、第3の爆竹破裂の可能性も排除できない、混乱の中で誰かが転ぶ(そして怪我をする)可能性も排除できない、このように認定するからです。

 爆竹を(1回だけ)鳴らしたという(現実に生じた)行為の「危険性」をどう捉えるかが問題ですが、その判断は裁判官の裁量に任されてしまっているのです。これでは、どんなことだって「危険がある」「妨害した」と言えてしまいます。だからこそ先ほど述べた「武蔵野弾圧裁判」意見書の主張のように、仮に現実の妨害結果は不要で「抽象的危険」で足りるにしても、それは相手方の活動の自由を完全に制圧しさらにその自由を放棄させ断念させるという「抽象的危険」でなければならない、と考えるべきでしょう。

 大事なことなのでもう一度繰り返します。現在の日本刑事司法の文化・風土は、ナチス刑法と同様の社会防衛刑法の中で形成されました。しかもその完成型は、1941年以降の治安維持法や国防保安法の裁判のような、戦時体制下の刑事司法の下で確立したという歴史的事実が重要です。いわば、思想的総力戦体制下の思想国防司法が、現在の日本の刑事司法の原型だということです。

 戦時体制下の刑事司法は、驚くべきことに、そして残念なことに、1947年施行の日本国憲法下でも、修正されることなく現在まで温存され生き続けています。こうした刑事司法のモードあるいはカルチャー、様式や文化が、武蔵野五輪弾圧のような現在のこういう刑事弾圧を可能としているわけです。このことを特に今日は確認しておきたいと思います。

 

市民的治安主義とは何か

―― 戦前の社会防衛的な発想に貫かれた刑法体制が、根本的な反省をされることのないまま現在も続いている、ということですね。

それに加えて、意見書でも言及されている「市民的治安主義」について、次に伺っていきます。

 1990年代以降、特にオウム事件以降になると思いますが、1990~2000年代に、刑法だけでなく自治体条例とか様々な形をとって、日常生活の中における治安主義のようなものがはびこってくる、立法化されてくるということがありました。ちょうどそのころ私も運動をやり始めたころだったので、よく覚えています。

それをまとめて「市民的治安主義」という言い方で批判がされていました。宮本さんの意見書にも紹介されているので抜粋します。

「(市民的治安主義とは)市民的安全の擁護という名の下に国家刑罰権を市民の日常生活の隅々にまで浸透させることを目的とし、市民的秩序の実力的貫徹を目指す動き」(内田博文『日本刑法学のあゆみと課題』2008より)

 会場の皆さんはヒシヒシと感じることだと思いますが、今回の武蔵野五輪弾圧でも、「オリンピック反対なんてけしからん」といって捕まるわけじゃありません。そうじゃなくて、「一民間人の仕事の邪魔をしたから」という理由で逮捕され、起訴され、139日も拘束されているのです。これが市民的治安主義、なわけですよね。

 例えば反戦ビラ弾圧も、最初は官舎に住んでいる自衛官の平穏な市民生活が妨害された、という形で起訴されました。

 だから、反体制的なスタンスで大きな権力に抗議をしているつもりでも、それがいつのまにか、たまたまその場にいあわせた人の邪魔になったとか、迷惑になったという理由で弾圧されてしまう、ことが起きています。

 こういった動きが戦前から続く日本の危険な、反民衆的な刑法体制の上に接ぎ木されているのかな、と思います。

 

宮本

 「市民的治安主義」というと、いまの若い人たちは一見良い言葉と受け取るでしょうね。どんどん貫徹すべきだ、という風にね。それは「市民」という言葉の両義性によるのだと思うんですけどね。

 僕より10歳くらい上の先輩たちは、大学紛争で火焔瓶を投げたりしたこともあるような世代だと思いますが、その時代の警察は「ありとあらゆる法規を動員して学生運動を取り締まる」という方針を実行に移しました。「ありとあらゆる法規」のなかには、例えば道路交通法のように、本来は政治運動を取り締まる(政治的)治安法ではない法律も含まれます。そのような法律をも動員して、政治運動を取り締まることが平然と行われたわけですね。

 小田中聰樹とか吉川経夫のような、私の大先輩に当たる刑事法学者は、こうした動きを「機能的治安法」といって批判していました。

 いま起きていることはそれと同じなんですが、社会の側の感受性に著しい変化が生じていると思います。1960年代~70年代の政治の季節を過ごしてきた方たちは、恐らく「市民社会が国家に併呑される」こと、「市民社会が国家と同質化する」ことを断固拒否して、市民VS国家という対立図式をきちんと描けていたのではないか。その意味では、近代自由主義の意義を図式とおりに理解できていた世代だろうと思います。

 つまり、権力側の権限が大きくなればなるほど、総体としての市民社会の自由は縮小する、という「現実」をしっかり理解していたということです。そうすると、市民社会の自由を確保するためには、権力側の権限を可能な限り小さくしなければならない、と考えるのが当然で、そうした思考の下で色々な社会運動や悪法反対運動が実践されたわけです。

 しかし特にオウム事件以降、―嫌な刑法学者の顔がいっぱい頭に浮かびますが(笑)―、オウム教団の一連の事件を経験した現在、いくら話し合っても理解し合おうとしても結局のところ根本的に理解し得ないような、私たちとは価値観を根本的に異にする集団が存在する、その事実を我われは知ってしまったのだ、という考え方が現実味を帯びて台頭してきます。

 この主張は、国家VS市民社会という先ほどの図式と異なり、「国家と市民と敵」という三極構造を前提としています。

 それはこういう考え方です。「市民」と「国家」はある種の対立構造ないし敵対構造にはあるけれど、「敵」に対しては共通して対処しなければならない、と。例えばテロリズムに対しては、市民と国家がともにテロの不合理な暴力に対して敵対しなければならないというわけです。

 その考えに従うと、「市民的治安主義」によって失われるのは、決して市民の自由や権利ではないですよ、となる。もともとこの市民社会の外側にある「敵」の自由や力を減殺し剥奪するために、本来なら憲法上疑義があるような自由侵害も認めてください、という論理で刑罰法規が創設される。盗聴法、共謀罪特定秘密保護法もそうです。こういうロジックだったわけです。ストーカー規制法危険運転致死傷罪なども、このロジックの延長線上にありますね。

 このロジックの何が危ないかというと、市民社会が国家に併呑されて、市民社会と国家が一体化してしまうことです。そうすると、市民社会の側から国の権力を抑制したり削減したりするという(運動の)契機はすべて失われてしまう。例えば黒岩さんのような運動の正当性も、もはや認められないことになってしまう。

 裁判を英語ではトライアルといいますが、なかなか示唆的ですね。一つひとつの裁判は、国家によるトライアル(試みの実践)です。黒岩さんのような運動は社会への敵対行動だ、こういう行為の非道徳性・反社会性を裁かなければならない、そういう一つ一つのトライアルとして裁判が営まれているのです。そしてその裁判の結果、社会運動の信用性が一つ一つ失墜させられていくという状況です。

刑事裁判で、黒岩さんのような社会運動に有罪判決を下すことにどのような意味があるのか。

 それは、「オリンピックに反対するなんて、まっとうな市民の価値観や倫理観に反します」という国家の宣言なんです。その宣言は、市民(社会)に対して、オリンピックに賛成はしないまでも、「声高に反対したり、反対を行動で示すことは、少なくともこの市民社会の価値観や道徳に反することなんだ」というメッセージとして受け止められる。治安維持法裁判が、「非国民」として被告人を裁き、彼/彼女らの思想や運動の(倫理的)正当性を否定したのと同じです。

 まさに権威主義的国家の裁判と同じことが現在も行われているわけです。市民的治安主義とは、このような刑事裁判の先祖返りという側面をもつ現象として、注意を払わなければならないと思います。

 

―― そのあたりの話は現実に運動している中でヒシヒシと感じます。例えば、主張の内容以前に「うるさい」とか「迷惑だ」って言われるパターンが最近すごい増えていますからね。

 

表現と妨害のはざまで

―― そのあたりの話は現実に運動している中でヒシヒシと感じます。例えば、主張の内容以前に「うるさい」とか「迷惑だ」って言われるパターンが最近すごい増えていますからね。

 それと関連してもう一つ。

 今回一審判決のなかで、黒岩さんの行為は「表現の自由」の行使である、このことは一応裁判所も認めています。表現の自由の行使だけど妨害行為なのだ、として有罪判決を下している。私たちはそれに対して、「表現であって妨害ではない」と返しています。

 しかしよく考えてみると、「妨害」と「表現」ってそんなに簡単に分けられるのかな、というのが率直な疑問としてあります。

 弾圧当日も、私たちの仲間が会場の入り口付近でマイクアピールの抗議活動をしていました。そこに関係なく黒岩さんがやって来て、爆竹パパーンとやったわけです。でもこれどっちがうるさかったのか、妨害力(?)が高かったのかっていうことが、いまだに我われ分からなくて(会場笑)。爆竹なんてほんの一瞬だけど、マイクの方は1時間以上ダーン、ギャーンとやっていたんですから。

 一審判決では、マイクアピールが認められていたのだから表現の自由は保障されていた現場だったのだ、という理屈になっています。でも、その実態を考えると危ないところがあると思っています。今回の爆竹が「ダメだ」という一審判決の理屈をずーっと追っていくと、どう考えても、「トラメガでやるのもダメだ」という理屈にならざるをえない。

 実際に運営は、抗議が来てから入口の位置を微妙に変えていることが当日の映像からも見て取れます。反対運動対策としてそれくらいはやるでしょう。それを「業務妨害だ」って言われちゃえば、それだって成立してしまうのではないでしょうか。

 つまり色々考えてみると、そもそも「表現」と「妨害」って切り分けられるのかという問題が根本にあるのではないか。

 なにかを「表現」するということは、人の心に働きかけて考えを変えようという行為ですよね。だからある意味では常に「妨害」的な側面があるのではないか。これはかなり根本的なテーマですが、「妨害」と「表現」の関係というのを宮本さんはどのようにお考えですか?

 

宮本 

 これからお話しすることを裁判所は絶対認めません。憲法学者にも叱られるかもしれない。でも、表現の自由にかかわらず、そもそも基本権(基本的人権)というのは次のように考えるべきです。

 基本権とは、本来的には近代国家の成立以前にも存在しているはずのものだった。しかし近代以前の国家では、基本権は封殺されていました。それが革命的な暴力をともなう主権の転換によって、革命後の政権によって、近代国家以前の権利が法的権利(=基本権)として立ち現れたのです。本来、国家の庇護を要しない「放し飼い」であるべき権利が、国家によって庇護され保障される「飼いならされた権利」として定着したわけです。ある意味おかしな来歴といえるかもしれません。

 基本権は、ベンヤミンのいう法措定的な暴力、つまり革命暴力と密接に関係します。革命をもたらすのは、殺人であり器物損壊であり、暴動であり、いわば通常であれば許されない暴力です。そうした革命の暴力によって正当な権力が樹立される。そして革命以前に抑圧されていた権利が、公認された権利として、いわば飼い慣らされた権利として法に書き込まれます。基本権とはそういう歴史を持っているわけですね。

 でもいま井上さんが言ったように、表現の自由は、そもそも人に働きかける行為です。例えば私がマイクをもって話しているこの行為と、爆竹を鳴らす行為と、あるいはラッカーインクで公衆トイレの壁に「スペクタクル社会」と大書する行為と、何が違うんだって、そういう話ですよね。

 基本権の根源は法措定的暴力、つまり革命暴力です。基本権保障は、だから権力側にとって、(現体制の崩壊をもたらす)法措定的暴力への回帰を許すことになります。基本権を完全に保障することは、権利/自由の行使に対する法の規制を全て無効化することを意味しますから、権力にとってはそこに法秩序の空白・空隙を許す、ということに直結するわけです。これは権力が最も恐れ、忌避することです。

 権力は、稀なことですが、自分たちの力の行使のあり方の変更・変容なら受け容れることもあります。しかし、力そのものを手放すことは絶対に受け容れません。だから権力は、憲法に対して一番厳しい姿勢を取るわけです。憲法は基本権を保障することで国家/権力を拘束し、基本権保障を貫徹すると法規制の無効化が生じて、法秩序の空白を作り出すからです。

 そこは相当深刻に認識しておかなければなりません。私たちはよく「それは憲法上の権利です!」と叫んでいますけど、権力は実はそこを一番嫌がっているわけです。

 彼らが一番念願しているのは、(彼らを縛り付けている)憲法そのものを無力化することです。すべての権利を飼いならすことが彼らの念願です。だから、私たちの側から権力の空白地帯を作り出すような主張は認めません。「表現の自由は祭りだー」とかいって、あらゆる法秩序から脱して表現の自由が許されるような空間、例えば「パブリックフォーラム論」のように一時的にそういう空間を認めよう、という主張すら権力は認めないでしょう。残念ながら、裁判所もその点では「権力」の一翼にほかなりません。

 井上さんの言いたいことは分かります。しかし、法廷闘争を進めるうえで「憲法上の権利なんだから」という議論を立てるとき、そもそも大きな壁が立ち塞がります。裁判所は、そもそもそうした主張を認めません。何のための裁判所か、そう思いますが、それが日本の刑事司法の現実です。

 だから逆に裁判所は、「それが保護されるべき表現行為であることは確かであり、検討する価値はある」と言っておいて、帰結としては信じがたいような結論を導くわけです。

 

―― 基本権を認めるというのは裁判所にとって一種の「見せかけ」なんですね。

 

宮本 

そういうことです。相手の最も嫌なところを突こうとしているゆえに、やるなら相当の論理構成をもって、歴史的な事実や社会的な事実を積み上げることによって、裁判官を説得しなければならないと思いますね。

 

―― そういう「そもそも論」までいかないと、基本権の問題を論拠とすることは難しいということなんでしょうね。

 

宮本 

酒井さんの意見書で主張される「市民的不服従」もそうです。権力にすれば「許された秩序のなかで行儀よく振舞うことが市民的不服従」なわけです。

我われに行儀のよさを求めるんですよ。現行の秩序や価値そのものには逆らうなよ、と。「ここだけは見直してよね」っていうやり方なら許される。つまり、こちらは権利/自由の闘争を仕掛けているのに、まるで権力側の温情にすがるかのような社会運動だけは許してやろう、これが日本の裁判所の姿勢です。

 残念ながら、日本の市民社会そのものに権利や自由に対する原理的な理解が欠落している、そんな状況に立ち至ってきているんじゃないでしょうか。

 

武蔵野五輪弾圧裁判―一審判決の問題性を中心に

―― 最後に本件裁判の具体的なことについてお伺いします。

 宮本さんの意見書のなかで弁護団も一番参考にさせていただいたのが、「威力業務妨害罪を因果のエポックとして適用すること」への批判があります。

 つまり、黒岩さんがやった抗議には一連の流れがあるわけで、どういう理由で、どういう気持ちでやったかということも含めての一連の流れなわけですが。その中の、ピンポイントで一部分だけを切り取って、つまり「イベント会社員の業務を一瞬邪魔した」ということをもって、全体を有罪とするというやり方です。公安事件ではおなじみの手法と言えると思います。

 今回は威力業務妨害でしたが、建造物侵入でも何でも、全体の中の一場面を切り取って、なんでここにこんな罪状が出てくるんだ!? というのを適用していくことをどう評価しますか。

 

宮本 

 信じがたいですよね。今回の事例では、明らかに「イベントそのものに対する妨害」という構成ができないから、こういうやり方で起訴して有罪を導いているわけです。

 例えばサッカーでいうと、第1パス、第2パス、そして第3パスがあってゴールにいたったとしますね。本来であれば、ゴールを阻止したか、あるいはゴールしたかが判定の対象で、それは、裁判における有罪・無罪の法的な論争点でも同じはずです。ところが本件では、第1パスあるいは第2パスの段階で威力業務妨害だとされているわけです。つまり、最終的なゴールの成否はどうでもいい、そういう起訴であり、そういう審理だったわけです。これには二重三重の問題があります。

 例えば陪審制度で、黒岩さんのようなケースで起訴を認めるかどうかについて、市民12人が集まって全員一致じゃないと起訴できないというような、起訴陪審(大陪審)制度を採用していたら、こんな起訴ができたでしょうか?

 通常の刑事裁判と市民感覚は、(被告人の防御権保障を通じた「無罪の発見」こそが刑事裁判の使命ですから)違っていて当たり前ですが、少なくとも「業務妨害」というとき、刑罰という国家の峻厳な暴力を科すに値する「業務妨害」とはどういうものか、その直観的なイメージを持つことは、やはり大事だと思います。

 そのような直観的イメージを大きく外して、一連の行動の因果プロセスを切り取って、これが「業務妨害」に該当する、あれが「業務妨害」に該当するとして、検察官に好都合な選択的な起訴、まさに機会主義的・便宜主義的な起訴を許してしまうと、市民の活動に対する不意打ち的な刑事訴追が横行し、先ほど述べた「市民的治安主義」を全面化するような起訴実務を許すことになりかねない。まずその点だと思います。

 起訴陪審の話をしましたが、日本の刑事裁判では、「起訴便宜主義」といって、起訴するかどうかは検察官の裁量にゆだねられています。この検察官の起訴裁量権があまりに強大で、それを統制する制度がまったく機能していません。例えば、公訴権濫用論という考え方によると、検察官が本来は起訴すべきでない事案を起訴した場合、裁判所は公訴を棄却する権限があるはずなのに、裁判官はそれを自ら「死に体」の状態にして「お蔵入り」にしています。公訴権濫用による不当起訴を棄却する権限があるのに、裁判所が自らそれを封印し、放棄しているわけです。

 だから、刑事法内部の理論や訴訟技術を駆使しても、不当起訴を批判し抑制するための理論構成はなかなか難しい、それが現実だと思います。本当に許しがたいことではあるのですが。ただこの点は裁判所にいくら訴えても、裁判所は動かないでしょうね。ですから、この点については意見書でも、公訴権濫用論よる公訴棄却が本来の裁判所のとるべき手段であると言及するにとどめています。

 意見書の主たる主張は、当然のことながら黒岩さんの「無罪」です。黒岩さんの「行為」は法解釈として威力業務妨害にそもそも当たらない。裁判所のように「抽象的危険」があれば十分だとしても、本来は黒岩さんの行為によってイベント会社の社員が業務を継続する意思を完全に放棄し断念する、そのような結果発生の「抽象的危険」が存在しなければ本罪は成立しないということです。

 今回の件で、イベント会社の人は自分の業務を放棄しようとは全く思っていません。むしろ業務を遂行しようとして、黒岩さんの制圧に手を貸しているわけです。まして最後のゴールのところである式典そのものの妨害は生じていない。

 そうすると、妨害結果(の抽象的危険)がどこにも生じていない。おそらくこういう争点を設定しなければ裁判官は聞く耳をもたないでしょう。もっとも、そうした争点の基礎に、先ほど述べた近代刑法原理、とりわけ罪刑法定の原則の要請が働いているのだということ、これが私の意見書の「キモ」です。

 

自由への一つの希望を育てるために爆竹無罪を

―― 本来であれば起訴すべきじゃない事案を、起訴するためにある種の無理をした論立てをせざるをえなくて、しかもそれを裁判所がOKしてしまう。そして有罪判決までいってしまうということですね。

 最後の質問です。控訴審ですが、どこまで期待できるかは別にして、宮本先生からみて「高裁はこうあるべきだ」というのを最後に話してもらえればと思います。

 

宮本 

 日本の刑事裁判の有罪率が異様・異常な高さだということはご存じだと思います(99.9%)。それでも無罪率が0%ではないのも事実です。

 ところで先ほどお話したとおり、1941年以降、思想的な総力的体制下で、国内治安の強化のために、日本の刑事裁判のモードが大きく変わりました。それが現在の日本国憲法下でも維持されている、というのも既にお話したとおりです。

 その直前、日中戦争が本格化した1938年の無罪率は0.96%、1941年以降も0.5%前後です。刑事裁判の暗黒時代の無罪率です。

 

―― 今より…

 

宮本 

 そう、今より無罪率が高い。日本の刑事裁判は本当に絶望的なんです。絶望的なんですが、私は案外楽観的で、弁護士の先生に叱られるかもしれないけど、先生たちの奮闘によって、無罪判決を勝ち獲れるんじゃないかな、と。

 

―― マジですか…

 

宮本

 たしかにね、裁判所の論理も倫理も心理も、オリンピックに反対するような被告人は、国家に弓引く極悪人ということなんでしょう。日本の刑事裁判というのは、これまで述べてきたとおり、行為を裁くんじゃなくて、被告人の全人格を裁きますからね。しかも道徳的に。

 でも、3000人近いの裁判官の中には、まともな人も20人や30人はいます。その20人や30人は、たいていの場合、法服をまとって法廷に座っています。国家と一体化した裁判所の論理と倫理と心理を体現する、ほんとに極悪・最悪の裁判官は、法服を身につけることなくキャリアのほとんどを背広で過ごします。裁判所の中の行政官として働いているわけです。そうした人が高裁長官や最高裁裁判官に登りつめていくわけです。

 刑事裁判自体が、現実問題として、運不運のところがありますよね。袴田事件もそうです。袴田事件にはこれまで24人の裁判官が関わっていて、その裁判官の固有名詞を振り返ってみると、なかには無罪判決書いているような立派な人もいるんです。いや、無罪判決はますます厳しい、という話になりそうな……。

 しかし、この裁判は本来無罪判決を勝ち獲るべきものであるし、弁護士の先生たちの主張は堂々たる無罪の主張です。この主張を貫徹して絶対に無罪判決をとらなければならない、そういう案件だと思っています(会場「よーし」)

 それを支えるのがこういう社会運動です。いま報道などでも、法廷闘争と裁判闘争をきちんと区別して理解できていないようです。けれども、法廷闘争は弁護士の先生にお任せして、私たちが支えられるのは、広く社会のありようや権力のあり様を批判する(大衆的な)裁判闘争です。裁判闘争というのは、本来そうした社会における広範な大衆運動を指して用いられる言葉ですから。

 裁判闘争に参加して、それを支える一人ひとりの力と思いが、黒岩さんの無罪を勝ち獲る力になります。それは黒岩さん一人の無罪を勝ち獲るという局地戦の勝利にとどまりません。先ほどお話したような、憲法以前の、近代国家以前の革命暴力ないし法措定的暴力の行使に連なる基本権行使の実践として、そのような抗議・抵抗・不服従の自由を国家の利害に優越するものとして確立してゆく運動だからです。

 そうであればこそ、私たちの自由にとって、一つの「希望を育てる闘い」として、この裁判を位置づけて闘わなければならないと思っています。

 そういうわけで、売れてる刑法学者が「これは難しいですね」といった事件であるにもかかわらず、売れない刑法学者の私が意見書を書くことにいたしました。最初の自己紹介にもどって、お話を締めくくろうと思います。ご静聴、ありがとうございました。(会場拍手)

 

―― ほんとに力強いお話でした。黒岩さんの裁判は自由への希望である、と。ほんとに私たちも、救援活動やっててよかったな、と思いました。この2年間、無駄ではなかったな、という気持ちになれました。ありがとうございました。(拍手)

宮本弘典さん(関東学院大教授・刑法)

 

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(後半) ーいわゆる「武蔵野爆竹事件」における威力業務妨害罪の成否をめぐって…宮本弘典氏意見書

宮本弘典(関東学院大学教員、刑法・刑法史)

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(前半)は「1.第1審判示と認定事実 2.威力業務妨害罪成立の無限定性 3,業務妨害罪と可罰的違法性 4.刑法上の違法性とソフトな違法一元論」は→

kyuenmusasino.hatenablog.com

5.過度に広汎な刑事規制の禁止と違法性判断

 以上のとおり,実務においてもソフトな違法一元論を前提とする可罰的違法性の思考は実践されている。注意すべきは,ソフトな違法一元論であれ可罰的違法性の概念であれ,その自由保障機能は,いずれも行為原理/侵害原理を指導原理とする違法性という犯罪論カテゴリー内部の理論的問題に止まらず,罪刑法定の原則と連結していることである[1]

 具体的には,実体的デュー・プロセスの要請という,罪刑法定の原則の実質的人権保障原理としての側面が問題となる。たしかに,罪刑法定の原則は「法律なくば犯罪なく,刑罰なし―nullum crimen, nulla poena sine lege」という形式的側面を歴史的沿革とし,行政権と司法権に対する拘束原理として生成した。しかし,形式的合法性を充足する「法律」が市民の日常的な自由―「普通の人たちの普段の生活」[2]―を根こそぎ奪い去ったという事実は,20世紀前半期のファシズム支配の歴史に明らかなとおりであろう。いまや,自由保障原理としての罪刑法定の原則は,行政権と司法権のみならず立法権をも拘束し,刑罰法規は形式的な合法性に加えて実質的な合法性をも持たねばならず,明確な刑罰法規及び適正内容を有する刑罰法規の立法の要請―明確性の原則及び刑罰法規適正の原則―を含むものと解されている。憲法31条の「法律」とは「適正な法律」―明確性の原則及び刑罰法規適正の原則を充たす法律―を意味し,適正ならざる法律(の立法及び適用)は,憲法81条による違憲審査権により,憲法31条違反として違憲・無効とされる。このように解するならば,罪刑法定の原則は―社会防衛刑法として誕生した現行刑法典は罪刑法定の原則の規定を有しないものの―憲法31条にその基礎を見出すことになる。憲法31条により,立法権力には―罪刑法定の原則の要請として―厳密かつ明白に必要な,つまりは明確で適正内容を有する刑罰法規の立法のみが許容され[3],このような厳格な合理性―必要性と相当性―を充足しない刑罰法規は,すべて憲法31条に違反し無効とされる―べきである―ということである。留意すべきは,例えば表現の自由や思想・信条の自由,あるいは平等条項といった個々の基本権条項に違反するとは認められない場合でも,当該刑罰法規(の適用)の厳密かつ明白な必要性が認められない場合には,憲法31条により,その刑罰法規(の適用)は違憲無効だとされることであろう。

 このように,実体的デュー・プロセスの思考によれば,罪刑法定の原則は法律による事前告知という形式原理に止まらず,憲法的な要請による実質的な人権保障原理だと解されねばならないことになる。現に,小野清一郎―刑法による国家道義の実現・貫徹を主張し,権威主義国家としての高度国防国家の戦時刑事司法イデオロギーの形成に尽力した日本法理研究会においても指導的地位を占め,敗戦後の公職追放にもかかわらず刑事判例研究会を主宰し,更には法務省顧問として改正刑法準備会・法制審刑事法特別部会を主導する等,一貫して影響力を保持した―が[4],敗戦後に罪刑法定の原則について,

  「……戦前・戦後を通じて,罪刑法定主義そのものは未だかつて争われたことはない。……戦前の厳しい統制時代においても,学説は勿論,実務上においても,未だかつて罪刑法定主義が否定されたことはない」[5]

と断じたのに対し,やはり小野の主導的影響下にあった改正刑法草案に反対し,常に民主主義刑法学を擁護した吉川経夫は,

  「もちろん,罪刑法定主義をもっていかなる内容のものと解するかによるけれども,わたくしはこのように確信的な断定には疑問を禁ずることができない。むしろ,わが国においては,その資本主義発展の特殊性を反映して,真の意味での基本的人権保障の原理としての罪刑法定主義は,未だかつて確立されたことがなかったというべきなのではなかろうか」[6]

と反論し,「真の意味での基本的人権保障原理としての罪刑法定主義」の確立が不可欠だとして,実体的デュー・プロセスの思考に触れつつ憲法による罪刑法定の原則の再定位を確認している[7]。同様のベクトルは,罪刑法定の原則を「実質的人権保障の原理」とする内藤謙による次のような理解にも見出すことができる。

  「(自由主義国民主権主義/代表制民主主義という―引用者)三者による根拠づけのいずれについても問題として残るのは,それだけでは,罪刑法定主義が議会の制定した『法律』の内容を法制度上は問いえず,立法権を内容的に拘束しえない形式原理にとどまるという点である。むしろ右の三つの原理には,その根底に,人間がただ人間であるということに基づいて当然に有する権利と自由,すなわち,個人の尊厳によって基礎づけられる権利と自由(その意味での『人権』)を国家刑罰権の恣意的行使から実質的に保障するという意味での『実質的人権保障の原理』が存在していると理解すべきであろう。国家刑罰権に階層性の側面が事実として存在していることからみれば,また,代表による国民の合意にも擬制の要素が事実として存在することを否定しえないことからみれば,罪刑法定主義には,国家刑罰権の実現過程で,そのような側面や要素を払拭するという課題にこたえるための原理であるという要素が内在していると解すべきであろう。そのことは,罪刑法定主義に,少数者ないし弱者の保護のための原理としての要素が内在すると解することに連なっている」[8]

 このような意味での「実質的人権保障原理」として働く(べき)ものとして,罪刑法定の原則は,刑法の謙抑性・断片性・補充性という自由主義国家の基本前提をなす公理の実践原理として,刑罰法規の創設・解釈・適用の全ての次元において,人間の尊厳を基調とする民主主義社会における自由・自律を保障するものでなければならない。上述のとおり,憲法31条が立法権力に対して刑罰法規創設の厳格な合理性―必要性と相当性―を要求し,実体的デュー・プロセスの要請である「明確性の原則」と「刑罰法規適正の原則」の充足を要求するのもこの理由による。しかし判例は残念な状況にある。明確性の原則にせよ刑罰法規適正の原則にせよ,最高裁において,これらに違反するがゆえに憲法31条に反し違憲無効であるとされた例はいまだ皆無だからである。

 ところで,刑法の謙抑性・断片性・補充性は,近代自由主義国家における近代刑法の不可欠な前提をなす公理であり,上述のとおり,刑罰法規の創設・解釈・適用のいずれの段階においても妥当すべきものである。そうであるなら,この公理の実践原理たる罪刑法定の原則もまた,刑罰法規の創設・解釈・適用のいずれの次元においても指導原理として働かねばならない。したがって,判例は残念な状況だが,実体的デュー・プロセスの要請は立法権力による刑罰法規の創設に対するのみならず,司法権や行政権によるその解釈・適用にも及び,刑罰法規の創設段階における厳格な必要性と相当性のみならず,その適用段階における厳格な必要性と相当性も求められることになる。罪刑法定の原則による「刑罰法規適正の原則」は,刑罰法規の創設段階における必要性・相当性の要求を意味する「過度に広汎な刑事規制の禁止」のみならず,その適用段階における必要性・相当性の要求である過度に広汎な刑罰法規適用の禁止―つまりは「過度に広汎な処罰の禁止」―をも包含しているのである。

 注目すべきは,刑罰法規の適用段階における厳格な必要性・相当性の要求を意味する「過度に広汎な処罰の禁止」と,既に見たソフトな違法一元論や可罰的違法性の思考との親和性であろう。ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念によれば,刑法上の違法性は刑罰を科すに値する質と量を具備する違法性を意味し,行政法や民事法といった他の法領域における違法性を質的にも量的にも凌駕するものでなければならないとされ,そのような違法性の質と量を充たさない行為には刑法上の違法性は認められないとして,これに対する刑罰法規の適用が否定されるからである。このように,刑罰法規適用の縮減による自由保障機能という点で,「過度に広汎な処罰の禁止」とソフトな違法一元論や可罰的違法性の思考は通底性を有している。このような意味での―ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念による―違法性の評価/判断は,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」の実践場面であり,罪刑法定の原則がこのような違法評価/判断を求めているといってもよい。上述のとおり罪刑法定の原則が憲法上の要請という地位を有するなら,ソフトな違法一元論や可罰的違法性の概念による違法性判断の必要性・不可欠性もまた,憲法―31条―にその根拠を有するといえよう[9]

 もっとも,最高裁において,「過度に広汎な処罰の禁止」を包含する「刑罰法規適正の原則」によって刑罰法規(の適用)を違憲とした例は存しない。この点は既に述べたとおりである。しかし,とくに基本権行使の性質を有する行為について,この原則に適応すべく法規を合憲的に限定解釈し,実質的には,上述の意味での―刑罰を科すに値するだけの質と量を有する―刑法上の違法性を具備しないとして,刑罰法規の適用を否定するものは散見される[10]。そのなかには,構成要件該当性を否定するものもある。刑法の謙抑性・断片性・補充性の要請という観点から明らかなことだが,刑罰法規として定立される構成要件は,規範違反性(行為無価値)や社会侵害性(結果無価値)という点でとくに違法性の著しい行為の類型であり,規範論理的には違法評価/判断―規範違反性あるいは社会侵害性の評価/判断―が構成要件に先行する。したがって,ある行為についてある構成要件の該当性が否定される場合,その判断は,当該行為が当該構成要件に想定される違法性を具備しない,つまりは当該構成要件に該当するとして刑罰を科すに値する違法性の質と量を具備しないという判断を包含しているのである。代表的な例を見ておこう。

 まずは職業選択の自由に関するHS式無熱高周波療法事件(最判1960年1月27日刑集14巻1号33頁)である。原審が,法定の除外事由なく有料でHS式無熱高周波療法を施した行為について,あん摩マツサージ師,はり師,きゆう師及び柔道整復師法12条に違反する「医業類似行為」として有罪としたのに対し,最高裁は,医業類似行為の禁止は「人の健康に害を及ぼす虞のある業務行為に限局する趣旨と解しなければならない」とし,原判決は当該療法の健康への影響の有無について「なんら判示するところがない」として破棄差戻した。これについて,

  「この最高裁判決は,直接には憲法22条の『職業選択の自由』との関連で問題をとりあげている。しかし,その実質は,医療類似行為を業としたからといって直ちに処罰してよいのではなく,『人の健康に害を及ぼす虞』のない無害な行為であれば処罰してはならないとしている点にあり,無害の行為を罰することは刑罰法規としての内容の適正を欠き,憲法31条に反するという考え方を根底においていたといえよう」[11]

という指摘は重要である。無害行為の処罰が刑罰法規適正の原則に反して違憲憲法31条違反―だというのは,刑法の謙抑性・断片性・補充性の実践原理たる罪刑法定の原則の要請に照らして当然の帰結である。したがって判示の趣旨は,当該行為が―「人の健康に害を及ぼす虞」という観点において―刑罰を科すに値するだけの違法性を具備するか否かについて検討することなく,形式的な構成要件該当性をもって違法性を肯定し刑罰法規を適用することは,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」に該当し,憲法31条に違反するということをも含意する。少なくとも基本権行使の側面を有する行為について,厳密かつ詳細な―ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念によるのと同様の―違法評価/判断を欠いたまま刑罰法規を適用することは,直ちに個別の基本権規定に反しないまでも,罪刑法定の原則の要請に反するがゆえに憲法31条に違反するということである。

 職業選択の自由という経済的自由に関してそうであるならば,優越的な保護を必要とする表現の自由に関しては尚更であろう。言論の自由表現の自由の行使という側面を有する行為に対する刑罰法規の適用には,憲法31条によって一層の慎重さが求められるということだが,最決1967年7月20日判時496号68頁の判旨が注目される[12]破壊活動防止法38条2項2号の内乱目的をもって内乱の「実行の正当性又は必要性を主張した文書」を頒布する罪は,

  「右文書の頒布により内乱罪の実行されうべき可能性ないし蓋然性が客観的に存在していたことは認められない」

事案については成立しないとするものである。過度に広汎な処罰の禁止の観点から,当該行為は内乱文書頒布の刑罰法規を適用する―刑罰を科すに値する―だけ違法性の質と量を具備していないとの判断なのであろう。繰返し確認するが,このような行為に対する刑罰法規適用は,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」に該当し,憲法31条違反とされるという趣旨である。判示において明言されてはいないものの,このような―ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念と同様の―違法性判断について,言論の自由表現の自由の行使が問題となるケースでは,経済的自由の行使のケースに比してより厳格な評価/判断が求められよう。優越的な保護を必要とする表現の自由の行使に対して刑罰法規を適用するには,比較的広範な制限が許容される経済的自由の行使に比して,より強度の質と量を具備する違法性を要するのは当然だからである。

 社会権としての労働基本権についても,周知のとおり,都教組事件判決(最判1969年4月2日刑集23巻5号305頁)が「二重の絞り論」を展開し,限定解釈による刑罰法規適用の縮減を試みている。

  「地公法61条4号は……争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし,そのような違法な争議行為等のあおり行為等であってはじめて,刑事罰をもってのぞむ違法性を認めようとする趣旨と解すべきであって,……あおり行為等の対象となるべき違法な争議行為が存しない以上,地公法61条4号が適用される余地はないと解すべきである。……さらに進んで考えると,争議行為そのものに種々の態様があり,その違法性が認められる場合にも,その強弱に程度の差があるように,あおり行為等にもさまざまの態様があり,……その違法性の程度には強弱さまざまのものがありうる。それにもかかわらず,これらのニユアンスを一切否定して一律にあおり行為等を刑事罰をもってのぞむ違法性があるものと断定することは許されないというべきである。ことに,……地公法61条4号の趣旨からいっても,争議行為に通常随伴して行なわれる行為のごときは,処罰の対象とされるべきものではない。……したがって,職員団体の構成員たる職員のした行為が,たとえ,あおり行為的な要素をあわせもつとしても,それは,原則として,刑事罰をもってのぞむ違法性を有するものとはいえないというべきである」

 行政法上違法とされ懲戒対象とされる争議あおり行為であっても,更に強度な質と量を具備する違法性が認められない限り,当該行為については―刑法35条の正当行為に該当するものとして―刑法上の違法性を否定せねばならないという判旨である。労働基本権の行使という側面を有する行為について刑罰を適用するには,憲法31条を根拠とする罪刑法定の原則の要請を充足するため,厳密かつ詳細な―ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念によるのと同様の―違法評価/判断,つまりは刑罰を科すに値する質と量を具備する違法性の認定を要するということである。

 以上のとおり最高裁判例のなかには,基本権行使に対する刑事規制に関して,基本権保障との抵触を回避すべく,刑罰を科すに値する違法性の質と量を要求して違法性とともにその類型である構成要件を縮減し,当該刑罰法規の適用領域を限定する試みが見られる。その思考/志向のみならず刑罰法規適用の限定の具体的な方法も,都教組事件判決に明らかなとおり,ソフトな違法一元論を前提とする可罰的違法性の概念による違法阻却を実践する試みといってよい。しかし,このような刑罰法規適用の縮減は,たんに犯罪論内部の―違法論としての―理論構成に止まらず,―近代刑法の前提をなす刑法の謙抑性・断片性・補充性の実践原理としての―罪刑法定の原則の要請である刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」の実践場面として,憲法31条によって求められているものと解さねばならない。とりわけ基本権行使の性質を有する行為について刑罰法規を適用するには,当該行為を処罰するに値するだけの違法性の質と量の認定が不可欠であり,そのような質と量を具備しない行為の処罰や,そのような違法評価/判断を欠く刑罰法規の適用は,「過度に広汎な処罰の禁止」に該当し,憲法31条に反するということである。

結語

 以上の検討により,従前よりソフトな違法一元論や可罰的違法性の概念によって主張されている違法阻却―違法評価/判断―は,憲法31条に根拠を有する罪刑法定の原則―刑罰法的適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」―の内実をなすものであることが了解されるであろう。

 さて,いわゆる「武蔵野爆竹事件」において,被告人の行為が表現の自由の行使という側面を有することについては,第1審判決も次のように判示しており,疑う余地はない。

  「……被告人が本件行為に及んだ目的,場所や時間からすると,本件行為が東京オリンピックパラリンピックやそれに関連する聖火イベントの開催に抗議するという被告人の思想・考えを示すための表現行為であることは理解できるうえ,これを制限することが,民主主義社会において特に重要な権利として尊重されなければならない表現の自由に対する制限に当たるとする弁護人の主張には一応の理由がある」

 しかし,既に述べたとおり,処罰対象は「表現そのもの」ではなく「表現の手段」に過ぎないというステロタイプのロジックにより,当該行為が社会的相当性を逸脱する―つまりは違法性を有する―場合には刑罰法規を適用し得るとして,上述の㋐~㋔の認定により,被告人の行為は威力業務妨害罪に該当するものとされた。問題は,㋐~㋔の認定による違法性の評価/判断が憲法31条―罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」―の要求を充たすものか否かであろう。とくに基本権行使の側面を有する行為については,憲法31条により,当該行為が―構成要件に該当する行為として―刑罰を科すに値するだけの違法性の質と量を具備しているか否かを厳密に検討することによって,当該行為に対する刑罰法規の適用の可否を判断することが求められており,この検討を欠く刑罰法規適用は―「過度に広汎な処罰の禁止」の要請を充たさず―憲法31条に違反するからである。

 如上の厳密な違法性の検討は,例えば―憲法31条の要請たる「過度に広汎な処罰の禁止」のいわば実践場面をなす―ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念といった,刑罰法規適用を抑制する自由主義的な理論と同様の方法による必要がある。本件のように表現行為に対する刑罰法規適用が問題となる場合には,違法性判断にとって積極的な―つまりは形式的な構成要件該当性を示す―事実のみならず,消極的な―つまりは違法阻却事由となり得る,あるいは違法性の低減を示す―事実も細大漏らさず考慮して,なお当該行為に対する刑罰法規適用が肯定されるか否かを検討せねばならないのである。

 しかし,本件第1審判決は,被告人の行為を「表現行為」であるとしながら威力業務妨害罪に該当するとの帰結を導出するに際し,被告人の行為は「威力」の行使に該当し業務妨害結果の危険―及び現実の侵害結果―が発生したとするが,その論理の内実は,被告人の行為が構成要件に該当するがゆえに違法性が認められる―「表現行為として相当性を欠く」ゆえに違法性は阻却されない―とするものでしかない。構成要件に―形式的に―該当する行為について,刑法上の―なお刑罰を科すに値するだけの質と量を具備する―違法性が認められるべきか否かが問題なのであって,構成要件に該当するから「相当性を欠く」―違法性が認められる―というのは論理の転倒という外あるまい。

 先ずは表現行為として「爆竹」を使用したことが問題となろう。一般に意見表明の重要かつ有効な手段とされるビラ配布・頒布に比して[13],おそらく,爆竹使用による表現活動の要保護性は高いものとはされないからである。しかも,例えば上述の立川自衛隊監視テント村事件最高裁判決のように,最判1984年12月18日の―表現の「手段」が相当性を欠く場合には刑罰法規適用は違憲ではないという―ステロタイプの論理を引きつつ,集合住宅―防衛庁立川宿舎―における反戦ビラのポスティングについて,管理権者の意思に反する立入りであるとして住居侵入罪を肯定する例もあり,爆竹使用という表現「手段」について,「相当性」が認められる余地はほとんどないとも解される。しかし―「表現そのもの」と「表現の手段」を截然と区分し得るかは措くとしても―既に述べたとおり,表現の手段の違法性を評価し判断する際には,当該手段が形式的に構成要件に該当することを示す事実のみならず,違法阻却ないし違法低減のベクトルを有する事実をも考慮せねばならない。無罪判決を下した立川自衛隊監視テント村事件第1審は,正当にも次のように判示している。不可欠なのはこうした判断なのであって,最高裁の安易な判断は罪刑法定の原則に鈍感かつ冷淡だという批判を免れまい。

  「さらに,被告人らによるビラの投函自体は,憲法21条1項の保障する政治的表現活動の一態様であり,民主主義社会の根幹を成すものとして,同法22条1項により保障されると解される営業活動の一類型である商業的宣伝ビラの投函に比して,いわゆる優越的地位が認められている。そして,立川宿舎への商業的宣伝ビラの投函に伴う立ち入り行為が何ら刑事責任を問われずに放置されていることに照らすと,被告人らの各立ち入り行為につき,従前長きにわたり同種の行為を不問に付してきた経緯がありながら,防衛庁ないし自衛隊又は警察からテント村に対する正式な抗議や警告といった事前連絡なしに,いきなり検挙して刑事責任を問うことは,憲法21条1項の趣旨に照らして疑問の余地なしとしない」

 そうすると,爆竹の使用という事実―そしてその爆発によって意思を制圧され,業務妨害結果が発生した,あるいは発生する(抽象的)危険があったという認定―をもって,直ちに被告人の表現「手段」が「相当性」を欠くという帰結を導くことはできない。固より爆竹は種々のイベント等にも使用に供される日常品でそれ自体とくに危険物ではないこと,爆竹の使用が本件イベント終了予定時刻を10分以上経過した後であること,使用した爆竹の量も到底「大量」とは認められないこと,爆竹の使用(点火)は1回のみで複数回にわたって執拗に繰返されたものではないこと,被告人は爆竹を会場に隣接する―本件イベント参加者の出入口であり受付場所であった―「体育館敷地内」に投げ入れたのであって―沖縄返還協定に反対して議場内で爆竹を鳴らしたという東京地判1973年9月6日の事案とは異なり―会場である「競技場(トラック内)」で使用(点火)しあるいは投入れたものではないこと等々,第1審判決が―構成要件該当性をもって「相当性」を欠くとする罪刑法定の原則に反する安易な判断により―軽視あるいは黙殺する事実を併せ考慮しても,その表現「手段」は憲法21条1項による保障の範囲外に置かれねばならないほどに「相当性」を欠くのか,つまりは刑罰法規の適用を受けるに値するだけの違法性の質と量を具備していたのか否かを問題とせねばならないのである。更に第1審判決によれば,被告人の意図は「東京オリンピックパラリンピックやそれに関連する聖火イベントの開催に抗議の意思を示そうと」する点にあるされるが,オリ・パラそれ自体や関連イベント催行の態様と被告人の―爆竹使用という―行為の態様の非対称性は,

  「……実際被告人を罰したいのは,オリ・パラなんじゃないかというふうに私は感じていて,まあ国を挙げての,地方自治体やらNHKやら……マスコミやら,あるいは大企業から……小さな企業まで巻き込んでの,総力挙げての,そして全国から警察を集めて,また自衛隊の出てきての,そういう圧倒的な力でオリンピック・パラリンピックが強行されて,それに対して爆竹というのは,余りにも桁違いに小さい,破壊力が小さいと私は感じています」

とする―オリ・パラ開催に反対の立場に立つ証人による―証言のとおりである。これも被告人の行為について違法性低減のベクトルを有する要素となろう。繰返し主張しているとおり,これらの検討を欠いたまま刑罰法規を適用することは,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」に該当し,憲法31条に違反するものといわねばならない。

 なお,業務妨害罪の成否については更に検討すべき問題が残る。構成要件は可罰的な―つまりは刑罰を科すに値する違法性を有する―行為の類型であるから,以上の違法評価/判断は,爆竹使用という被告人の行為が「威力」を行使したか否かの認定にも関わるが,問題は,仮に「威力」の行使に該当するとしても,それによって―判例は否定的だが―意思の制圧という因果経過を経て業務妨害結果―判例によればその抽象的危険,学説によってはその具体的危険―が発生したことを要することであろう。刑法の謙抑性・断片性・補充性という自由主義的な近代刑法の前提をなす公理によるなら,抽象的危険であれ業務妨害罪の「結果」それ自体は,精神的自由を含む法益主体の活動の自由に対する回復不能なほどの制圧・阻止,更にはその放棄・断念を意味するものと解さねばなるまい。構成要件結果とは,まさしく刑罰をもって保護するに値するだけの重大な結果を意味するはずだからである。業務妨害罪が抽象的危険犯であるとしても,このような意味での重大な結果発生の抽象的危険が問題となる。

 その点で,被告人の意図は本件イベントそれ自体の阻止・妨害ではなく東京オリ・パラ及びそれに関連するイベントへの反対意思の表明であるとして,本件第1審が,オリ・パラ関連イベントに外ならない本件イベント自体への影響ではなく,その運営業務の一端を請負ったイベント会社社員証人Uの―主としてイベント参加者等の受付,誘導及び案内等の―業務遂行への影響をもって,業務妨害結果(の抽象的危険)が発生しているとする点には二重の問題がある。第一には,被告人による行為が証人Uの業務を「妨害した」と評価し得るかという問題,更に第二には,証人Uの業務の妨害をもって業務妨害罪の結果とすることが妥当かという問題である。

 まずは,証人Uが業務遂行に著しく困難を覚え,あるいは断念せねばならないほどに意思を制圧され,現にそれによって請負った上記の業務を遂行し得なかったという結果(の抽象的危険)が発生したかが問題であろう。第1審判決は,現に発生していない事実―「証人Uらの……火傷」や「被告人と証人Uらが接触して転倒したりする危険」―に加えて,やはり事実によらない―「更に激しい爆発」や「複数人による同様の行為」の可能性という―虚構を根拠として,証人Uらが感じる恐怖―現実に感じた恐怖ではなくその可能性―を増幅して認定し,イベント参加者を待機させて―弁護人は争うものの認定によれば20分程度―退場を遅らせる等の現に発生した結果をも認定している。しかし検討が求められるのは,事実として確認され認定されている被告人の行為によっていかなる結果(の抽象的危険)が発生したのか,そしてそれが証人Uの活動の自由を回復不能なほどに妨げその放棄・断念の已む無きに至らしめるものであった(あるいはその抽象的危険が生じた)かどうかである。威力業務妨害罪を肯定するには,証人Uの本件イベント業務遂行の放棄・断念という結果(の抽象的危険)を要するはずだが,第1審判決は,

  「本件犯行により,被害会社従業員は,警察官らと共に被告人を取り押さえたり,退場しようとしていたイベント参加者に20分くらいの間,待機するよう促し,その退場方法を検討したりするなど,実際の業務にも少なからず支障が生じることになったのであり,被告人が直ちに取り押さえられたため,業務が実際に中断した時間が必ずしも長時間でなかったことを踏まえても,結果を軽視することはできない」

という判示に明らかなとおり,「実際の業務にも少なからず支障が生じることになった」とするものの,本件イベントそれ自体はほぼ予定通り挙行されていること,被告人による爆竹使用に対する証人Uの反応も,証人U自身の証言によると,

  「で,(1発目の爆竹が―引用者)鳴って,多分ちょっと僕も一瞬びくって,びっくりはしたんだと思います。……(その後被告人が―引用者)柵に手を掛けられたので,私のほうがちょっとそれを(後ろから体を押さえて―引用者)阻止させていただきました」

というように極めて冷静な対処であったこと,更にはイベント参加者の―弁護人は争うものの認定によれば20分程度の―退場の遅れについても,証人Uの証言は,

  「我々は止めていたんですけども,中には,ちょっとその,自治体の人とか,それから,ちょっとこんな言い方はあれですけど,偉い人とかもいたりとかしてたので,……もしかしたら,何人か出た可能性はあるかもしれないです」

と警備・警護を要する者が退場している可能性に言及しており,被告人の爆竹使用によって会場(付近)が厳戒を要するような緊迫した状況ではなかったことが窺われること等,被告人に有利な方向に働く事実・事情を軽視し,あるいは黙殺している。業務妨害罪の成立に求められる―精神活動を含む人の活動の自由を回復不能なほどに妨害し制圧してその放棄・断念に至らしめるという―重大な結果(の抽象的危険)が発生したのか否かの判断について,明らかに第1審判決は必要にして十分な検討を欠いている。注意すべきは,業務妨害罪の結果を抽象的危険の発生と解すると,このような検討の欠如が常に生じ得ることであろう。結果発生の抽象的危険の有無の判断は,行為の危険性判断―当該行為が結果を発生させる危険をどの程度有するかという判断―に解消され,当該行為が「威力」の行使である以上,妨害結果の抽象的危険が存するという―きわめて安易かつ不当な―判断に傾きやすいからである。

 次に更に重要な問題として,証人Uの業務遂行の放棄・断念(の抽象的危険)を業務妨害罪の結果とすることの是非が検討されねばならない。上述のとおり,被告人の意図は東京オリ・パラ開催に対する反対意思の表明であり,関連イベントに対する抗議―本件における爆竹使用は終了時刻終了後でありイベント催行の阻止・妨害に該当しない―はその手段と位置付けられる。本件のように,威力によってイベントに関わる証人Uのようなイベント会社社員の業務遂行等を阻止・妨害したとして業務妨害罪の罪責を問うとすれば,当該イベントそれ自体の催行の―内容・日程等の大幅な変更を含む―放棄・断念という結果(の抽象的危険)が発生したか否かにかかわらず,その因果のプロセスのいずれかの段階を切取って業務妨害罪を適用し得ることになる。現に本件は,本件イベント自体の催行を妨害し阻止したとは認め難いとして,証人Uに対する業務妨害罪で起訴され有罪とされたのであろう。こうした因果のエポク―強要・脅迫,住居侵入,逮捕・監禁,業務妨害等々の構成要件の形式的な充足―を切取って,当該行為(及び結果)の違法性を認定するという機会主義的・便宜主義的な刑罰法規適用は,刑罰法規適用の機会を増大させるという点で,すくなくとも刑法の謙抑性・断片性・補充性という近代刑法の不可欠な前提をなす公理に背反し,その限りでその実践原理である罪刑法定の原則―の趣旨―にも反するものといえよう。とくに基本権行使の側面を有する行為について,機会主義的・便宜主義的に因果のエポクを切取って刑罰法規の適用を求めるような起訴は,文字通り上述の市民的治安主義の実践であり,一般刑法の市民的治安法化を更に促進するものでしかない。それは,刑法の原初的暴力性への退行という象徴的意味に止まらず,市民的自由に対する現実的な脅威を意味し,刑事司法に対する市民の信頼の喪失という帰結に至ることになろう。上述のとおり判例は,優越的な保護を要する表現の自由についても,それに対する刑罰法規適用の憲法適否を手段の相当性の問題に矮小化し,当該行為が形式的に構成要件に該当することをもってその違法性を認定し,刑罰法規を適用する。そのような刑罰法規適用が,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」に反して憲法31条違反であることは繰返し主張したところだが,こうした判例の姿勢は如上の―刑法の原初的暴力性への退行,更には市民的治安主義による刑法の治安法化の促進・全面化という―危険を包蔵するものという外ない。本件におけるような機会主義的・便宜主義的な刑罰法規適用を求める起訴については,本来的には,当該起訴の正当性・合法性を否定し,公訴権の濫用として公訴棄却の判断を下すべきであろうが,周知のとおり,公訴権濫用論は文字通り「死に体」で「お蔵入り」となっている[14]。本件のように,イベント自体は内容的にも時間的にもほぼ予定通り催行されたという場合,現実的には,証人Uに対する妨害結果(の抽象的危険)の発生は因果関係の錯誤として救済することも可能であろう。

 もちろん,「可能であろう」というだけのことに過ぎない。本来問題とされるべきは上述のとおり,被告人の爆竹使用等の行為が「威力」の行使に該当するか,該当するとして威力業務妨害罪を適用して刑罰を科すに値するだけの違法性の質と量を具備するかという点であり,これらについて第1審判決の検討は全く不十分でありその帰結にも疑問がある。また同じく,証人Uの業務遂行に対する妨害は威力業務妨害罪を成立させるほどに重大な―人の精神の自由を含む活動の自由の放棄・断念に至らしめる―結果(の抽象的危険)とし得るかについても,やはり第1審判決の検討は全く不十分でありその帰結にも疑問がある。本稿において検討したとおり,本件行為が威力業務妨害罪に当たるか否かについて第1審判決は,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則が要求する―違法性を阻却ないし低減する方向の事実も細大漏らさず併せ考慮するという―厳密かつ詳細な違法性の検討を怠り,刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」に反する刑罰法規適用という帰結を導出している。第1審判決の検討が不十分であり,かつその帰結にも疑問が呈されるのはその故である。

 刑事裁判が―まさに国家による攻撃という最も峻厳な攻撃に晒されている―市民の自由を保障する場であるならば,「国家権力の専権から国民の民主主義的自由と権利を守るための最後の防塁」としての罪刑法定の原則を固守せねばならない[15]。これを等閑に付した第1審判決は破棄を免れないというべきである。

 

----- 脚注 ------ 

[1] 実体法における近代刑法原理と犯罪論は,構成要件は罪刑法定の原則の,違法性は行為原理/侵害原理の,有責性は責任原理の要請を充たさねばならないという点で対応関係にあるが,例えば藤木英雄『可罰的違法性』(学陽書房・1975年)34頁によると,可罰的違法性とは,

  「刑法を社会統制手段の一つとしてとらえ,他の社会統制手段に委ねることでは足りず刑罰が果たすべき役割を考察し,……刑罰権の発動を要請される不法とは何か」

という問題であり,可罰的違法性は社会的相当性の逸脱であるとして構成要件段階でのみ機能する―つまり社会的相当行為は構成要件該当性が否定される―ものだとされる。構成要件該当性を問題とする点で,可罰的違法性が罪刑法定の原則と連結していることを意識させるものとはいえようか。もっとも,この見解には―構成要件該当性判断の類型性と斉一性を害する点で―賛同できないし,藤木英雄『可罰的違法性の理論』(有信堂・1967年)「はしがき」において,可罰的違法性の理論は,

  「……ひとつの基本原理体系から演繹されたものではなく,理論以前に刑事司法実務における直観的思考の集積として,ひとつの潜在的体系としての実体を有したものであることは大きな特色である」

とされているように,藤木自身も可罰的違法性と罪刑法定の原則を意識的に連結させているわけではない。「理論以前」の「実務における直観的思考の集積」という理解は,可罰的違法性自由主義的側面を十分に考慮するものとはいえまい。

[2] 内田博文『治安維持法の教訓 権利運動の制限と憲法改正』(みすず書房・2016年)9頁。

[3] 刑事規制の厳格な必要性・相当性については,既にフランスの「人及び市民の権利宣言」(人権宣言 1789年8月)第8条前段において,「法律は,厳密かつ明白に必要な刑罰でなければ定めてはならない」として求められていたものである。

[4] 小野清一郎についてはさしあたり,宮本・前掲267頁以下及びそこに引かれる諸文献参照。

[5] 刑法改正準備会『改正刑法準備草案:附・同理由書』(刑法改正準備会・1961年)88頁。

[6] 吉川経夫「日本における罪刑法定主義の沿革」東京大学社会科学研究所編『基本的人権4』(東京大学出版会・1968年)同『吉川経夫著作選集 第2巻 罪刑法定主義と刑法思想』(法律文化社・2001年)33頁。なお吉川刑法学ついては,前田朗「吉川経夫の刑事法学」同『黙秘権と取調拒否権―刑事訴訟における主体性』(三一書房・2016年)224頁以下参照。

[7] 吉川経夫「罪刑法定主義」長谷川正安・宮内裕・渡辺洋三編『新法学講座第4巻 現代法の基本原理』(三一書房・1962年)同・前掲『吉川経夫著作選集 第2巻 罪刑法定主義と刑法思想』20頁は,実体的デュー・プロセスの思考に触れつつ,罪刑法定の「原則の死守」が課題であるとして次のように指摘している。

  「このように,罪刑法定主義は,日本国憲法によって再確認された。しかし,これを憲法における抽象的な宣言にとどまらせては無意味である。先にみたように,国民によって闘い取られた歴史をもたないわが国の罪刑法定主義は,支配階級によってつねに形骸化されようとする危険をはらんできた。しかし,現在の時点においてこの形骸化を許すことは,国家権力の専権から国民の民主主義的自由と権利を守るための最後の防塁を奪い去られることを意味する。施行後,日なお浅い日本国憲法のもとでの民主主義を,ナチズムやファシズムの反動から守るためには,国民ひとりひとりの抵抗によって,罪刑法定主義の原則を維持しなければならない」

[8] 内藤謙『刑法講義総論(上)』(有斐閣・1983年)23頁。

[9]  この点は既に早く,芝原邦爾『刑法の社会的機能』(有斐閣・1973年)186頁以下がその可能性を指摘していたが,いわゆる「司法の危機」対処による司法・裁判所の―一層の―保守化傾向の下で,残念ながら実務による展開・実現には至らなかった。

[10]  内藤・前掲40‐41頁参照。本文で言及している判例も内藤によった。なおこれらの合憲的限定解釈に対し,最判1985年10月23日刑集39巻6号413頁は,福岡県青少年保護育成条例(いわゆる「淫行処罰条例」)違反について,同じく限定解釈を試みて,

「10条1項にいう『淫行』とは,広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきではなく,青少年を誘惑し,威迫し,欺罔又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性行又は性行類似行為のほか,青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱っているとしか認められないような性行又は性行類似行為をいう」

と判示したが,解釈それ自体の不明確性は別途問題とせねばならないとしても,「明白性原則」に関する「本件事案に関する限り明白」という論理との類縁性を感じさせる。本件解釈の不明確性は,それがおそらくカズイティッシュな事例包摂の手段でしかなく,刑事規制を伴う法規適用の縮減に関して,基本権実現という理念から導出される原理的な明証性を持たないからなのであろう。限定解釈を試みても,それが基本権実現という理念から類型性・斉一性を首肯できない結果となるなら,そのような解釈はむしろ基本権保障に対する不安定性をもたらすだけであり,限定解釈によって法規の法令違憲を救済することは許されない。そのような場合は,当該法規の「刑罰法規適正性」を否定して違憲・無効とすべきである。以上についてはさしあたり,宮本弘典「実践的拘制としての罪刑法定原則」同『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房 朔・2009年)58‐60頁,66頁参照。

[11] 内藤・前掲40頁。

[12] 本稿の検討課題に直接の関連を有しないものの,自由主義的な側面を有する1967年のこの判決が,後に「司法の危機」問題とされる官公労働者の争議(あおり)事件について無罪判断を示した一連の判決の時期―第4代長官・横田正俊の長官在任期―と重なることには注目してよいであろう。この時期の最高裁裁判官は,第3代長官・横田喜三郎や第4代長官・横田正俊の在任中に就任しており,次の第5代長官・石田和外の長官在任中(1969年1月11日~73年5月19日,最高裁裁判官就任は1963年6月6日)に退任した11名の裁判官の後任人事によって,ささやかながらも最高裁に育まれつつあった自由主義的な息吹が完全に断たれたことは,既に註11で言及したとおりである。この影響は実体刑法に関する判例のみならず,刑事手続に関するものにも及んでおり,1960年代には,無罪率や令状請求却下率が上昇し,下級審判例では代用監獄例外説,別件逮捕・勾留違法説,更には接見に対する一般指定違法説等の判断も示され,最高裁判例にも違法排除を重視する観点から自白の証拠能力を否定する例が現れ,当事者主義やデュー・プロセスの理念の実現に希望を抱かせる状況が垣間見られたものの,「司法の危機」が喧伝された70年前後以降,無罪率や令状請求却下率は減少の一途をたどり,最高裁も自白法則の厳格な適用について消極に転じ,任意捜査における有形力の行使が適法とされ,強制採尿令状の創設による強制処分法定主義の弛緩も顕著となった。以上について,川崎英明「刑事訴訟の半世紀と展望」村井敏邦/川崎英明/白取祐司編『刑事司法改革と刑事訴訟法 上』(日本評論社・2007年)14‐15頁参照。

[13] ビラ配布に対する刑罰法規適用の問題性についてはさしあたり,立川自衛隊監視テント村事件や国公葛飾事件を検討する岩倉秀樹「民主主義の条件としての表現の自由―最近のビラ配布事件の検討」高知県立大学文化論叢1号(2013年)9頁以下,立川自衛隊監視テント村事件を念頭にビラ配布について「住居」概念を検討しつつ刑罰法規適用の縮減を主張する松宮孝明「ポスティングと住居侵入罪」立命館法学297号(2004年)等参照。

[14] その先駆となるのはチッソ川本事件最決1980年12月17日刑集34巻7号672頁で,判旨は次のとおりである。

  「検察官は,現行制の下では,公訴を提起するかしないかについて広範な裁量権を認められているのであって,公訴の提起が検察官の裁量権の逸脱によるものであったからといって直ちに無効となるものでないことは明らかである。たしかに,……検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効ならしめる場合のありうることを否定することはできないが,それはたとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られるものというべきである」

 この判旨について,内田博文『刑事判例の史的展開』(法律文化社・2013年)321頁は次のように指摘している。

  「これにより,公訴権濫用論は,実務上は舞台からほぼ姿を消すことになった。翌年に出された最判昭和56・6・26刑集35-4-426(赤崎町長選挙違反事件)も,上記の基準に則って,……当該公訴提起を有効とした」

[15] 吉川・前掲「罪刑法定主義」20頁。



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宮本 弘典(みやもと ひろのり)

主要著作

『警察監視国家と市民生活』(共著 白順社・1998年)
『治安国家拒否宣言 「共謀罪」がやってくる』(共著 晶文社・2005年)
『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房 朔・2009年)
『冤罪・福岡事件 届かなかった死刑囚の無実の叫び』(共著 現代人文社・2011年)
『転落自白 「日本型えん罪」はなぜうまれるのか』(共著 日本評論社・2012年)
『歴史に学ぶ刑事訴訟法』(共著 法律文化社・2013年)
『国家の論理といのちの倫理 現代社会の共同幻想と聖書の読み直し』(共著 新教出版社・2014年)
『近代刑法の現代的論点 足立昌勝先生古稀記念論文集』(共編著 社会評論社・2014年)
『刑罰権イデオロギーの位相と古層』(社会評論社・2020年)
など。

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(前半) ーいわゆる「武蔵野爆竹事件」における威力業務妨害罪の成否をめぐって…宮本弘典氏意見書

宮本弘典(関東学院大学教員、刑法・刑法史)

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(後半)5.過度に広汎な処罰の禁止と違法性判断 結語」

kyuenmusasino.hatenablog.com

1.第1審判示と認定事実

 いわゆる武蔵野爆竹事件において,東京地裁立川支部判決2022年9月5日は,東京オリ・パラ聖火リレーに関するイベントに際して会場に隣接する体育館敷地内に爆竹を投入れて爆発させ,東京オリ・パラ開催等に対する反対意思を示したという事案について,被告人に有罪判決(懲役1年 執行猶予3年)を言渡した。

判決によると「罪となるべき事実」は,

  「被告人は,東京オリンピックパラリンピックやそれに関連する聖火イベントの開催等に抗議の意思を示そうと考え,2021年7月16日午後5時13分頃,武蔵野陸上競技場で開催されていた東京2020オリンピック聖火リレー点火セレモニーの参加者等の入退場,受付等が行われていた前記競技場に隣接する……武蔵野総合体育館の西側歩道上において,ライターで点火した爆竹を同体育館敷地内に投げ入れて爆発させた上,同所に設置されていたバリケードに近づくと,警備関係者らの制止を振り切り,同バリケードを乗り越えて同敷地内に侵入しようとし,その頃,同セレモニー参加者等の誘導,案内等の業務に従事していた……(イベント会社社員らに―引用者)……同業務の中断を余儀なくさせ,もって威力を用いて同人らの業務を妨害した」

というものであり,関係証拠によって判決が認定した事実は以下の通りである[1]

 ㋐ 2021年7月16日に武蔵野陸上競技場において東京2020オリンピック聖火リレー点火セレモニーが開催された。

 ㋑ 陸上競技場に隣接する武蔵野総合体育館の歩道に接している部分にはバリケードとしてプラスチック製の柵が並べられ,本件イベント参加者等の入退場口が設けられていたが,本件イベントに際して本件入退場口を通過できるのは,原則として本件イベント参加者やスタッフ等の関係者に限られ,それ以外の者の立入りは規制されていた。

 ㋒ 本件イベントの参加者等の受付,誘導及び案内等の業務委託を受けていたイベント会社社員証人Uは,本件業務の統括者として本件イベント開催中,他の多数のスタッフと共に本件業務に従事していた。

 ㋓ 本件イベント終了予定時刻は17時であったが,証人Uは17時過ぎに参加者等の退場誘導等のため本件入退場口に向かい,17時13分頃,証人Uが本件入退場口付近の歩道近くにいたところ,被告人が歩いて歩道を横切り本件入退場口付近で立止まった。証人Uが被告人に近づいてその様子を窺うと,被告人が手に爆竹のようなものを持っているように見えたことから,証人Uは被告人に手に持っているものは何か尋ねたが,被告人の返答はなかった。証人Uは,警察官に被告人への対応を任せようとして,体育館敷地内にいた警察官を呼び寄せ,再び被告人の方を振返ったところ,1発目の爆竹が鳴ったのが聞こえた。その頃,被告人は,左手に持った爆竹にライターで点火し,体育館敷地に更に近づきながら,爆竹を証人Uとは別のスタッフらが立っていた体育館敷地内に投入れた。爆竹は,被告人が手に持った状態で数回,被告人が投げた後空中や体育館敷地内で数回爆発し,爆発音を発した。爆竹を投げた直後,被告人は,爆竹の爆発が鳴り響く中で,プラスチック製の柵に駆け寄って手をかけ,柵から身を乗り出して乗越えようとした。

 ㋔ 証人Uは,目の前で爆竹が爆発したことに驚き,わずかに身をすくませたが,すぐに柵を乗越えようとする被告人に後ろから抱きつき,集まってきた警察官らとともに被告人の体育館敷地内への立入りを阻止するとともに,本件イベント会場から退場しようとする参加者等を引き留めておくようスタッフらに指示した上,参加者等を退場させる方法を検討するなどして,退場しようとする参加者を20分くらいの間やむを得ず待機させた。

 これに対して弁護人は,事実に関する問題として,㋔の参加者を20分程度待機させたという事実はなく,被告人の爆竹使用=爆竹への点火は1回に止まり,㋓の爆竹の破裂音が数回に及ぶとされる点は1回の使用(点火)による破裂音の連続に過ぎず,また同じく㋓の柵を乗り越えようとしたという事実もないと主張し,更に法的には以下の理由によって被告人の無罪を主張した。

 ① 被告人の本件行為は,被害者の自由意思を制圧するに足るものではなく「威力」の行使に当たらず,また,本件行為によって実際に業務が妨害されたこともなく,その抽象的な危険もない。

 ② 被告人の本件行為の目的や内容,象徴的言論として憲法により保障されている表現行為としての性質に鑑みて,仮に業務妨害罪の構成要件に該当するとしても,正当行為として法律上の保護の対象とされるべきであって違法性が阻却されるし,その法益侵害の程度からすれば可罰的違法性もない。

 判決はこれらの主張をいずれも斥けたが,①についての判示は以下のとおりである。

  「……本件行為は,……その具体的な態様,爆竹が爆発した位置,生じた爆発音の大きさ及び回数,爆竹投てき前後の被告人の行動並びに周辺の状況等からすれば,人の意思を制圧するに足る勢力であると評価することができ,刑法234条にいう『威力』に該当する。

   ……本件行為は,爆竹が証人Uらの至近で爆発して火傷をしたり,柵を乗り越えようとする被告人と証人Uらが接触して転倒したりする危険を内包するものであり,本来証人Uらが行うべき誘導や案内等の被害会社の業務が円滑に行われなくなる蓋然性が相当程度認められる行為であるから,被害会社の業務を妨害する抽象的な危険を有する行為であるといえる。しかも,証人Uは,……被告人に後ろから抱きついてそれを阻止したほか,……参加者を退出させる方法等の再検討を余儀なくされ,本件行為により,予定していた業務の中断ないし変更を強いられたものであり,具体的な業務妨害の結果も生じていたことが認められる」

 判決は更に,四囲の状況に鑑みてもなお本件行為が「威力」の行使に該当するというが,その根拠は,「さらに激しい爆発」あるいは「複数人による同様の行為」の危険という,事実―本件は被告人が単独で行ったものであり,爆竹使用(点火)も1回のみであった―に拠らない虚構ともいうべき危険ないし可能性に過ぎない[2]。この問題には後に言及する。

 ②の主張についても以下のように判示して斥けている。

  「……すでに認定したとおり,本件行為……の手段や方法は,表現行為としての相当性を欠いている。また,本件行為によって,本件業務の遂行が侵害された程度は小さいといえない一方,被告人が,自己の意見や抗議を表現する手段は,他の方法によって行うことも十分に可能であり,現に他の抗議活動は適法に行われていることも併せると,本件行為を制限することによる表現の自由の制約の程度が大きいとはいえない。

   そうすると,被告人が本件行為により表現しようとした思想が政治的な意見であることを十分に踏まえても,本件行為の制限は,表現の自由に対する必要かつ合理的な制限として憲法上是認されるものであって,本件行為の違法性は阻却されない。

   ……

   また,本件行為に対するこれまでの認定や評価を踏まえれば,本件行為の手段や結果が,業務妨害罪の保護法益を侵害したと認められない程度に軽微であるとはおよそいえないし,そのことは本件行為の目的や表現の自由として保障されるという性質を総合的に考慮したとしても変わらないから,本件行為には可罰的違法性がないという弁護人の主張にも理由がない」

 

2.威力業務妨害罪成立の無限定性

 威力業務妨害罪の成立要件と可罰的違法性に関する第1審による如上の判示は,従来の判例に依拠するものといってよい。

 威力業務妨害罪の成否については,「威力」の意義あるいは現実の妨害結果の発生の要否が問題となる。判例や支配的見解によると「威力」とは,

   「人の意思を制圧するに足りる勢力を使用することである(通説,大判明43・2・3録16・147;大判昭7・10・10録11・1519;最判昭28・1・30集7・1・128。なお,最判昭31・5・29裁集113・613)。……一定の行為の必然的結果として,人の意思を制圧するような勢力が用いられれば足り,必ずしもそれが直接現に業務に従事している他人に加えられることを要しない(最判昭32・3・21集11・2・877―なお,業務遂行者の身体に対する直接的な危害可能の情況の存することを要しない。福岡高判昭29・4・27高集7・4・572)。……また,威力は,犯人の威勢,人数および四囲の状勢からみて被害者の自由意思を制圧するに足りる程度の勢力であればよい(大判昭10・10・25集14・1405;上掲最判昭28・1・30;大阪高判昭26・2・9判特23・14;広島高判昭28・5・27高集6・9・1105;東京高判昭31・11・26裁特3・24・1186)。現実に被害者が自由意思を制圧されたことを要しない(上掲最判昭28・1・30)」[3]

とされるとおり緩やかに解されており,種々の広範に及ぶ行為がこれに該当し得るものとなっている。また「業務を妨害した」についても―有力な反対説が存するものの―現実の妨害結果の発生を要しないものとされている。

  「判例および多数説は,妨害の結果を発生させるおそれのある行為をすれば足りると解しているが(大判昭11・5・7集15・573;最判昭28・1・30集7・1・128;東京高判昭31・5・30高集9・5・542……),業務を妨害する恐れのある状態を生じさせたことを要するであろう……。しかし,現実に妨害の結果の生じたことは必要ではない(大判昭12・2・27新聞4100・4;仙台高判昭25・2・14判特3・114……)」[4]

 注意を要するのは,本罪にいわゆる「威力」を「人の意思を制圧するに足りる勢力を使用すること」と解するにしても,それは「威力」概念の外延を一義的に画する「定義」ではあり得ないということであろう。当該行為が「人の意思を制圧するに足りる勢力」の使用であるか否かは常に事実認定の問題に収斂し,どの程度の「勢力」の使用が「威力」に当たるかについては,斉一的かつ類型的判断というよりケース・バイ・ケースの判定による外ないということである。この点は「業務を妨害した」についても同様で,本罪の成立に「妨害結果」は不要だとする以上,本罪を抽象的危険犯ではなく具体的危険犯と解するにしても,構成要件結果である具体的危険の―現実的な―発生それ自体は,―当該行為それ自体と四囲の情況を総合して行う―危険の程度判断に,つまりは事実認定に収斂せざるを得ない。更にいえば,抽象的危険の―そしてまた具体的危険であってもその―発生の有無の判断は,結局のところ当該行為が包蔵する結果発生の危険の程度に関する判断に還元されようから,威力業務妨害罪の成否は―実務の現実としては,「威力」の行使があれば結果発生の抽象的危険が認められるとして―事実上,専ら当該行為が「威力」の行使か否かという事実認定に収斂する。

 その点は措くとしても,構成要件的行為(実行行為)と構成要件結果を一義的(あるいは斉一的かつ類型的)に画定することは,構成要件による―罪刑法定の原則の要請でもある事前告知による事前予測可能性の確保という―自由保障機能の充足にとって不可欠だと解されるが,威力業務妨害罪については,構成要件的行為と構成要件結果の双方において,そうした自由保障機能が弛緩しているということである。現に,判例や支配的見解における「威力」の理解にも明らかなとおり,広範な行為が「威力」の行使に当たり得るとされるが,業務従事者に直接加えられることがなくとも,また,行為時に業務関係者が当該行為を認識していなくとも「威力」の行使に該当するとされるとき[5],本罪の実行行為性の認定に対する限定要素はほぼ皆無となる。

 おそらく,判例業務妨害罪の行為―及び結果―の外延をかくも無制約なほどに拡大し拡散させるのは,本罪は人の自由という重要な利益を保護法益とすることから,経済活動の自由に止まらない―精神的自由をも包含する―社会活動の自由一般に対する侵害行為を広く本罪に包摂しようとするからなのであろう。したがってまた逆に,業務妨害行為の外延の拡大・拡散により,基本権行使を含む―本来はその保護を不可欠とする―自由な活動が広く本罪の構成要件に包摂される事態に対して,一定の歯止めを設ける必要も不可欠となる。判例や支配的見解において,とくに労働争議に関して,生産管理やピケッティングをはじめ争議に随伴する種々の行為が本罪の構成要件に該当するとしても,労組法1条1項により刑法35条の正当行為として,その違法性が阻却される―そもそも違法性を持たない―と言及されるのもその故である[6]

 

3.業務妨害罪と可罰的違法性

 本件において弁護人が主張する可罰的違法性の概念も同様に,いわば市民社会の安全弁として[7],自由な市民活動に対する過度な刑事規制を排除する有益な理論装置である。なるほど,本件のように政治的な意思表明手段が問題となる場合には,憲法21条による保護範囲を広く解して,端的に表現活動に対する刑事規制を排除することが望ましく,かつ適切であることは言を俟たない。しかし判例はこれには消極的で,

  「憲法21条1項も,表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく,公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであって,たとえ意見を外部に発表するための手段であっても,その手段が他人の権利等の他の法益を不当に害するようなものは許されないといわなければならない……」(最判1984年12月18日刑集38巻12号3026頁)[8]

というロジック―後述の立川自衛隊監視テント村事件最高裁判決が,問題は「表現そのものを処罰することの憲法適合性」ではなく「表現の手段……を処罰することの憲法適合性」だとしているように,処罰対象は「表現」自体ではなく「表現の手段」(態様)に過ぎないというロジック―がもはやステロタイプ化しており,より穏やかな―他の要保護利益を侵害ないし危殆化することのない―別の手段を選択し得たにもかかわらず当該行為に及んだ点を取上げ,行為態様が社会的相当性を逸脱する―相当性を欠く―として当該表現活動の違法性を肯定し,当該行為に対する刑罰法規の適用を肯定するのが常である。

 本件判決もそうした論理とともにこの判旨を引いており,また東京地判2015年2月24日も同様に,特定秘密保護法案の国会審議中に傍聴席から議場にスニーカーを投入れ,法案に反対するとともに審議の在り様を批判する意思を示したという事案について,上記の判旨を引きつつ次のように判示して威力業務妨害罪を認めている。

  「被告人が本件行為によって表明しようとした内容が上記のとおり政治的な意見であることを考慮しても,本件行為の禁止は,表現の自由に対する必要かつ合理的な制限として憲法上是認されるものであり,本件行為をもって威力業務妨害罪に問うことは,憲法21条1項に何ら反するものではない」

 このように,表現活動に対する違法判断は,想定される他の要保護利益の侵害あるいはその危険と当該行為の必要性・切迫性との比較衡量という事実認定に縮減され,一方で他の要保護利益の侵害ないし危殆化の可能性を総動員し,他方では当該行為の厳密かつ明白な必要性・切迫性が求められる結果,容易にその正当性(違法阻却)が肯定されることはない。そうであればこそ,表現活動に対する刑罰法規の適用を排斥する思考ないし論理の必要性が高いともいい得る。政治的な色彩を帯びる表現活動を保障せねばならないのは,現存秩序や現存価値に対する―少数者や周縁層による―異議申立ての自由の保障が,自由で民主的な社会においては不可欠だからである。その意味で,可罰的違法性という概念は市民社会の安全弁という側面を有している。

 しかし,可罰的違法性の概念による刑罰法規適用の抑制についても判例の冷淡さが目立つ。マジックホンを1回だけ使用して取外し電信電話公社(当時)に10円の損害を与えたという事案について―10円という被害額よりも電話料金を免れるマジックホンの設置という行為の逸脱性を強調して―偽計業務妨害罪の成立を肯定した判例(最決1986年6月24日刑集40巻4号292頁)もある。固より既に見たとおり,判例業務妨害罪を抽象的危険犯と解してその成立に現実の妨害結果の発生を要しないとしており,―現に発生した―「結果」の軽微性を根拠として本罪の可罰的違法性を否定するというのは,むしろ論理の一貫性を欠くといえなくもない[9]。むしろ端的に,法益の一般的価値序列に照らして,絶対的軽微を観念し得るのは個人法益のうち最下位に位置する財産法益を侵害する罪についてのみであり,それより上位に位置する自由・身体・生命を侵害する罪については,一般にその侵害について絶対的軽微という観念を容れることができず,したがってまたそれらについては絶対的軽微による違法阻却はあり得ないと考えることもできよう。マジックホン事件判決の―趣旨はこれとは異なろうが―判例としての射程をこのように解すれば,上述のとおり市民社会の安全弁という側面を有する可罰的違法性の概念について,絶対的軽微型可罰違法による違法阻却は―少なくとも財産犯罪については―維持されていると解することもできる[10]

 以上によれば,本件のような業務妨害罪において求められる可罰的違法性の判断は,現に発生した被害の軽微性―絶対的軽微―の評価ではなく,いわゆる相対的軽微型可罰違法判断ということになる。本件第1審判決は上述のとおり,

  「本件行為の手段や結果が,業務妨害罪の保護法益を侵害したと認められない程度に軽微であるとはおよそいえない」

と判示して絶対的軽微性を否定し,これに続けて,

  「そのことは本件行為の目的や表現の自由として保護されるという性質を総合的に考慮しても変わらないから,本件行為には可罰的違法性がないという弁護人の主張にも理由がない」

として,本来求められる相対的軽微性に関する判断も示しているように見える。問題は,その判断の論理構造により,ほぼ常に相対的軽微性が否定されるという現実であろう。

 周知のとおり,固より判例は―久留米駅事件判決(最判1973年4月25日刑集27巻3号418頁)と同日の全農林警職法事件判決(最判1973年4月25日刑集27巻4号547頁)に明らかなとおり[11]―,相対的軽微型可罰違法の思考に対して消極的で冷淡である。上述の表現活動に対する刑罰法規の適用と同じく,基本権行使という側面を有する行為についても,判例においては,他の要保護利益の侵害あるいはその危険という事実認定によって,当該行為の態様は社会的相当性を逸脱する―つまりは行為無価値による刑法上の違法性を有する―として,当該行為の相対的軽微性を否定するのが常である。沖縄返還協定に反対して衆院本会議場で本件と同じく爆竹を鳴らす等の抗議活動を行った事案について,やはり威力業務妨害罪の成立を認めた―全農林警職法事件判決の約半年後の―東京地判1973年9月6日刑裁月報5巻9号1315頁も同様である[12]

  「被告人らは,……爆竹や横幕,アジビラ等を準備したうえ,一般傍聴人を装って衆議院本会議場に侵入し,内閣総理大臣所信表明演説が行なわれている最中に,……爆竹を連続して鳴らし,大声で叫び,横幕を拡げてアジビラを撒くなどの行為に出たものであるから,その手段,方法が社会通念上容認される相当性を著しく逸脱しており,法秩序に違反する違法なものであることは明白である。また,その影響および結果についても,……内閣総理大臣の国会における所信表明演説を一時中断させ,本会議の議場を騒然とさせたのであるから,それが必ずしも軽微であるとはいい難い。以上の事実を総合すれば,当時,沖繩の本土復帰については,……これを不当として反対する意見を持つ者が沖繩県民のなかにある程度存したことが窺われることや,被告人らが沖繩出身者であることを考慮したとしても,なお可罰的違法性がないとはいえないこと明らかである」

 このように判例においては,事実認定レベルでの行為態様の評価が違法性判断に直結することにより,可罰的違法性という思考の果たすべき―自由主義国家における刑罰法規適用の抑制という―自由保障機能はほぼ失われている。可罰的違法性の概念はたしかに市民社会の安全弁という性質を有するべきものではある。しかしそれは,当為の世界ではそうである(べきである)ということであって,存在の現実世界の姿ではない。

 とはいえ,一般に刑罰権―したがってまた刑罰法規適用―が抑制されるべきであるということに争いはない。現在的視点においては,刑法はウルティマラツィオ(究極の叡智/最後の手段)であり,その創設(立法)・解釈・適用のいずれの段階においても,刑法の謙抑性・断片性・補充性という近代自由主義国家の要請を―その実質に関する理解に相違は存するにせよ―充たさねばならないという点で一致している。日本国憲法が31条から40条にわたって詳細かつ具体的な人身の自由保障規定を有することからも明らかなとおり,歴史を教訓としても,ファシズム体制下の権威主義国家におけるような―典型的には治安維持法に基づく思想国防のための思想司法のような―暴力的な市民社会の抑圧が日本国憲法下において許されようはずもないからである。

 そうであればこそ,刑法の現実世界の姿に対する厳しい批判も当然であろう。典型的な政治的治安法はいうまでもなく,例えば,「市民的治安主義」による市民的治安法―あるいは機能的治安法―による「市民的秩序の『実力的』貫徹」の前景化の指摘などはその好例といってよい[13]。ここにいわゆる市民的治安法―あるいは機能的治安法―とは,例えば軽犯罪法や道交法等,更には刑法典の住居侵入罪や逮捕・監禁罪,脅迫罪や暴行罪等々を典型として,政治的治安法のような―心情刑法と同様に行為以前の段階も含めて包括的に処罰対象とする―典型的な治安法とはその形式を異にする刑罰法令であろうとも,治安強化目的でこれらがとくに公安事例に適用される現実に着目する呼称である[14]

 そうした例は即座に想起されよう。公園内公衆トイレへの「反戦」落書きに対する建造物損壊罪(最判2006年1月17日刑集60巻1号29頁),反戦ビラのポスティングに対する住居侵入罪(立川自衛隊監視テント村事件 最判2008年4月11日刑集62巻5号1217頁),厚労省課長補佐による政党機関紙のポスティングに対する国公法(政治的行為の禁止)違反(国公世田谷事件 最判2012年12月7日刑集66巻12号1722頁)等々である。業務妨害罪についても同じく,上述の沖縄返還協定反対活動に対する東京地判1973年9月6日や,やはり上述の傍聴席から議場にスニーカーを投入れて特定秘密保護法に反対意思を示した東京地判2015年2月24日に加えて,都立高校卒業式に招待された元教師が週刊誌のコピーを配布して国歌斉唱の際に着席を呼びかけたうえ校長らによる退去強制に抗議した事案(最判2011年7月7日刑集65巻5号619頁)[15],名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前でコンクリートブロックを積上げる等により工事資材の搬入を阻止しようとした事案(最判2019年4月22日)[16]生コン運搬運転手の正社員化や運賃値上げを要求して出荷拠点の運送業者のセメント出荷阻止を共謀した事案(大阪地判2021年7月13日)[17]等がある。

 

4.刑法上の違法性とソフトな違法一元論

 氷山の一角のそのまた一角に過ぎないであろう以上の例は,市民的治安主義に基づく治安法的な刑罰法規の適用例であり,基本権行使という性質を有する行為の―本来行われるべき―違法性阻却について,もはや可罰的違法性の概念が機能し得ないという現実の証左ともいえようか。しかし,行為無価値を重視する規範違反説の社会的相当性―行為態様の社会的・歴史的通常性の有無と程度―による違法判断であれ,結果無価値を重視する法益侵害説の法益(の要保護性)衡量―侵害法益と同等あるいはそれを凌駕する法益保全の有無―による違法判断であれ,刑罰法規の適用に際しては,本来の可罰的違法性判断に求められるのと同様の慎重かつ抑制的な判断が求められる。

 判例が一般に,本来行われるべきこのような違法判断を事実認定に解消し,想定される他の要保護利益の侵害あるいはその危険と当該行為の―厳密かつ明白な―必要性・切迫性を比較衡量しつつ,他の要保護利益の侵害ないし危殆化の可能性を総動員して当該行為の違法性を判断する結果,違法阻却はきわめて「狭き門」となり,―再審請求について語られるところに倣えば―「針の穴に駱駝を通すより難しい」ものとなっていることは,既に見たとおりである。しかし,とくに基本権行使に対する刑罰法規適用の通例化ないし一般化が意味するのは,自由主義の後退ないし死滅に外ならず,そのような刑法と刑事司法の在り様は,前近代のあるいは権威主義国家のそれのルネサンスといわねばなるまい。

 上述の市民的治安主義による刑罰法規適用例においても,このような前近代のあるいは権威主義国家の刑法適用という色彩は隠せない。処罰対象たる犯罪の核芯を抗拒罪/抗命罪にみるという点である。前近代における刑法の中心課題は,地の平和という神の意志に対する否認・反抗の処罰であり,典型的には大逆罪や反逆罪のように,神によって処罰権/裁判権を委ねられたとする君主の権威に対する―いまだ行為に至らない(共謀罪のような!)潜在的な内心の意思も含めた―否認や抵抗の処罰であった。権威主義国家における刑法もまた同じく,典型的には心情刑法として猛威を揮った治安維持法のように[18],国家が後見し担保する現存価値秩序の―やはりいまだ潜在的な内心的意思も含めた―抵抗や否認の処罰を重要な使命としていた。苦くて重い歴史の教訓である。要するに,刑法(に基づく処罰)によって市民に対して現存価値秩序への同意を強制し,刑法(に基づく処罰)によって現存価値秩序を確証するという,いわば刑法の原初的暴力性に対する制約ないし抑制を欠く刑法/刑事司法は,前近代あるいは権威主義国家のそれであり,近代自由主義国家/社会にとって克服し訣別すべき悪弊/旧弊でしかない。近代自由主義国家は,個人の自由―及びその総和の最大化―を国制改革の第一原理とする啓蒙思想の影響の下に生成・発展したからである。

 マックス・ヴェーバーに言及するまでもなく,近代の特質を多元的な権力から一元的権力への移行に見出すなら,近代国家は―物理的な実力=暴力Gewalt =権力の排他的かつ独占的な所有主体/行使主体として―最も組織的かつ系統的に暴力=権力を所有し行使する主体として立ち現れる。近代刑法という理念型は,国家/権力による自由の抑圧・侵害という歴史の教訓に学んだ叡智の所産であり,強大な国家権力への徹底的な懐疑―絶対的な権力は絶対的に腐敗する―を出発点とする。かくして古典的な近代自由主義の理解によれば,刑法はウルティマラツィオであると観念され,自由主義国家の近代刑法の理念と―現実的で実践的な―目標は,積極的・包括的・優先的な社会防衛手段の投入/発動ではなく,国家が独占する強大な刑罰権から個人の自由を保護することに求められるのである。

 そうであればこそ近代自由主義国家は,刑法の謙抑性・断片性・補充性とその帰結である刑法の世俗化・合理化・人道(人間)化をたんなるモットーに止めることなく,実現すべき課題とせねばならない。その実践原理こそが近代刑法原理―罪刑法定の原則/行為原理・侵害原理/責任原理―である。上述の可罰的違法性の概念による違法阻却という思考も,刑罰法規適用の抑制という市民に対する自由保障の側面に着目すれば,―違法論の指導原理とされるべき―行為原理・侵害原理が有する自由保障機能を実質化し貫徹する試みであったといえよう。たしかに刑法の謙抑性・断片性・補充性という近代刑法の前提的な公理に従う限り,刑法上の違法性は―単に当該行為と結果が形式的に構成要件を充足するというだけでは足りずに―刑罰を科すに値するだけの質と量を保持するものでなければならない。刑法における違法評価/認定には,行政法や民事法といった他の法領域とは異なる質と量の認定が求められるということである。

 例えばソフトな違法一元論は,周知のとおり,法秩序は統一的であるがゆえに違法は相対的であるという。刑事法・行政法・民事法といった各法領域は,その自由侵害の程度と強制力に応じて統一的な階統構造をなし,自由侵害の程度と強制力に応じて各法領域に特有な違法性の質と量を有することから,違法の発現は各法領域によって異なることになる一方,違法阻却の基準は各法領域を通じて統一的に解され,自由侵害の程度と強制力のより微弱な法領域における違法性が認められない行為については,それがより強大な法領域における違法性もまた認められることはないとされる。いうまでもなく,刑法は強制的に自由や財産-ニホンのような死刑存置国においては場合によっては生命(!)―を強制的にはく奪する法領域であり,自由侵害の程度と強制力において刑法は法の最大限に位置する。つまり,刑法上の違法性は,他の法領域をなす行政法領域や民事法領域における違法に比してより強度な質と量を具備しなければならず,行政法領域や民事法領域において違法であるからといって,それが必ずしも刑法上の違法性を有するわけではなく,逆に,行政法領域や民事法領域において違法性が認められない行為については,常に刑法上の違法性も認めることはできないということである。それと同時に,刑事法は,いわば劇薬ともいうべき最も峻烈な実力装置であることから,その適用領域は法の最小限でなければならないということにもなる。

 このような違法性発現の個別性・相対性と違法阻却基準の統一性を求めるソフトな違法一元論に対して,周知のとおり,上述の久留米駅事件や全農林警職法事件における最高裁判決は消極姿勢を明らかにし,当該行為の違法性は「法秩序全体の見地」から当該行為が他の法領域において違法とされる事情も含めて評価されるとして,可罰的違法性の欠如による違法阻却という思考を事実上「死に体」として「お蔵入り」に追い込んだ。

 しかし,実務においてソフトな違法一元論が完全に排斥されているわけではない。例えば,検察官の絶対的裁量を許容するニホン型起訴便宜主義の是非は別論としても[19],検察官の起訴裁量にはソフトな違法一元論によらねば―政治的セレクションという以外に―説明が困難な例もある。記憶に新しいところでは,高級官僚が主導して公文書を書換えさせたという事案があった。学校法人への国有地売却をめぐって,首相夫人や政治家の氏名等の削除も含めて14文書で300カ所以上に及ぶ記録文書の「改ざん」について,財務省による調査では,当時の財務省理財局長Sが中心的な役割を担って近畿財務局職員らの抵抗を抑えて決済文書「改ざん」を強行し,「(改ざんの)方向性を決定付け」「(決裁文書を)国会答弁を踏まえた内容とするよう念押し」したとして,Sを停職3カ月の懲戒処分に付したのに対し,大阪地検特捜部はこれらの「改ざん」について,契約内容や金額といった決裁文書の「核心部分」には変更や虚偽記載がなく,この「改ざん」によっても決裁文書に新たな証明力が生じるような意味の変更は見出しがたいとして,告発された公用文書毀棄や虚偽公文書作成,更には背任等の各被疑事実についてSを不起訴とした[20]。上述の反戦落書きに対する建造物損壊や反戦ビラのポスティングに対する住居侵入,社会保険庁職員による休日の(しかも選挙期間外の!)政党機関紙の配布やポスティングを政治活動とする国公法違反等々,政治的セレクションとしか思えぬ検察による起訴事案を想起すれば,このような検察による処分の「手ぬるさ」と「手際良さ」に違和感を覚えざるを得ないという側面もある。多くの文書の多数箇所に及ぶ「改ざん」は各文書の意味の変更とは別に一連の文書全体の意味変更を生じさせるものであるから虚偽公文書作成罪,「改ざん」部分が文書の本質を変更するものではないとしても決裁者全員の同意を経ない削除や書換えは公用文書変造罪,その国会提出や会計検査院への提出等は同行使罪,財務省規則により1年未満の保管とされる交渉記録等についても,国会への提出を求められた時点でその存在が確認されていれば,保存期間超過後の隠匿・廃棄も公的に必要な書類のそれとして公用文書毀棄罪,更には現に存在する交渉記録を廃棄したとする国会におけるSの虚偽答弁は,議員の委員会質問や一般質問に困難を生じさせたものとして偽計業務妨害罪に該当する等々の指摘・批判のとおり,その当否は別としてもSの刑事責任を問うことは可能とも思えるからである。

 こうした検察官による起訴裁量が政治的セレクションによるものでないというのであれば,Sによる如上の行為は,懲戒対象となる行政法上の違法性が認められる行為であっても,刑法上の違法性が常に認められるわけではない―あるいは刑法上の違法性が認められるとしても起訴するに値しない程度の量に止まる―ということなのであろう。まさに―刑法上の違法は刑罰を科すに値する質と量を有するものでなければならないという―ソフトな違法一元論の思考―したがってまたそれを前提とする可罰的違法性の思考―を忠実に実践したものといえようか。

 

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(後半)

 5.過度に広汎な処罰の禁止と違法性判断

 結語

に続く

 

----- 脚注 ------ 

[1] 本件イベント開催に際しては,付近の歩道上でその開催に抗議して拡声器を用いてシュプレヒコールをあげる者もおり,検察官は論告において,被告人が本件イベント開催の事実に加えてこの抗議活動が行われることも事前に認識していたとして,被告人が本件イベントの開催自体を妨害しようとしたものであると示唆しているが,判決はそれを否定して,

  「なお,検察官は,被告人が本件イベントの開催自体を妨害しようと考えて本件行為に及んだ旨主張しているが,被告人が,本件行為に及んだ時刻が本件イベントの終了間際であったことや,被告人が本件イベントそのものを妨害するつもりはなく,オリンピック等の開催に抗議の意思を示そうとしていた旨供述していることからすると,被告人が本件イベントの開催自体を妨害する目的であったと認定するにはなお合理的疑いが残ることから,判示のとおり,東京オリンピックパラリンピックやそれに関連する聖火イベントの開催に抗議の意思を示そうと考えたものと認定した」

と判示している。本件イベント自体の催行に対する「妨害」とは認めがたくとも,その因果のエポクとしての運営業務の一部を阻害すれば業務妨害罪に該当するとして,本件のような表現活動にも刑罰適用を肯定するもので,この問題点には後に言及する。

[2] 判示は次のとおりである。

  「弁護人は,本件現場が喧噪のある市街地であって,静謐が求められる状況ではなく,本件当時,本件現場近くではオリンピックの開催に反対する抗議行動が行われていて警察官による警備も行われていたことからすれば,被告人が,単独で爆竹一束程度を人のいない体育館敷地内に投げ入れた行為をもって,『威力』に当たるとはいえない旨主張する。

   しかしながら,……(本件行為によってイベント会社社員の―引用者)……証人上野らが,更に激しい爆発が起こったり,複数人による同様の行為が行われたりするのではないかと考え,驚いたり,恐怖を感じたりすることは当然のことである。そして,証人上野らをして,そのような恐怖を感じさせ,更にこれを未然に防止する対応を取らざるを得ない状況を生じさせる程度のものである以上,本件行為は,被害者の自由意思を制圧する行為に該当するというべきであり,そのことは本件現場周辺で警察官による警備が行われていたとしても変わらない」

なお,威力業務妨害罪は可罰性の限界があいまいな犯罪類型であるとして,いわゆる「大阪駅事件」を中心に,対面での言葉による「威力」の行使の成否を検討するものとして,安達光治「業務妨害罪における威力の意義―人との対面での言葉によるものを中心に」立命館法学361号(2015年)132頁以下参照。

[3] 大塚仁『注解刑法[増補第2版]』(青林書院新社・1977年)1030頁。

[4] 大塚・前掲1028頁。本罪をこのように具体的危険犯と解するのは大塚の他に,藤木英雄『刑法講義各論』(弘文堂・1976年)251頁,佐伯千仭『刑法各論[新訂版]』(有信堂・1981年)136頁,団藤重光『刑法綱要各論[第3版]』(創文社・1990年)538頁,西原春夫『犯罪各論[訂補準備版]』(成文堂・1991年)285頁,福田平『全訂刑法各論[第3版増補版]』(有斐閣・2002年)201頁等があり,現実の結果発生を要する侵害犯と解するのは小野清一郎『新訂刑法講義各論[第3版]』(有斐閣・1950年)224頁,瀧川幸辰『刑法各論[増補版]』(世界思想社・1951年)100頁,中森喜彦『刑法各論[第2版]』(有斐閣・1996年)70頁,平野竜一『刑法概説』(東京大学出版会・1977年)188頁,斎藤信治『刑法各論』(有斐閣・2001年)83頁,曽根威彦『刑法各論[第4版]』(弘文堂・2008年)74頁,西田典之『刑法各論[第4版]』(弘文堂・2009年)121頁,大谷実『刑法講義各論[新版第3版]』(成文堂・2009年)142頁等がある。

[5] 業務従事者が認識していない例として,斎藤・前掲82頁は,店舗の前に物を一面に立てて並べた(東京高判1964年11月25日),捕獲されたイルカを解放した(長崎地佐世保支判1980年5月30日,静岡地沼津支判1981年3月12日),公害源の工場排水を生コンで封鎖した(高知地判1976年3月31日)等を挙げている。

[6] この点についてはさしあたり,大塚・前掲1031‐1032頁,大谷・前掲142頁等参照。なお大塚の指摘するとおり,判例は行為の態様により違法阻却の成否について積極と消極の相違がある。

[7] 市民社会の安全弁というのは,平野竜一『刑法総論Ⅱ』(有斐閣・1975年)278頁における「期待可能性」に関する叙述に着想を得たものである。

  「……期待可能性の理論は,刑法が結局において『法律家』のものではなく国民のものであるための安全弁として必要である。陪審制度のもとでは,陪審が無罪といってしまえばそれでおしまいであるから,ここで国民感情との調和がはかられる。しかし,陪審制のない,そしてドイツのように,責任阻却としての緊急避難や強制の規定をもっていないわが国では,超法規的な安全弁が必要である」

 ただし,可罰的違法性の欠如を―刑法35条によらない―「超法規的」違法阻却事由と解するか否かは検討を要する問題である。刑法35条「正当な業務による行為は罰しない」とは「正当な行為は違法性がない」ということであり,「正当な」とは「違法性がない」の謂であるから,字義通り解すれば35条はたんなるトートロジーでしかなくなる。35条は,「正当な―違法性のない―行為を罰してはならない」―違法性のない行為に刑罰法規を適用してはならない―という違法性に関する一般条項として,36‐37条の緊急行為以外にも違法性の実質を欠く行為があり,違法性を欠く行為に対して刑罰法規を適用することは許されないという―当然の事理を確認的に規定した―違法性の総則規定であると解される。したがって35条は,医師による治療行為や格闘技といった個別の違法阻却事例群のみならず,被害者の同意や可罰的違法性の欠如等々―従来は超法規的違法阻却と解されていたものも含めて―あらゆる刑法上の違法阻却の根拠規定だと解されるべきなのである。

[8] ビラ配布のため管理者の許可なく駅構内に立入り管理者の退去要求にもかかわらず退去しなかったという事案につき,住居侵入罪及び許可なく鉄道地内で物品の販売や配布,演説等を禁じる鉄道営業法35条違反を認めたもので,周知のとおり,「パブリック・フォーラム」論を展開する裁判官・伊藤正巳の補足意見が付されている。伊藤はビラ配布についてとくに重要な意見表明手段だとしながら,

「ビラ配布が言論出版という純粋の表現形態でなく,一定の行動を伴うものであるだけに,他の利益との較量の必要性は高いといえる。したがつて,……本件のような規制は,社会に対する明白かつ現在の危険がなければ許されないとすることは相当でない」

とし,その正当性判断―つまりは違法判断―は他の要保護利益との比較衡量によるべきであるとして,やはり違法判断を事実認定に収斂させてしまう。

  「……ビラ配布の規制については,その行為が主張や意見の有効な伝達手段であることからくる表現の自由の保障においてそれがもつ価値と,それを規制することによって確保できる他の利益とを具体的状況のもとで較量して,その許容性を判断すべきであり,形式的に刑罰法規に該当する行為というだけで,その規制を是認することは適当ではないと思われる。そして,この較量にあたっては,配布の場所の状況,規制の方法や態様,配布の態様,その意見の有効な伝達のための他の手段の存否など多くの事情が考慮されることとなろう」

[9] マジックホン事件判決における裁判官・大内恒夫の補足意見は,「電話料金がただになる機械」の設置が許されないことは一般人が容易に了解し得ることであり,妨害罪は「妨害結果を発生させるおそれのある行為」をもって成立するから,本件事案において当罰性が否定されることはないとして,この趣旨を明らかにしている。なお裁判官・谷口正孝は結果の軽微性とマジックホン製造・販売業者の責任追及のため捜査に協力した点等を考慮して,可罰的違法性を否定して違法性を阻却すべきだとする反対意見を述べている。

[10] マジックホン事件を詐欺罪ではなく偽計業務妨害罪で起訴したのも,絶対的軽微による違法阻却を回避するためだったのであろう。更にこの事件は,通話料金10円の免脱という不可罰的利益窃盗を偽計業務妨害罪によってカバーするという側面を有しているが,その点を重視すれば,業務妨害罪においても実際の被害額が問題とされるべきだという指摘がある。その点について京藤哲久「マジックホンの取り付け使用行為が有線電気通信妨害罪及び偽計業務妨害罪にあたるとされた事例(最決昭和59.4.27)」警察研究58巻2号(1987年)47頁以下参照。

[11] 官公労働者の争議あおり等の処罰規定に関して,都教組事件判決(最判1969年4月2日刑集23巻5号305頁)や東京中郵事件判決(最判1969年10月26日刑集20巻8号901頁)の判例―国公法違反事件としては都教組事件判決と同日の仙台全司法事件判決(最判1969年4月2日刑集23巻5号685頁)―を変更する全農林警職法事件判決が,法的論理というより,「判例変更が専ら最高裁判所裁判官人事を通じて数(または力)の論理のもとに遂行された」「クーデター的」なもので,いわゆる「司法の危機」に対する第5代最高裁長官・石田和外による青法協(ブルー)パージに典型的な人事政策の帰結であり,判例としての妥当性や正統性に疑義が存するという点について,小田中聰樹『治安政策と法の展開過程』(法律文化社・1982年)48‐49頁,宮本弘典「思想司法の系譜―ニホン刑事司法の古層2」同『刑罰権イデオロギーの位相と古層』(社会評論社・2020年)300‐302頁参照。

[12] 被告人が「一般傍聴人を装って衆議院本会議場に侵入し」たというのは奇妙で驚くべき判示というべきであろう。本件は控訴審(東京高判1975年3月25日刑裁月報7巻3号162頁)で有罪が確定した。なお第1審判決によると,弁護人による可罰的違法性の欠如による違法阻却の主張は以下のようなものであった。

  「……弁護人は,被告人らの本件各所為の目的は,国会審議の物理的妨害や議事を混乱に陥れることにあったのではなく,被告人らとしては,沖繩の歴史が徹底した差別と収奪のもとに貧困と屈辱を強いられて来た歴史であり,沖繩返還協定の隠された真の意図は,これを契機として沖繩を日本の国内植民地化しようとするものであるから,同協定は不当であるとの認識を抱き,これに反対する沖繩県民の意思を顧みようとしない日本国民に対する抗議の意思を表明し,心ある人々に対し被告人らとともに決起し右協定を粉砕するように呼びかけることが目的であったのであるから,被告人らの本件所為はその目的において正当というべきであり,これに用いた手段は,爆竹,横幕,ビラなど,すべて思想表現の手段として相当なものであり,傍聴人はもとより衛視に対してもなんら有形力は行使していない。また,その影響や結果をみても,被告人らの行為によって,総理大臣の所信表明演説が一時中断し,傍聴人が立ち上がり,議場の議員がふりむいたという程度にすぎず,却って被告人らは大声をあげたものの忽ち衛視に取押えられたのであって,その影響および結果は軽微である。しかも,沖繩のこれまで置かれて来た歴史的事情を無視し,沖繩県民の発言を一切封じ,将来においても封じようとしたことに対して,やむを得ずとられた行為であるから,被告人らの本件行為は可罰的違法性がないと主張する」

 ここで言及されているとおり,被告人は衛視によって抗議活動を阻止されると同時に,取り押さえられたうえ傍聴席から排除されており,たんに「その影響および被害は軽微である」というのみならず,その時点で行政法上の処分によって抗議活動を封殺され,国会を傍聴する権利をはく奪されるという不利益処分を受けている。そうした行政法上の処分に加えてなお刑罰を科すだけの違法性が認められるのかが問題だったといえよう。衛視による排除という処分については,特定秘密保護法制定に反対しその審議に抗議して,国会の議場へスニーカーを投入れた後述の東京地判2015年2月24日も同様である。

[13] 例えば,内田博文『日本刑法学のあゆみと課題』(日本評論社・2008年)5‐6頁は,政治的治安刑法の敗戦前後に共通する特徴について,

  「支配体制を維持しようという,優れて政治的な意図を持つものだという点が第一である。第二は,このような政治的な意図に照応して,『国家の敵』が国家の安全に何らかの侵害をもたらす前に,これを結社・宣伝・表現の罪などとして規制する政治的な予防主義を原則としているという点である。第三は,これらの罪においては,罪となる行為の記述は不確定な概念あるいは一般条項で行われており,思想の危険性が決定的な要素とされる結果,いわゆる心情刑法化しているという点である」

と指摘したうえ更に,

  「これらの動きを仮に政治的治安主義と名づけると,市民的安全の擁護という名の下に国家刑罰権を市民の日常生活の隅々にまで浸透させることを目的とし,市民的秩序の『実力的』貫徹をめざす動きを市民的治安主義と呼ぶことができる」

として,近時におけるその拡大が刑罰国家ともいうべき刑事法制と刑事司法の背景をなしているという。

[14] このように適用される刑罰法規について,例えば中山研一刑法総論』(成文堂・1982年)5頁,吉川経夫/小田中聰樹『治安と人権』(法律文化社・1974年)289頁以下は「機能的治安法」と呼んでいる。なお治安法に関する先行研究として,宮内裕『戦後治安立法の基本的性格』(有信堂・1960年),中山研一現代社会と治安法』(岩波書店・1970年)等参照。

[15] 被告人の行動が表現活動であってもやはり違法であるとする論理は,既に見たステロタイプによるもので,裁判官・宮川光治の補足意見も,

「例えば校門前の道路等で行われるのであれば,原則として,憲法21条1項により表現の自由として保障される」

として,被告人が校門前のような「パブリック・フォーラム」において同様の行為を行い得た―より穏やかな手段を選択し得た―のだから本件行為は違法だとしている。

[16] 被告人は沖縄平和運動センター元議長で,起訴罪名は,一連の反基地活動により威力業務妨害罪のみならず,傷害罪と公務執行妨害罪を含んでいた。被告人の身柄拘束は約150日に及び,ようやく保釈直前に20分の妻との面会許可を得た。なおこの事件の第1審における意見書を基に表現行為の刑事規制の憲法適否を検討する論攷として,高作正博「表現行為に対する刑事法の適用とその合憲性」関西大学法学論集67巻6号(2018年)41頁以下参照。

[17] 全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(いわゆる「関西生コン」)委員長に対する判決(懲役3年 執行猶予5年)で,起訴罪名は組合員らとの共謀による威力業務妨害に加えて(未遂を含む)恐喝も含まれ,求刑は懲役8年であったが恐喝については無罪とされた。逮捕以降の身柄拘束は640日に及ぶ。本件判決を含む一連の「関西生コン」事件は,2017年の運搬運転手の正社員化を求めるストライキに始まる活動を契機として,共謀も含めて逮捕者は延べ約80名に及び起訴された者も延べ60名を超え,複数回逮捕・勾留によって身柄拘束が1年を超える例もある。威力業務妨害罪を構成する罪となるべき事実が「ストの計画」とされるように,共謀罪適用のシミュレーションを兼ねたパイロット事例という側面を有し,また,「関西生コン」の―適法な―要求行動の捜査に対する使用者側の協力には,2018年6月に導入された「司法取引」の一面が存することも否定できない。以上についてはさしあたり,竹信三恵子「『関西生コン事件』と労働基本権の危機」IMADOR(国際人権NGO反差別国際運動)HP. https://imadr.net/books/200_3/

[18] 思想検察による「凡庸な悪」ともいうべき刑事司法の様相は,1937年に反ファシズム雑誌『世界文化』同人が治安維持法違反で相次いで逮捕され,長期にわたる身柄拘束下において繰返し暴虐かつ侮辱的な取調べを受けた久野収の述懐によっても窺われる。久野収「帝国憲法の教訓」(法学セミナー1957年3月号) 同『憲法の論理[増補新版]』(筑摩書房・1989年)41‐43頁によると,公判から思想犯保護観察に至る様子は以下のとおりであった。なお,宮本・前掲265頁,279‐280頁参照。

  「検事の論告と判事の判決とがともに法律論はほとんどなく,護教の精神にみちみちていたことです。検事は科こそ違いますが,同じ大学を同期ででた人物でしたが,被告のような悪質な犯罪者は,根性が根本からなおるまで刑務所に入れておくのが国家のためである。不幸にしてわが国にはナチの強制収容所のような制度がないし,初犯では刑はどうしても軽くなるのがまことに残念だ,といった趣旨のことをのべたてました。法律では主として具体的行動を罰するものだという学説を,われわれは大学で一緒に机を並べて,法律学の権威から教えられたはずなのに,この人物は意識だけをとりあげて,あたかも中世の異端審問官のような調子で攻撃しました。……検事は治安維持法の従来の例に従ってほとんど機械的に論告しているにすぎません。……だからこの検事は,おそらく現在『夜と霧』(みすず書房)をよんでも,……あまり恥じるところがないのではないかと思います。むしろ自分のことは忘れて,『夜と霧』の事実にいきどおりを感じてさえいるのではないでしょうか。……

   判事の方も,被告は国家に弓をひいた悪人だが,さいわい頭脳はなかなかよいのだから,心をいれかえて尽忠報国のまことをいたせば,悪を転じて善にすることができるであろう,といった護教的説教をのべ,……私自身の記憶では遂に判決理由書を被告によみきかせることなく閉廷したように思います。

   結果はいうまでもありません。……その後,職場を追われるだけではなく,敗戦後の10月4日,占領軍の思想犯釈放の指令の日まで,一週間に一度特高警官が,かろうじてえた職場を調査という名目の監視のためにたえずおとずれ,国の内外に大きな事件のおこるたびに“所感”という踏み絵を書かされ,まったく肩身をせまくしたまま,思想的には,ほとんど呼吸をころして,生きつづけなければならなかったとすれば,誰もがものをいわなくなるのは当然であります。……

   やがて自分が少数派,或いは異端とみられることへの恐怖から,インテリや学者は,最初は本心をかくして,大勢に身をまかせはじめ,後にはそれが惰性となって,どちらが大勢で,どちらが本心かわからなくなる気分が支配的となり,恥多き日々を送りつづけることになりました。それから生じる国民の損失は,おそらく計ることができないほどのものがあったと思います」

[19] ニホンの起訴便宜主義は検察官に絶対的な起訴裁量権限を認める比較法的にも稀有なもので,起訴するか否かは専ら検察官の判断に委ねられている。その判断の根拠は刑訴法第248条によれば,「犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情状」であるとされるが,司法研修所教官室編『検察講義案[改訂版]』(法曹会・2002年)102‐103頁によると「刑罰を科さなくても,社会秩序の維持を図ることができるかどうか」という法的根拠のない要素も考慮されるという。

[20] この不起訴処分について,「世間の耳目を集めていること,事案の特殊性などに鑑み,処分結果と理由の説明が必要」であるとして,2018年5月31日,大阪地検特捜部長・山本真千子が次席検事・畝本毅の同席のもとに異例の会見を行い,その冒頭で「今回の事案が社会的な批判の対象となっている」が「犯罪にあたるかどうかは慎重に考えざるを得ない」という「検察のスタンス」を述べ,Sの不起訴処分は「嫌疑なし」ではなく「『嫌疑不十分』という文字通り」の判断によるものだと述べた。財務省がSの主導的関与による「改ざん」を認めて懲戒処分に付したのは,刑事訴追の懸念を一まず解消する検察の判断を示すこの会見から旬日もおかぬ6月4日のことであった。なお,宮本弘典「司法をめぐる動き(38)森友文書『改竄』不起訴を考える―検察官司法の闇」法と民主主義529号(2018年)42頁以下参照。

 

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宮本 弘典(みやもと ひろのり)

主要著作

『警察監視国家と市民生活』(共著 白順社・1998年)

『治安国家拒否宣言 「共謀罪」がやってくる』(共著 晶文社・2005年)

『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房 朔・2009年)

『冤罪・福岡事件 届かなかった死刑囚の無実の叫び』(共著 現代人文社・2011年)

『転落自白 「日本型えん罪」はなぜうまれるのか』(共著 日本評論社・2012年)

『歴史に学ぶ刑事訴訟法』(共著 法律文化社・2013年)

『国家の論理といのちの倫理 現代社会の共同幻想と聖書の読み直し』(共著 新教出版社・2014年)

『近代刑法の現代的論点 足立昌勝先生古稀記念論文集』(共編著 社会評論社・2014年)

『刑罰権イデオロギーの位相と古層』(社会評論社・2020年)

など。

現在の権利・自由は、既存の秩序に打撃を与える直接行動をした勇気ある人々が切り開いてきた…酒井隆史氏意見書

酒井隆史(大阪公立大学教授、社会思想史)

【0】まえがき

 わたしは現在、大阪公立大学現代社会システム科学研究科に属しております。専攻は社会思想史、都市文化論です。

 わたしに与えられた課題は、社会運動史や社会運動論の観点から、本件の被告人である黒岩大助さんの行動を位置づけるということで了解しています。

 ここでは、まず、黒岩さんの行動を位置づけるにあたって必要な基本的概念を概説し、つぎに、その関連する社会運動史のなかの事例をいくつかあげてみます。そのうえで、とりわけ現代における社会運動やそれが惹起している論点を確認し、黒岩さんの行動について考えてみたいとおもいます。

 

【1】市民的不服従(civil disobedience)と市民的抵抗(civil resistance)

 黒岩さんの行動は、さしあたり基本的には「市民的不服従(civil disobedience)」あるいは「市民的抵抗(civil resistance)」とカテゴライズされる異議申し立ての様式に属しているようにおもわれます。

 それらは具体的におおまかにあげれば、ストライキ、デモンストレーション(しばしば無届けである)、占拠行動、座り込み、交通封鎖、徴兵拒否、税金支払い拒否などです。

 こうした事例を考察するにあたって、まず「市民的不服従」や「市民的抵抗」といったカテゴリーの基本的定義を示しておきます。

 まず「市民的不服従」について。この概念はたいてい、しばしばアメリカの19世紀の文学者ヘンリー・デヴィッド・ソローとむすびつけて語られます。1846年,アメリカ・メキシコ戦争にあたって,奴隷制廃絶論者であったソローはこの戦争が奴隷制拡大を目的としていると考え,その政府に税金を払うことは市民として拒むという態度をとり,わずか1日だが投獄されました。そのあとかれはその経験をもとに、いくつかのエッセイを書きます。このエッセイが、マハトマ・ガンディーやマーティン・ルーサー・キングにいたるまで強い影響を与え、「市民的不服従」そして「市民的抵抗」の基礎文献となりました(ソロー『市民の反抗 他五篇』岩波文庫、飯田実訳、1997年)。

 「市民的不服従」の概念は、その後、アメリカ合衆国の歴史のなかで、実践の経験をふまえて理論化されていきます。なかでも最もひんぱんに参照される、アメリカ合衆国の哲学者ジョン・ロールズによる定義は以下のようになります。

 

「[市民的不服従とは、なによりまず]通常、政府の法律や政策に変更をもたらすことを目的としておこなわれる、法律に反する、公共的で非暴力的、良心的かつ政治的な行為である。このように行動することで、人は、コミュニティの大多数の正義感に訴え、自由で平等な人間どうしの社会的に共にあることの諸原則が尊重されていないと、みずからの考えで宣言するのである」(ジョン・ロールズ『正義論』紀伊國屋書店川本隆史ほか訳、2010年)。

 

 この定義が引用されるとしても、それはたいてい「たたき台」としてです。実践においてはこのような厳格な定義はたいてい、そのままあてはめることはむずかしいからです。

 とはいえ、ロールズの定義においてなにが市民的不服従を構成しているのか、そのポイントを確認しておく必要があります。

 

 市民的不服従とは、ロールズによれば、

 

1)その共同体の少数派から多数派の正義感へむけて呼びかけるものです。

2)その公共性を訴えるうえで、非暴力であり良心的でなければなりません。つまり、対象としている法や政策が、そのコミュニティが共有する自由や平等に反することを訴えなければなりません。

3)「市民的不服従」は政府の正義に反した政策に対して,その法や政策に変化をもたらすことを目標としています。それゆえ、ある集団や個人の利益のためにおこなわれるべきではなく、公共的な正義に照らしておこなわれなければなりません。

4)「市民的不服従」は、公共性のある問題というだけでなく、その行動が公開性をもつものでなければなりません。たとえば、個人が不正だとおもう法律を順守しないばあい、これは「良心的拒否」と呼ばれます。

 

 こうしたロールズの定義は、先ほども述べたように、現実の市民的抵抗にとっては狭すぎるとしばしば批判されています。たとえば「非暴力的」という定義では、たとえば対人暴力は否定されるにしても、器物損壊にかんしては、なにも述べていません。現在ではロールズの定義はそのまま参照されるというよりは、さまざまな修正や補充を加えた上で参照されるようです。

 

 つぎに「市民的抵抗」について。この概念を普及させたのは、マハトマ・ガンディーであるといわれています。しばしば狭隘すぎる「市民的不服従」という概念を呑み込んでいったような印象もあります。

 近年よく参照にされているエリカ・チェノウェス『市民的抵抗』(白水社小林綾子訳、2022年)によれば、市民的抵抗とは、「動的な紛争の方法であり、非武装の人びとが、調整されたさまざまな方法(ストライキ、抗議行動、デモ、ボイコット、その他、多くの戦術)を用いて、相手に直接に危害をくわえたり脅迫したりすることなく、変化を促すことを目的とする」と定義されます。

 すこし整理をしますと、

 

1)それは紛争の方法です。つまりそれは、「積極的に紛争を惹起するもので、混乱を招いたり、現状を打破したり、別のものと替えたり、変革したりするために、力を集結させる」ものです。

 

2)それをおこなうのは、相手に直接に危害を加えるのではない非武装の市民です。かれらは、みずからの創造性や独創性を武器に闘う一般市民であって、かれらは暴力という手段はとらないとされます。しかし、注意しなければならないのは、「市民的」の原語にあたるcivilには、ていねいなとか洗練された、節度のあるといった意味があるのですが、市民的抵抗におけるcivilはそのような意味を、すくなくとも優位なものとしてもつのではないという点です。つまり、それは「非武装」の「文民」ということをなによりも意味しているのです。だから、市民的抵抗には、相手に対して、ヤジを飛ばしたり、パイを投げつけたり、邪魔をしたり、器物を破壊したり(これがどこまで許容されるかは議論があります)、そうした「無礼を働く」行動もふくまれます。

 

3)そこには、(制度内外のレンジをカバーした)多様な方法の組み合わせがみられる。デモと請願とか、あるいは、ストライキと占拠行動などです。

 

4)そこには、非制度的行動がふくまれています。非制度的行動とは、意図された不服従であり、既存の制度、法の枠外でおこなわれる行動です。したがって、制度的形態にのみたよる行動は市民的抵抗とは呼ばれません。

 

5)目標は、現在の状況に影響を及ぼすことにあります。これは、市民的抵抗が、広範な社会の変革を目標とする傾向があること、じぶんたちだけの利益のためにではなく、社会全体の変革を目標とする傾向があることを意味しています。たとえば、公民権運動に参加していた黒人たちは、みずからの権利だけではなく、社会全体のレイシズムや白人至上主義を根絶しようとしていました。

 

 このように、「市民的不服従」と「市民的抵抗」という二つのカテゴリーは、よく似ており、しばしば互換的に使用されています。しかし、この基本的定義をみてもわかるように、おおまかにいって、市民的不服従がかなり限定的であるのに対し、市民的抵抗がより広範な領域をカバーしており、「不服従」というより、もっと積極的な多様な表現をふくむといえるでしょう。以下では、主要に「市民的抵抗」を使用することにします。

 

【2】市民的抵抗の伝統——いくつかの事例

 市民的抵抗の最も古い事例としてあげられるのは、紀元前1170年頃、エジプトの労働者のストライキです。ラムセス三世の墓を建造する労働者たちが、食糧を安定して供給されることができるまで労働を拒否しました。これが人類が記録したかぎりでの、最古のストライキです。それからもローマ帝国で徴兵を拒み、処罰された初期のキリスト教徒、あるいは日本における百姓一揆など、世界の各地で無数の事例がつづきます。

 しかしここでは、近代にかぎっていくつかの事例をあげたいとおもいます。

 

1)マハトマ・ガンディーの塩の行進

 マハトマ・ガンディー(1869−1948)は、現代における市民的抵抗を定式化したともいわれます。当時イギリスの植民地支配のもとにあったインドで生まれ育ったガンディーは、イギリスで法律を学び、南アフリカで弁護士として活動をはじめます。かれはそこで、人種差別的な立法に反対し、その法を破る運動をはじめます。そこでかれが提案した実践的方法は、サティーヤグラハ(「真理の力」を意味します)と呼ばれるものでした。サティーヤグラハはなによりもまず非暴力的抵抗を指しますが、「受動的抵抗」とも呼ばれていたそのような方法にあきたらず、かれは真理、あるいは愛や魂の力を強調しました。それは、忍耐と慈悲によって相手を過ちから引き離すこと、相手にではなく、みずからに苦しみを与えることによって、真理を救済するということを意味しています。総じて、ガンディーは、「受動的抵抗」ではない、積極的な力をその非暴力的抵抗に込めていました。

 かれのそのサティーヤグラハの実践のなかでも最も有名なものに、「塩の行進」があります。インドでかれは、イギリスの植民地主義からの独立を求める運動を展開します。当時、インドでは、インド人は大英帝国の大きな収入源であったイギリスの塩を買わなければなりませんでした。イギリスの支配者がインドの塩に課した税金と、インド人に塩の生産を禁じた塩法に抗議するための象徴的な行為でした。ガンディーは、1930年3月12日、78人の献身的なボランティアとともに行進を開始します。海までの385キロの道のりを、村や町から多くの人々が行進に参加しました。国際的な報道陣をひきつれながら、かれらは24日後に目的地に到着します。最終日、ガンディーは海で水浴びをし、塩を集め、インド人に無料で塩を手に入れることができることを示しました。何百万人もの人々がかれのあとにつづき、海水を入れたボウルを太陽の下におき、水を蒸発させ、無料で塩を採取しました。ガンディーと数千人の信奉者は逮捕されます。「塩の行進」はすぐに効果を発揮しませんでしたが、さらなる市民的抵抗の高まりにつながり、インド独立運動の基盤を築いたといまではみなされています。

 

2)サフラジェット

 イギリスの女性参政権運動は、1860年代には活発に動きはじめています。集会やビラの配布、国会への嘆願など、さまざまな努力がおこなわれました。ところが、女性参政権はつねに却下されつづけます。その運動は、20世紀に入る頃には、ほとんど年中行事のような「無害な風景」と化していたといわれています。その風向きが変わるのが、1905年です。その直前の1903年に、エメリン・パンクハーストを中心とする活動家が、マンチェスターで「女性社会政治連合(WSPU)」を設立していました。WSPUのメンバーは、もはや「穏健」な戦術が効果をあげないことを知っており、別のフェーズへむかうべきであると考えていました。1905年、マンチェスターで開催された自由党の集会にWSPUの二人の活動家がでむき「政権をとれば女性に選挙権を与えるのか」などと大声で叫び妨害し、取り押さえた警官に唾をはきかけるなどして逮捕・投獄されます。もちろんメディアや保守派からは非難囂々でしたが、これによって澱んだ女性参政権運動が脚光を浴び、当初は女性労働者たちを対象にしたこの運動は、やがて中流階級・上層階級にまで参加者を拡大していきました。

 彼女たちのとった行動にはつぎのようなものがあります。

 まず、投石です。1908年6月のデモ行進時、警官たちの暴力に怒ったメンバーが首相官邸の窓を破りました。その後も政府機関のみならず、新聞社や商業施設にも投石は拡大をみせました。

 つぎに、ハンガーストライキです。

 そして爆弾。1911年12月には、郵便ポストに自家製爆弾が放り込まれます。

放火。1912年には、ハーコート植民地相の別宅と、アスキス首相が観劇中だったダブリンの劇場が狙われます。別宅への放火は未然に防がれましたが、犯人には9カ月の禁固刑が言い渡されます。

 これはなかでも有名ですが、自殺行為です。国王の馬が出場するダービーのレース中に飛びだし、馬に蹴られて死亡します。

 器物破損。1914年5月、ロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されていたスペインの画家ベラスケスの「鏡のビーナス」をふくむ5点、ロイヤル・アカデミーに展示された作品1点が刃物で切り裂かれるなどの被害を受けます。

 こうした直接行動のみならずWSPUは巧みなPR戦術も展開しましたが、こうした行動の主導する多様な運動の高揚の結果、第一次世界大戦後の1918年に、選挙制度が改革され、30歳以上で一定の財産上の条件を満たした女性に選挙権が与えられ、財産がない21歳の女性全員が参政権を獲得するにはそこからさらに10年の歳月を要しました。

 

3)川崎重工争議

 日本ではじめて8時間労働制を採用したのは川崎造船所(現川崎重工)ですが、その背景には、1919年の争議があります。

 1918年の米騒動は、徐々に高揚をみせていた日本の労働運動をより本格的な展開への弾みを与えました。そのようななか、川崎造船所の本社工場の労働者たちは、賃上げや賞与支給などの労働条件の改善をもとめた要求を会社側に提出します。しかし、これに対して当時の社長・松方幸次郎氏が回答しなかったことをきっかけに、職工たちが「サボタージュ」闘争に移ります。「サボタージュ」とは、フランス語ですが、もともと「フランスで争議中の労働者がサボ(木靴)で機械を破壊した」ことに端を発し、「破壊行為」を意味してもいます。そこから、広辞苑の定義するような、つぎのような意味へと発展していきました。「労働者の争議行為の一つ。仕事に従事しながら、仕事を停滞させたり能率を低下させたりして企業主に損害を与え、紛争解決を迫ること。怠業。サボ」。

 日本ではこれが伝えられた当初より、もっぱら「怠業」を意味し、のちに「サボる」といった一般的名称になりました。このようなサボタージュはそこからより組織的ストライキに発展しますが、会社側は妥協案として8時間制を提案。それによって妥結をみました。

 

4)ローザ・パークスとモントゴメリー・バスボイコット

 1950年代から60年代にかけてめざましく展開され、アメリカ合衆国の黒人差別あるいはレイシズム一般への対策にかんして大きな成果を獲得した公民権運動ですが、その運動の発端のひとつとして知られているのがローザ・パークスRosa Parks)のバス・ボイコットです。

 パークスは、アフリカ系アメリカ人公民権活動家で、人種隔離政策、いわゆるジム・クロウ法に反対して闘った人物です。1955年12月1日、パークスはアラバマ州モンゴメリーで、市バスの中で白人の乗客に席を譲ることを拒否しました。パークスは逮捕されましたが、アフリカ系アメリカ人の社会正義を主張するために作られた公民権団体、全米有色人地位向上協会(NAACP)の当時の会長、エドガー・ニクソンによってその日のうちに保釈されました。

 この反抗的な行動は、モンゴメリーのバス・ボイコット運動に影響を与え、アフリカ系アメリカ人モンゴメリーの市バスに乗ることを拒否するようになりました。この抗議運動はブラウダー対ゲイル裁判につながり、連邦地方裁判所はバス分離は違憲であると判断しました。州と市は控訴したが、後に連邦最高裁がこの判決を支持しました。

 

5)気候正義運動による芸術作品

 2022年11月6日から2週間、エジプトのシャルム・エル・シェイクにて国連気候変動枠組条約第27回締約国会議(COP27)が開催されました。周知のように、世界的な異常気象、ウクライナ戦争が加速させているエネルギー危機など、人類にとって居住可能な地球環境が急速に悪化するなか、そして、科学者たちの強い警告にもかかわらず、対策は足踏み状態です。

 そんな状況に危機感を最も感じているひとつの層が、世界の若者たちです。かれらはこの危機的状況への対策を促すべく、COP27開催にあわせ、さまざまな市民的抵抗の行動をくり広げました。ドイツの環境保護団体は、ポツダムの美術館でクロード・モネの絵にマッシュポテトを投げつけ、イギリスの環境団体である「ジャスト・ストップ・オイル(Just Stop Oil)」の活動家はロンドンのナショナルギャラリーでゴッホの「ひまわり」にトマトスープをかけました。キャンベラのオーストラリア国立美術館では、2人の気候正義活動家がアンディ・ウォーホルのキャンベル・スープ缶にこれもスープ、マッシュポテト、ケーキを投げつけました。これらの作品はすべて厳重にガラスで保護されており、それはシンボリックな行動でした。その点で、かつての本当に芸術作品を毀損したサフラジェットとは異なっています。

 かれらの行動は、いまだ危機感に乏しいどころか、破壊をさらに推し進めている世界に、「芸術と生命、どちらが大切か。絵画を守ることと、地球と人間を守ることのどちらを重視するのか」と、問いかけることにありました。この行動は世界中で議論を呼びましたが、非難と同時に多くの共鳴も誘い、地球の危機の重さと同時に、最もこの危機にさらされ、その危機を担っていかなければならない若い世代の感覚を知らしめました。

 

【3】行動の文脈としての東京オリンピックパラリンピック

 今回の行動は東京オリンピックパラリンピックに反対するものです。いまとなってはこの大会がどれほどの不正と不法に充ちたものであったかはあきらかになりました。それはさまざまな側面で禍根を残しました。とりわけそれは、オリンピック・パラリンピックの威信あるいは正当性そのものを失墜させたともいえるでしょう。

 

1)オリンピック・パラリンピック、あるいはスポーツメガイベントそのものの正当性の低落

 すでにオリンピック・パラリンピックをはじめとするスポーツの国際的巨大メガイベントは、現地住民の強い反対に遭遇することが増えてきており、開催地の決定に支障をきたすほどになっていました。その背景のひとつには、富の格差を広げていく世界において、そうしたメガイベントが現地住民になんの利益をももたらさないどころか、それによる開発や財政負担、そして腐敗によってむしろ、人びとにとっては不利益になることが自覚されてきたからです。

 たとえば、最近では2010年のヴァンクーバーの冬季オリンピックがあります。もともと、イベントにさいしての開発やその後の土地利用における先住民の土地の収奪などに対して、先住民たちの強い抗議にさらされ、オリンピックにむけての高速道路建設やそのもたらす環境破壊に対しても市民の強力な抗議行動に遭遇していました。また、オリンピックを名目としたホームレスの排除や貧困地域の再開発による住民の排除も、強く批判されていました。

 いざオリンピックがはじまると、その開催中、街は抗議の波によっておおわれます。実際のオリンピックのスポーツ競技の初日である2月13日には、ヴァンクーバーのダウンタウンで、オリンピックのスポンサーであるハドソンズ・ベイ・カンパニーの窓が抗議者によって破壊されました。抗議者はまたオタワ、バンクーバー、ビクトリアで、オリンピックスポンサーであるカナダロイヤル銀行の支店を破壊します。それ以降も会期中は、こうしたさまざまな抗議の波にさらされました。そこにある論点は、以上からもわかるように、日本のものときわめて近似しています(Kristi Heim, Anti-Olympic protesters converge on Vancouver, The Seattle Times, Februay 9, 2010)。

 日本でも、海外での抗議行動のようなものは目立たないにしても、熱狂のようなものはメディアと政治家以外には広がらず、コロナ禍の渦中にあってむしろ中止論の広がりとなって、こうした忌避の感覚は表現されていました。今回の東京オリパラのなりゆきは、こうしたオリンピック・パラリンピックへの不信を、日本のみならず世界でも促進したようにおもわれます。

 直近でいえば日本のそれは、札幌冬季オリンピック開催への現地民の支持の低さにもあらわれていますが、その正当性の失墜は、住民のみならず、アスリートたちにまで広がりつつあります。たとえば、スピードスケートの小平奈緒選手(4回出場、金1個、銀2個)は、札幌招致活動への協力を拒否して、以下のように述べています。「五輪はスポーツをやる人たちにとっても、それを支える人たちにとっても、見る人たちにとってもいいものであってほしい。それを利用されたくないなっていう思いはある。  支えてくれる人たちが本当に真摯(しんし)にスポーツと向き合ってくれることをただただ願っています」(『FLASH』2022.10.10)。彼女はここで「いまの五輪はいいものでない」といっているのです。おそらくこれは、アスリートの多くに広がっている感慨ではないか、とおもいます。

 つけくわえておかねばなりませんが、昨年のカタールにおけるW杯においても、カタールにおけるマイノリティの差別的状況、そして会場整備において移民労働者が6500人も死亡したことなど、ここで近年の国際的スポーツメガイベントの矛盾が噴出し、多くのアスリートがボイコットや異議の表明をしました。

 おそらく、後世には東京オリンピックパラリンピックは、近代オリンピックのみならず国際的の威信の消滅において決定的転換点をなしたできごととして記憶されるようにおもわれます。その意味でも、つまりオリンピック・パラリンピックの威信の保持という観点からも、この東京オリパラの開催は禍根となっています。

 こうしたすでに世界の民衆との感覚と乖離し、不正にまみれたイベントに、唯々諾々と従わず、熱心に反対した市民がいたことは、むしろ日本社会のうちに正義をもとめる心が生きていることを世界に示すことになるでしょう。

 

2)東京オリパラのおそるべき「負のレガシー」

 東京オリパラは、東日本大震災福島第一原発事故を利用した「復興五輪」の名目を掲げ、「アンダーコントロール」という虚偽のアピールによって招致を獲得した当初より、スキャンダルにまみれていました。こうした招致にまつわる不正も、会期中からいまにかけて続々とあきらかになっています。

 世界一スリムで低予算のオリンピック・パラリンピックという約束は、すぐに反故にされ、結局、大会経費は当初の予算の倍の約1兆4238億円といわれ、新国立競技場の建設をめぐる混乱も問題ぶくみでしたが、その後始末はのちの人びとの禍根となりました。1569億円を投じ、さらに今後年間24億円の管理維持費がかかります。東京アクアティクスセンターが毎年6億4000万円、カヌー・スラロームセンターは毎年1億9000万円の赤字、海の森水上競技場が約1億6000円など、それ以外の5つの施設も赤字といわれています(「東京五輪の遺産「5つの赤字施設」は爆破解体が妥当?新国立競技場すら後利用のメド立たず、ツケはぜんぶ国民負担か」『MONEY VOICE』2021.09.09)。もちろん、これはすべて税金の負担となるわけです。

 また、それにともなう公園の廃園、それにともなうホームレスの排除、さらに都営アパートの解体と住民の追い出しも、いったいなんのためのオリンピックかと疑義をもたせます。そして、神宮外苑地区全体の再開発、そしてそれにともなう歴史的景観の解体とむすびついていることがいまになってあきらかになっています。

 こうした力や冨をもった人びとの利権と不正の温床である国際的スポーツメガイベントと、ほとんどの一般的市民との利害との乖離は、コロナ禍での開催反対の世論を抑えての強行というかたちで露呈しました。この不正の主役のひとつである出版大手KADOKAWAの会長だった角川歴彦氏は昨年10月に贈賄の罪で起訴されました。そのKADOKAWAの現社長である当時組織委員会参与であった夏野剛氏は、新型コロナ感染下のもとで五輪開催反対意見が強くなると、某テレビ番組に出演し、ピアノの発表会も中止されているのに五輪が開催されることのおかしさを指摘する意見に対し、「そんなクソなね、ピアノの発表会なんか、どうでもいいでしょう、五輪に比べれば。それを一緒にする、アホな国民感情に、やっぱり今年、選挙があるから乗らざるを得ないんですよ」と暴言を吐きました。さらにかれは、東京五輪に伴う新飛行ルート運用に反対する市民に対し、「その航路を開くときに、取り合えずB-2爆撃機でそのへん、絨毯爆撃したらいいよ。そいつら全員コロせ。いらねえよ」と述べています(「五輪不正KADOKAWA夏野剛社長に反対派への新たな“暴言”発覚! 一方、「ニコ動があるのは森元首相のおかげ」の茶坊主発言も」(LITERA 2022.09.09)。

 いまでは汚職によって権益の一部に与っていたとして被告人席に立たされている人間が、人びとの当然の不安やあまりの問題、湯水のように膨れていく予算(結局はその多くはじぶんたちの税金からのもの)に憂慮し、反対意見を示す市民の意見に対し、このように公の場で「殺害」を公言していたのです。

 考えてもみてください。こうした不正によってわたしたちの税金から多くの冨を獲得し、そしてメディアを利用して、異議申し立てしたり疑義を述べたりする人びとに対し、「殺害」を容認するような暴言すらまき散らすことのできる人びと、そしてその不当性や違法性があきらかになったあとも、なんらの罰をも受けない人たちが一方にいます。この東京オリパラに深く関与し、利権構造の一角にあった映画監督は、周知のように、NHKでドキュメンタリーを作成し、そこで捏造までして五輪反対派を誹謗中傷にさらしました。東京オリンピックパラリンピックがどれほど、日本社会のモラル的基盤を毀損しているか、あきらかです。

 他方では、それに対して、いまではその正当性があきらかになるばかりの主張をもってささやかな抗議をおこない、だれも傷つけることなく、またほとんどなんの支障も与えていない行動には、罪が与えられようとしています。

 ここでさらに確認しておくべきは、当時、世論調査においても、多数の人びとが開催を支持していなかったということです。少数者の意見を多数に表明するというのでもありません。むしろ、巨大な資力と政治力をふりかざしながら、さまざまな不正あるいは非合法な手段をもって暴走する列車を懸命に停めようとする、多数の人びとを代表しておこなわれた勇気ある行動だといえます。このように正当な批判に対しても、主催者は耳を貸さず、ただただ進行しようとしました。それに対し、なにがしかの対抗する意志の表明は、むしろ市民の義務ともいえるようにおもいます。

 

【4】市民的抵抗は成熟した民主主義の重要な構成要素である

 くり返しになりますが、今回の当該被告の行動は、ひとまずロールズの定義する「通常、政府の法律や政策に変更をもたらすことを目的としておこなわれる、法律に反する、公共的で非暴力的、良心的かつ政治的な行為」といった意味での「市民的不服従」に該当するようにおもわれます。

 ところが、これまで議論になってきたように、黒岩さんの行動は、威力業務妨害罪の適用すらきわめて議論の余地のあるものという点で、「法律に反する」といった規定も該当しない可能性もあります。つまりそれは、合法的な抗議行動にすぎない可能性です。

 【2】では、一般に「市民的抵抗」や「市民的不服従」として引き合いにだされる事例をみてきました。あるいは、【3】でも近年のオリンピック・パラリンピックに対する世界の抗議行動の一端を紹介してきました。これらの行動と比べてみてください。今回の行動は、ごくごくささやかなものであり、抗議行動との兼ね合い、さらにはイベントのスケジュールとの兼ね合いなど、むしろ、過大なくらい「迷惑」に対して配慮されたものです。

 たとえば、市民的抵抗にあっては、非暴力という規定に器物損壊をふくめるのかどうか、いまだにホットな議題となっています。これまでの歴史上の市民的抵抗の行動では、たとえ人的には非暴力であっても、器物にはなんらかのダメージがくわえられるという事態はひんぱんにみられました。ところが、今回の行動には器物損壊すらありません。そこに、きわめて慎重な意図があったことはあきらかです。だれも傷つけないような配慮です。

 たとえば、サフラジェットの闘いと比較してみましょう。先ほどあげた、1908年6月のデモ行進時、警官たちの暴力に怒ったメンバーが首相官邸の窓を投石によって破りました。この行動には、器物損壊がふくまれています。このとき2人の活動家は服役しますが、その期間は2ヶ月です。放火については、禁固刑9ヶ月です。この時代のイギリスですら、このような具体的に器物損壊をふくむ行動に対して、その程度の処罰にすぎません。当時の権利意識、とりわけ女性の権利への意識の弱さにもかかわらず、市民がみずからの権利や意志を表明することの重要性が強く認められていたのです。

 

 もうすこし直近の例をみてみたいとおもいます。

 気候正義運動の事例は先ほどあげました。くり返しになりますが、世界の若い世代は、ますますこの世界のなりゆきに危機感をもち、積極的に行動しつつあります。これは気候正義運動の示威活動の一環だったのですが、そのなかで、活動家のディアナ・ヴァイオレット・ココは、橋の上に駐車したトラックの上に立ちながら照明弾を点けたとして、交通妨害による交通法違反、公共の場でのオレンジ色の照明弾の所持、警察による移動命令への抵抗により、15ヶ月の実刑、そのうち8ヶ月の仮釈放停止期間を言い渡されました。

 この出来事は、大きな反響を呼んでいます。まず、こうした抗議行動に対する弾圧の強化としての批判があります(こうした抗議行動に比較すれば、今回の行動がどれほどささやかなものかがわかりますが)。しかし、ここで重視したいのは、重要な論点がそこで議論されていることです。

 それはdisruptive(秩序攪乱的)であることこそ、こうした市民的不服従の行動の有効性の核心を構成していることをどう考えるか、とまとめられます。ニューサウスウェールズ大学教授で犯罪・法律・司法センターの共同ディレクターであるルーク・マクナマラ(Luke McNamara)は、この事件について、「政府は秩序攪乱的な抗議活動に対してますます不寛容になってきていると」して、こう語っています。

 

「政府がデモ参加者に対して、受動的で破壊的でない許容可能な方法を指示することには、まさにそのようなやりかたには効果がないことが実証されているだけに、本質的な矛盾がある・・・わたしたちは、具体的な変化をもたらすためには、秩序攪乱と抗議とは手を取り合っておこなわれると認める必要がある。「抗議する権利」は認めながら、抗議が波風を立てることがないよう指示するといった態度は現実的ではない」(SBS News, Why was climate activist Violet Coco given a jail sentence and what are the laws against protesting?, 5 December 2022)。

 

 この「秩序攪乱と抗議とは手を取り合っておこなわれると認める必要がある」という点が、ガンジーからマーティン・ルーサー・キング公民権運動をへて現在、確立されてきた市民的不服従にかんする標準的な議論です。

 キングは、市民的抵抗をデモクラシーにおいて必須の要素であるとみなしていました。かれは、「バーミングハム刑務所からの手紙」という市民的抵抗の基礎文献ともなっている公開書簡で、制度という経路を通してなぜ要求しないのかという批判に、こう応じています。

 

「なぜ、直接行動なのか?なぜ、座り込みやデモ行進などなのか? 交渉の方がいいのではと、あなた方が問われるのはもっともです。実に、これこそが直接行動の目的なのです。非暴力直接行動[これはほとんど市民的抵抗とおなじ意味です]は、つねに交渉を拒否してきたコミュニティがその問題に直面せざるをえないような危機をつくりだし、その緊張感を創出することをめざしているのです。問題を劇的に変化させ、無視できなくさせるのです。非暴力抵抗者としてのわたしが緊張の創出をあげたことは、かなりショッキングに聞こえるかもしれません。しかし、わたしは「緊張」という言葉を恐れているわけではないことを告白しておかねばなりません。わたしは暴力的な緊張に真剣に反対してきましたが、建設的で非暴力的な緊張というものがあると考えています。それは成長のために必要なものなのです」(Martin Luther King, Letter from a Birmingham Jail, 16 April, 1963)。

 

 このあと、かれはこの真実に気づいたのは、「わたしたちは長くつらい経験から、自由は抑圧する側が自発的に与えるものではなく、抑圧される側が要求するものだということを知っています」と述べています。

 これまであげた例からもわかるように、わたしたちがいま享受している権利や自由のほとんどは、こうしたときの政治的・経済的に力をもった人びとから、そしてそこで設定されたルールからはみだすことをおそれず、「秩序攪乱的」な行動によって主張し行動してきた人たちによって獲得されてきたものです。今回の東京オリンピックパラリンピックは、いっぽうにどんなに不正があり、混乱があり、約束破りがあり、そしていっぽうでは多数の人びとが反対していても、制度上の規則を順守していてはなにも動かないということです。それはデモクラシー、つまり民衆がじぶんたちによってじぶんたちを支配するという原則に対立することもあるのです。だからこそデモクラシーには、制度的回路をそもそもつくりだす、こうした市民的抵抗が核心をなしているのです。

 いまあげました、オーストラリアでの行動と比較しても、今回の被告の行動はささやかなものにすぎません。それでも彼女の仮釈放なし期間8ヶ月をふくむ実刑15ヶ月の判決は、厳しすぎるものとしてオーストラリアでは大きな論争を呼んでいます。そのくらい、市民の抗議行動の権利は、重いものとして認められているのです。東京オリンピックパラリンピックは、スポーツを利用しながら強いものは不正によって巨大な富をシェアしあうのだ、という印象を市民に与えました。そして、おそらくより多くの不正はさして罪にも問われずに大手をふるっているだろうと、市民は予測しています。このような不正のまかりとおる状態こそ、社会を基盤から解体させているのではないでしょうか。

 ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバマスは、こう述べています。

 

「市民的抵抗は成熟した民主主義の重要な構成要素である。社会的な目的のために法律を破る市民を国家がどのように扱うかは、確かにその国の政治文化をよく表している」(Jascha Galaski , Civil Disobedience and Its Effects in Recent History Through 12 Examples, November 15, 2022)。

 

 くり返しになりますが、今回の事件は法律を破ったかどうかすら、不明確なものです。日本社会における、市民の抗議行動への不寛容は、他の先進国と比較してもはるかにきびしいものです。それが、社会の閉塞感を強化し、不正に対するあきらめを蔓延させ、人びとの基本的な倫理感を腐食させていく。それは社会が生き生きとすること、社会がその内側から未来をうみだすことをやめることだとおもいます。

 海外で若い世代が気候危機に憂慮し、憤り、ときに「過激すぎる」行動に走ることを、日本社会の多くのひとは眉を顰めるかもしれません。しかし、それは、この危機的状況のなかにあって、とりわけ若い世代がいまだ未来を人間が切り拓く力を信じていること、そして社会のうちに生き生きとした力が脈打っているということの表現でもあるとおもいます。近代社会は、矛盾をはらみながらも、こうした社会の危機を察知し、強者の不正、社会の矛盾に憤る力によってこれまで数々の達成をなしとげてきました。その知恵が、先ほど紹介した、抗議行動への慎重な扱いにつながっているのです。

 日本社会の衰弱はあらゆる指標が物語っています。その衰弱の要因のひとつが、こうしたささやかな、世界的にみれば市民的不服従というカテゴリーにすら該当しないかもしれない行動すら、厳罰をもってのぞもうとするような、強者の不正への寛容、弱者の憤りへの不寛容ではないでしょうか。

以 上

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酒井隆史(さかいたかし) 略歴

1965年生まれ。

大阪公立大学現代社会システム科学研究科教授。

専攻 社会思想史、都市社会論。

◆主要著作

通天閣———新・日本資本主義発達史』(青土社、2011年)

『完全版自由論』(河出文庫、2019年)

『暴力の哲学』(河出文庫、2016年)

『ブルシット・ジョブの謎』(講談社現代新書、2021年)など

◆訳書

ピエール・クラストル『国家をもたぬよう社会は努めてきた』洛北出版

デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』岩波書店(共訳)『官僚制のユートピア——』以文社、『負債論』以文社(監訳)

マイク・デイヴィス『スラムの惑星』明石書店(監訳)

デヴィッド・ウェングロウ+デヴィッド・グレーバー『万物の黎明』光文社(近刊)など。

国会を正常に機能させるために黒岩さんは請願権を行使した…笹沼弘志氏意見書

 意見書・笹沼弘志(静岡大学教授、憲法学)  

はじめに

 本意見書は、被告人弁護人らの依頼に基づき、被告人が2021年7月16日、東京オリンピックパラリンピック聖火リレーDay8(以下「本件イベント」という。)が開催されていた武蔵野陸上競技場(以下「陸上競技場」という。)に隣接する武蔵野総合体育館の前で、爆竹に点火して体育館敷地内に投げ入れて破裂させ、バリケード(プラスチックの柵であり、以下、単に「柵」という。原審上野調書6頁)を乗り越えて敷地内に立ち入ろうとした行為が、東京オリンピックの中止と同開催の是非に関して改めて議論を行うべきことを求める趣旨の請願権の行使として捉えうるものであり、威力業務妨害罪の構成要件に該当せず、またその方法も目的達成のための合理的範囲内にとどまるものであって可罰的違法性を有しないことについて、憲法学の観点から検討するものである。

 

 その前に、被告人がいかなる事情で本件行為を為すに至ったのか、その背景について簡単に確認しておきたい。

 まず、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(以下「東京オリンピック」という)については、その誘致から開催に至るまで、安倍元総理による虚偽の「アンダーコントロール」言明による招致アピール、竹田恆和・元招致委員会理事長によるIOC委員への贈賄疑惑、電通元専務で東京オリンピックパラリンピック組織委員会理事であった高橋治之の収賄疑惑、テスト大会に関連する業務の入札をめぐる談合疑惑など数々の不正行為があり、さらにオリンピック会場の建設に伴い明治公園内に居住する野宿者を強制執行により強制的に排除したり、あるいは都営団地「霞ヶ丘アパート」の住民を立ち退かせたりして、居住場所を奪うなどの人権侵害事件があった。

 被告人は、長年、野宿者(ホームレスの人々)の支援活動を行っており、東京都や渋谷区など行政が、公園や路上などで起居する野宿者を強制的に追い立てる行為に対して、その中止を求める活動に従事してきた。公園等に野宿する人々は、たとえ日本国民として選挙権を有していても、住居がないので住民基本台帳に登録されず、選挙人名簿にも登録されないため、選挙の際に投票する権利を剥奪され、国会や地方議会において自らを政治的に代表する者を持てなかった。そのため、国会や都議会などにおいてオリンピック開催の是非や、オリンピック開催に伴う公園での野宿者排除等について代表を通じて議論する機会を奪われてきた。

 オリンピック開催に関して国民の代表として職務を委託されている者たちが虚偽の言動や贈収賄の不正行為を行ってきたことは、正当に選挙された国会や都議会においてオリンピックの開催やその是非についての正常な議論を妨げる行為であり、民主的政治過程の機能を麻痺させ、国会や都議会等の正当性を傷つけるものであった。さらに、国や都が、こうした民主的政治過程の機能不全を伴った上で強引に開催を決めたオリンピックのための会場整備を口実として野宿者や高齢者らから居住の場所を奪う行為を行ってきたことについて、被告人は抗議の意思を示すとともに、オリンピックの中止と、オリンピック開催の是非について議論することを求めざるを得なかったのである。しかし、既にオリンピック開催の準備段階に入っている状況においては、議会での議論を呼びかけるだけでは足りず、開催準備などの実行行為を担う者たちに対して、オリンピックの中止とその開催の是非に関する議論を行うことを求めざるを得なかったのである。そこで、本件行為によって、オリンピック開催という公務の遂行に携わる点において公務員とみなしうる者(あるいはそのように被告人が考えた者)たちに対して、オリンピックの中止とその開催の是非に関する議論を行うことを求める趣旨で請願行為を行ったのである。

 そこで、オリンピックの開催に関して、本来、日本の民主的政治過程はどのように機能すべきであったのか、その機能不全に対してどのような手段をとり得たのかについて、国民主権と代表、議会政のあり方、議会政の機能不全を回復する請願権の機能等の観点から検討したい。

 

1.国会における代表者と国民

 日本国憲法は次の一文から始まる。

 

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

                                                                                                   

 すなわち、主権を確保した日本国民は行動する。何のために日本国民は行動するのか。わが国全土にわたって自由、人権を保障すること、また「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ことを目的として、日本国民は行動する。どのような方法で行動するのか。「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」する。

 日本国民が人権を保障し、戦争の惨禍が起こらないように行動するためには、「正当に選挙された国会における代表者」を通じる必要がある。国会は、主権者国民が行動するために日本国憲法が創設した手段である。この国会が正常に機能しない場合、主権者国民は行動することができない。つまり、人権を保障し、戦争の惨禍が起こらないようにするための行動ができないこととなる。国会の機能不全は、わが国全土において人権を保障することと、戦争の惨禍を起こさないことを不可能または困難に陥らせることとなる。これは、主権者国民を構成すると同時に、人権の主体である個々の国民にとって死活的な重大事であるというべきものである。したがって、国民個人は国会を正常に機能させることに常に重大な関心を有せざるをえない。

 国会が機能不全に陥りながら、自らその機能を回復し得ないとき、国民個人は座視しているべきなのであろうか。ジョン・ロックの政府解体論によれば、主権者国民は機能不全に陥った統治機構を排除し、新たな統治機構を設置することも可能である[1]。これが抵抗権と称されているものである。かような抵抗権の行使に至らずとも、国会の機能不全という事態を前にして、国民は主権者の地位にある者としても、人権主体としても、「国会における代表者」に呼びかけ、その機能を回復させるために最大限の努力を行うべきであろう。

 国会がその職務を忘れ、審議を怠り、機能不全の状態にあるとき、国民個人にはいかなる方法があろうか。その一つは日本国憲法21条が保障する一切の表現の自由である。そしてもう一つ、日本国憲法は、直接的に国会における代表者に呼びかけ応答を求める権利として請願権を保障している。そこで以下、議会制の本質と議会の公開の意義、請願権の観点から本件被告人の行為の違法性を検討する。

 

2.議会政の本質——自由な討論

 「自由は議会制によってのみ保障されている」[2]。わが国全土にわたって自由の恵沢を確保するためには、議会制が必須である。議会制の大原則は公開の討論である。「議会主義の絶対的に典型的な代表者」と呼ばれるフランスのギゾーは議会主義の構成要素を、自由な討論と公開性、出版の自由だとした[3]。このギゾーの議論を参照しつつ、現代自由主義憲法学に圧倒的な影響を及ぼしているカール・シュミットは、「討論と公開性」こそが「議会という制度がその精神的基礎」を置く原理であると論じた[4]現代日本における立憲主義憲法学を代表する樋口陽一は、討論と公開性、出版の自由という三つの要素は今なお「議会制民主主義の骨格をなすもの」だという。それは、「議会での自由な討論が公開され、表現の自由の保障のもとで、国民の批判にさらされることによって、多元的な利害と価値を反映した審議が可能となり、そのことによって、そのときどきの議会少数派(野党)も、その時点での表決では敗れても、国会審議の場で、さまざまな争点を提起することを通じて、つぎの選挙の機会に、有権者の支持を得ることを期待できる、というところに、現代議会制民主主義の図式が成り立つからである」[5]

 国会における代表者は、公開された自由な討論を通じて国民の総意、一般意思を形成することによってはじめて主権者国民の代表者となり、主権者国民が行動することを可能とする。国会における代表者が、自由な討論をなし得ない場合、国民の総意を形成することはできず、国民の代表者としての機能を果たすことも不可能となる。

 自由な討論により審議を尽くすことは議会制の本質的原理であり、生命である。審議の原理は、近代議会制を支える原理であり、「この原理は、議会の決定の妥当性に客観性をもたせるうえで、議会の構成員による自由な討議を尽くすことが寛容であるとする原理である」[6]。国会が審議をなしえない機能麻痺状態に陥ることは、議会そのものの存立意義、生命を失うことに等しい。とすれば、主権者国民は人権を保障し、戦争の惨禍が起こることのないように行動することができなくなる。

 ジョン・ロックは「社会にとって何が善であるかを討論する自由と、その討論を遂行する時間的余裕とをもたない限り、たとえ一定数の人びとがいても、否、たとえ彼らが集会を開いたとしても、そこには立法部が存在するということにはならない」、「立法部の自由を奪うか、適切な時期における立法部の活動を阻害するかする者は、事実上、立法部を奪い取り、統治に終止符を打つことになる」、つまり「統治の解体」がもたらされるという[7]。その場合、人民は新たな統治機構、立法部を設立し直さねばならないこととなる[8]

 このような統治の解体状態に陥る前に、立法部の自由な討論を維持し、支えるのが議会の公開の原則である。人民監視の下ではいくら暴君といえども露骨に暴力をふるうことはためらわれるものである。

 

3.請願する権利

 請願する権利について、憲法16条は、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と定めている。

 「請願の本質」とは何か。清宮四郎は「国民および国家機関の認識を深め、国家機関が間違った行動にでるのを防」ぐことであると端的に述べている[9]。国家機関、例えば国権の最高機関である国会が間違った行動にでるのを防ぐことこそ、請願権の本質的機能であろう。「国会における代表者」が正常に機能しなければ、主権者国民は人権保障のために行動することができない。とすれば、国家そのものの存立意義自体が失われてしまう。そのとき、国民は「国会における代表者」に正常な機能を回復させるために、請願権を活用すべきであろう。

 国会における代表を選出し、あるいは変え、議会の機能そのものを積極的に構成する役割を果たすのは前述の通り選挙である。しかし、選挙権は成人の国民に限定されている。未成年者や受刑者、住居喪失者には選挙をなす資格が与えられていない。しかし、彼らであっても、また外国人であっても日本国の統治下にある限り、国会に対して請願をなしうる。したがって、主権者国民が全土にわたってすべての人の自由・人権を保障するために行動する手段としての国会の機能を限界ぎりぎりの地点で支える役割を請願が果たしていると言えよう。だからこそ、「国政全般の徹底的民主化に伴って、・・・請願権の行使に付いてのやかましい制限が撤廃され、誰でも簡易な手続のものに手軽に行いうるようになった」のである[10]

 請願の方法については、請願法1条が「請願については、別に法律の定める場合を除いては、この法律の定めるところによる」と定められており、国会に対する請願については国会法で、地方議会に対する請願については地方自治法等で定められている。

 しかし、これらの定めは国会や地方議会などが本来の機能を果たしている場合を前提として、国会が制定したものである。国民・住民の代表機関として議論し意思決定を行う議会が機能不全に陥っている場合、その機能不全を是正するように議会に対して請願を行う手続について、法律は特段の定めを設けてはいない。これはある意味で当然のことであろう。しかし、それは議会の機能不全時においては、国民が憲法によって保障された請願を議会に対してなしえないということを意味しない。むしろ、そのような場合だからこそ、国民には議会の機能不全を是正すべく憲法上の権利としての請願権を活用することが求められるというべきである。議会が正常に機能していない場合、国民は直接憲法16条に依拠して積極的に請願をなすべきであるといえよう。改めて憲法16条を見てみれば、請願の目的については「損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項」であり、国会や地方議会の機能不全に関する請願も当然含まれるものと解される。このとき、憲法16条よって請願について課される制限は唯一「平穏に」ということのみである。

 「平穏に」という条件について、宮澤俊義は「請願を行うに際して、暴力を用いたり、暴力的威嚇を用いたりすることなく、の意である」[11]と解している。具体的には、「大衆的なデモ行進を背景とする請願」も平穏なものとして許容すべきものと解されている[12]

 「平穏に」という条件を逸脱したものについて、宮澤俊義は「その請願を提出された機関は、これを受理する義務がない」としている[13]。しかし、行為目的が請願であり、請願行為であるといえる限り、なお「何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」ものというべきであろう。

 ところで、「平穏に」というのは、いかなる概念か。これは例えば「大衆的なデモ行進を背景とする請願」が「平穏」なものと解されているように、一定の幅があり、なおかつ相対的なものといえよう。デモというのは屋外、車輛が多数通行する路上で、ときとして店舗の宣伝や音楽などが流れる喧騒の中で行われるものであるから、大音量のスピーカーなどを使って行われることもある。これに対して静寂な官庁の屋内で求められる平穏さは全く別物であろう。つまり「平穏に」というのは相対的概念なのである。

 現に静寂であって、静寂であらねばならないような機関、例えば図書館に対して請願を行う場合には、大声を出すことを慎まねばならないのは当然であろう。しかし、大きな騒音につつまれている公共事業の建設現場において、その騒音を止めるか低くして欲しいと求める請願については、事業を指揮する公務員に請願内容が正確に伝わるように一定の大きさの声を出すことが必要となる場合がある。これは、請願が呼びかけというコミュニケーションの一態様であるがゆえに有する当然の性質である。

 コミュニケーションとしての呼びかけ行為について考えてみよう。例えば、財布を途に落とした通行人に財布を落としましたよと声で呼びかけても気づかずに急ぎ足で立ち去ろうとしているとき、財布を拾い、追いかけ、肩を叩いて呼びかけることが必要となることがある。声を掛けたが反応しなかったから放っておくということが道徳的により正しいということはできない。また、例えば学生が教授の研究室を訪ねたとき、軽くドアをノックしても教授が研究に没頭しているのかまったく反応しなかったならば、教授が気づいてくれるようにより強くノックをするであろう。それが礼儀に反するということはない。

 請願は、国家機関等に対する呼びかけであるが故に、まず当該の国家機関等に請願している事実に気づいてもらう必要がある。そのために必要な一定の手段をとった場合、それは許容されるべきものである。憲法16条の「平穏」の程度も、このように「気づいてもらう」という必要性との比較で相対的に決まるものである。

 16条はまた「平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」と定めている。したがって、当然ながら「平穏に請願」を行ったことにより処罰されるべきではないのはいうまでもない。また、目的が請願であり、そのために必要な手段としてやむを得ずにとった方法について、刑事免責されるのも当然である。16条が定める「平穏」さは、請願のために必要やむを得ない手段を許容するというのは上述の通りである。ただ、主観的には必要やむを得ない手段であると思っていた場合であっても、客観的には過度の不合理なものであり、「平穏」なものでないという評価を受ける場合もあろう。しかし、憲法が「請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」と強く請願行為を保護している趣旨を鑑みれば、当該請願がなされた状況において必要やむを得ない程度の「平穏」さを超えたものであっても、その程度に応じて違法性が阻却されるか、刑が減軽されるべきものである。

 「いかなる差別待遇も受けない」ということは、単に処罰しないということだけではなく、請願を行うことにより政治的にも社会的にも、経済的にも、あらゆる場面で差別的な、不利な扱いを受けないということである。なぜこのように請願を手厚く保護しているのか。 それは請願権が参政権的意義を有しているだけでなく、外国人も含め、日本国の統治のあり方全般について統治下にあるすべての人びとの自由に関わるからである。統治に一方的に服従し、統治者に対して一切意見を述べることも、聞いてもらうこともできないのは奴隷状態に等しい。だからこそ、請願権に対して手厚い保護を行っているのである。これを考慮すれば、許容される「平穏」さはより広汎なものになると考えられる。請願目的であれば、暴力的な方法でなければ、一見平穏さを欠くかに見える態様であれ、平穏なものとして許容されるべきであるといえよう。

 いかなる場合に平穏さを欠く、許容されない請願であるといいうるのか。その限界を明確に引くことは容易なことではないかも知れない。しかし、本件のように多数の人々が集う競技場周辺の喧騒状態にあった中で、爆竹を用いることは特に危険な行為というべきものではなく、誰にも傷害を負わせていないし、何も壊しておらず、平穏な請願の範疇に属するものというべきであろう。仮にこれが平穏の程度を一定程度超えたものであったとしても、処罰すべき甚だしく不穏当な行為であるとまでは言えないであろう。そこで次に、本件行為の評価について、本件行為が請願を目的としたものであったか、本件行為が平穏なものであったか否かに即して検討してみたい。

 

4.本件行為の評価と評価方法

 1審東京地裁立川支部判決が認定している通り、被告人による爆竹点火及び投げ入れ等の一連の行為は、「本件イベントの開催自体を妨害する目的」でなされたものではない。被告人の目的は本件イベントを中止させることではなく、東京オリンピック2020の開催自体の中止を求めることであり、そのため改めて同オリンピックの開催の是非を国と都が議論するよう求めることであった。その目的達成のために、本件イベントの場を通じて、オリンピック開催のための業務に従事する者たちや国や都の民主的政治過程を担う者たちに対する請願を行う趣旨で本件の一連の行為を行ったに過ぎないのである。

 つまり、被告人は数々の疑惑と不正により国会や都議会で十分に議論されることがないままオリンピックが開催されつつあることについて深い失望の念をもち、民主的政治過程が本来の討論・審議機能を回復させ、オリンピックの実施に関して改めて議論することを求めて、爆竹点火及び投げ入れ等の一連の行為を行う方法を用いつつ、請願を行ったということができる。これら一連の行為は、国会や都議会が国民や都民の代表としての機能を失っているのではないかと懸念し


た被告人が、これら民主的政治過程を担う機関が本来の討論機能を回復させることを企図して行った請願行為としての性格を有する。

 これに対して、東京地裁立川支部判決は、被告人の行為を「聖火イベントの開催に抗議するという被告人の思想・考えを示すための表現行為であることは理解できる」とした上で、「憲法21条1項は、表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく、公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであり、たとえ思想を外部に発表するための手段であるとしても、その手段が他人の権利を不当に害するようなものは許されない」として「被害会社の業務を直接又は間接に中断ないし変更させるもの」であることなどから、「その手段や方法は、表現行為としての相当性を欠いている」と判断し、被告人の行為が威力業務妨害罪に該当し違法性も阻却されないと有罪判決を下した。

 しかし、被告人の行為は名宛て人を人一般とする表現行為としての性格を有するだけでなく、オリンピック開催業務に従事する者たちへの請願行為である。請願については請願法5条が「官公署において、これを受理し誠実に処理しなければならない」と定めている。公益財団法人東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会の役員や職員については、東京オリンピックパラリンピック特別措置法28条で「みなし公務員」と定められている。同委員会からオリンピック関連イベント開催業務を請け負う私人であっても、オリンピック業務という公務の遂行に当たる者であるから、被告人等国民にとっては公務員またはそれに準ずるものとみなされうるものである。従って、被告人から請願を受けたために、「これを受理し誠実に処理するため」一時的に従事していた業務を中断せざるを得なかったとしても、これによって被告人が業務を妨害したとはいえないのは当然である。むしろ、オリンピック開催業務に従事していた「被害会社」の従業員等は、被告人の請願を受理し誠実に処理するための行為を為すべきであったのである。

 従って、被告人が本件一連の行為によって「被害会社」の業務を一時的に中断させたとしても、被告人の請願を「受理し誠実に処理するため」の義務を課せられた「被害会社」は、むしろ業務を中断し請願を受理する義務を負っているのであるから、被告人が「被害会社」の業務を妨害したとはいえないのは当然のことである。

 被告人がとった爆竹点火及び投げ入れという有形力の行使方法は、お祭りなど祝い事をする際の慣例的な行為であって、ことさら危険な行為とみなすべきものではない。被告人の行為は、自らの請願をなすために、オリンピック開催業務従事者に対して呼びかける行為に過ぎない。例えば道端で財布を落とした人を追いかけ肩を叩き、財布を落としましたよと声を掛ける行為と同様、必要最小限度の呼びかけの方法に過ぎない。

 ところで、日本の民主的政治過程を担う国会が自由な討論による審議というその本来的機能を失い、混乱喧騒状態に陥っている場合に、「国会審議が正常なルールに基いて営まれないことについて憤激」して一定の有形力を行使した国会議員等の行為について、その動機の正当性を斟酌して無罪を下した事例としていわゆる国会乱闘事件1審東京地裁判決(1962年1月22日判例時報297号7頁)がある。

 同判決は「民主制議会政治の基本的原則は国会における議案の審議が十分に論議を尽すことによってのみ運営されることにある」ことを前提とし、議院の自律権にも一定の限界があるとした上で、「多数党が数の力を頼りに有無を言わさず押し切ることの非」に対して実力をもって対抗した野党議員が公務執行妨害罪や傷害罪等に問われたこの事件において、「被告人らは国会審議が正常なルールに基いて営まれないことについて憤激こそすれ、本来これを決して妨害しようとしたものではなかつたことが明らかである。」、「国会の正常な運営、審議等を妨害せんとするが如きは議会政治を破壊するものとして到底これを容認できないけれども、本件における被告人らの行動はすべていささかも国会の正常な審議を妨害せんとする意図に出たものではない」ことを重視して無罪判決を下した。

 本件被告人も国民や都民を代表する国会や議会が「正常なルールに基いて営まれないことについて憤激こそすれ、本来これを決して妨害しようとしたものではなかつた」のであり、むしろ「民主主義を守るため」すなわち国会や都議会など民主的政治過程にその正常な機能を取り戻させることを意図していたのは明らかである。

 

結論

 本件行為は、主権者であり、かつ人権主体である被告人が、数々の不正行為などによってオリンピック開催に関わる民主的政治過程が歪められ、議論が不十分な状態にあることを目の当たりにして、民主的政治過程の本来の機能を回復させることを目的として行った請願行為である。また、選挙権行使機会を剥奪され、国会や都議会等でのオリンピック開催に関する議論から排除されてきた野宿者等を代表して、彼らの意思をも届けようとした請願行為である。その目的は正当であって、その方法は憲法16条の定める平穏さの限度内のものであり、なんら非難されるべきものではないというべきである。

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[1] ジョン・ロック『統治二論』(岩波文庫、2010年)560-561頁。

[2] ハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』(岩波文庫、2015年)45頁。

[3] M. Guizot, Histoire des origins du gouvernement représentatif en Europe II, Paris, 1851, p.14.

[4] カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』(岩波文庫、2015年)125頁。

[5] 樋口陽一佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂憲法III 注解法律学全集3』(青林書院、1998年)126—127頁(樋口陽一執筆)。

[6]佐藤幸治日本国憲法』(成文堂、2011年)448頁。

[7] ジョン・ロック『統治二論』(岩波文庫、2010年)555-556頁。

[8] ロック前掲書558-559頁。

[9] 清宮四郎「請願法」同『憲法の理論』(有斐閣、1969年)373頁。

[10] 清宮四郎前掲書382頁。

[11] 宮澤俊義芦部信喜補訂)『全訂日本国憲法』(日本評論社、1988年)228頁。

[12]樋口陽一佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂憲法I 注解法律学全集1』(青林書院、1994年)352-353頁(浦部法穂執筆)。

[13] 宮沢前掲書228頁。

 

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〈主要著書〉

(1)単著

1)『臨床憲法学』、単著、日本評論社、2014年9月、全231頁。

2)『ホームレスと自立/排除』単著、大月書店、2008年2月、全312頁。

監修

3)野村まり子絵・文 ; 笹沼弘志監修『えほん日本国憲法 : しあわせに生きるための道具』(明石書店、2008年)

 

(2)共著

4)「日本社会を蝕む貧困・改憲と家族 : 24条「個人の尊厳」の底力」中里見博・能川元一・打越さく良・立石直子・笹沼弘志・清末愛砂著『右派はなぜ家族に介入したがるのか : 憲法24条と9条』大月書店、2018年5月

5)「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、石埼学・笹沼弘志・押久保倫夫編『リアル憲法学第2版』、共編著、編者他6名、法律文化社、2013年5月、132-145頁。

社会権、国家賠償請求権」辻村みよ子編著『ニューアングル憲法 : 憲法判例×事例研究』、共著、編者他14名、法律文化社、2012年6月、234-258頁。

○6)「傷ついた公共性と『社会的なもの』」杉原泰雄、樋口陽一、森英樹編『戦後法学と憲法 長谷川正安先生追悼論集――歴史・現状・展望』共著、編者他75名、日本評論社、2012年5月、361-383頁。

7)「人権批判の系譜」愛敬浩二編『人権の主体』共著、編者他11名、法律文化社、2010年11月、22-52頁。

8)「社会権・国家賠償請求権」辻村みよ子編『基本憲法』共著、編者他17名、悠々社、2009年4月、201-224頁。

9)「犯罪と『社会の保護』——社会的排除立憲主義の危機を超えて」日本犯罪社会学会編『犯罪からの社会復帰とソーシャル・インクルージョン』(現代人文社、2009年)135-151頁。

10)「反戦ビラ入れ裁判で何が問われているのか」(立川・反戦ビラ弾圧救援会編著『立川反戦ビラ入れ事件』、明石書店、2005年5月10日)、pp.142−155(共著者石埼学、鵜飼哲、安達光治他)

11)「基本的人権をめぐる改憲論とその問題点」(ピープルズ・プラン研究所編『改憲という名のクーデタ』、現代企画室、2005年5月1日)、pp.87-99(共著者小倉利丸、天野恵一、白川真澄他)

12)「子ども法改革の国際的動向——旧ソ連(ロシア、ベラルーシ)」(日本教育法学会子どもの権利条約特別委員会編『提言[子どもの権利]基本法と条例』、三省堂、1998年6月10日)、pp.252-267(共著者永井憲一、荒牧重人、広沢明他)

13)「法制改革の諸問題——教育への権利と自由をめぐって」、川野辺敏監修『ロシアの教育・過去と未来』新読書社、1996年4月5日、pp.396-411(共著者川野辺敏、遠藤忠他)

14)「権力と人権」憲法理論研究会編『人権理論の新展開』共著、19名、敬文堂、1994年10月、31-42頁。

その他論文多数。

「請願したのだ!」笹沼先生かく語りき

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五輪忖度判決粉砕★爆竹抗議無罪!
控訴審突入決起集会

怒りに火をつけた五輪忖度=懲役1年判決!
法は誰のため。強いものにおもねる司法は粉砕。
いざ控訴審突入へ!あつまれ!

日時:4月23日(日) 13:15開場  13:30開始
会場:武蔵野芸能劇場・小ホール三鷹駅北口すぐ)
お話:宮本弘典さん(刑法) ※控訴審の意見書を提出いただいた学者
「あんたを業務妨害で逮捕する!?」―反政治的な政治弾圧について
※ほか・五輪談合レポート・弁護団解説など乞うご期待!
主催:武蔵野五輪弾圧救援会
  ( https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2023/03/15/070832

※カンパもよろしくお願いします
  郵便振替00150-8-66752(口座名:三多摩労働者法律センター)
  通信欄に「7・16救援カンパ」と明記

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弁護団・控訴趣意書(下) 何も壊さず誰も傷つけずに抗議した黒岩さんは一審で有罪。なのに、五輪関係者たちは不正をしてもばれずに罪を逃れている!

被告人黒岩大助 威力業務妨害被告事件 

東京高等裁判所あて控訴趣意書(2023年2月28日)

弁護人栗山れい子、同・山本志都、同・石井光太、同・吉田哲也 続き

弁護団・控訴趣意書(上)は→ https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2023/04/07/221351

弁護団・控訴趣意書(中)は→ https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2023/04/12/025316

判決文は → https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2022/09/25/215456

第4 被告人の行為に違法性は認められない(続き)

3 本件行為の違法性は阻却される

⑴ 被告人の行為と対比させるべき法益について

 

ア 保護法益 

  原判決は、「Uらが従事していた業務が円滑に進行されることによって得られる利益」を、被告人の行為と対比すべき法益として定立し、本件業務について法律上保護されるべき性質を有するものととらえる。

  業務妨害罪が、旧刑法第2編第8章の「商業及び農工の業を妨害する罪」を前身とし、経済的基盤としての信用を保護する信用毀損罪と同じ章に規定されていることからすれば、本来、人の経済活動を保護法益とするものである。その保護範囲は、経済的範囲に限定されるものではないとしても、一定の社会活動を保護するものと評価すべきである。

  被告人の勾留状における「被疑事実」においては、「第32回オリンピック競技大会開催に伴い、公営財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長武藤敏郎が主催し、・・武蔵野陸上競技場において開催中の・・イベント」と本件イベントの内容が簡略に示されていたが、起訴状においては、その説明すら省略されている。また、被告人が妨害しようとした業務については、「同社員らの整理誘導業務」(勾留状)、「同イベント参加者等の誘導、案内等の業務」(起訴状)、「本件イベントの参加者等の受付、誘導及び案内等の業務」(地裁判決・3頁)のように、イベント自体ではなく、イベントの主催者から委託を受けた業者の業務(実際に行うのは業者の従業員)とされている。

  しかし、被告人の主観的意図、本件行為を目撃した通常人が受領するメッセージからすれば、被告人が意見表明しようとした対象は「本件イベント」ないし本件イベントが付随するものとしてある「2020東京大会」なのであって、業者がイベント主催者から委託を受けていた、狭い「業務」に対するものではない。

  近時、労働争議に関連して、労働組合やその支援者らが行う抗議行動について、抗議活動の制圧のために委託された警備員らの業務を妨害するものとして、「業務妨害罪」として立件する事案が相当数みられる。本件にも共通するが、このように、本来、表現者の抗議の対象とは異なる、表現者により身近に接触する立場にある警備員や整理誘導員が行う「業務」が妨害されたと措定すれば、何らかの混乱が予想されるような事象について警備や誘導などの業務を委託された場合には、その事象そのものについてではなく全て警備誘導業務に対する妨害が成立する、すなわち、実質的には「業務が混乱なく何の問題もなく円滑に終了すること」が保護されるべき利益とされることになり、整理誘導業務従事者との間でなにかしらのトラブルが生じれば、それは、表現者が抗議の対象としていた事象(活動)に何の支障が発生しなくても、業務妨害罪が成立するということになる。

  このような事態は、本来の業務妨害罪が予定していたものではない。業務妨害罪の保護法益である「経済活動を中心とする一定の社会活動」を広く超えた「社会活動の平穏」を保護する結論になり、本件所為が有する社会的な意味、要保護性の本質を隠蔽するものとなってしまう。このことは、労働争議に伴う労働組合などの抗議行動やストライキに伴うピケットに業務妨害罪が問擬された例を想定すれば容易に理解できる。

  前述したとおり、本件行為は、業務妨害罪の構成要件該当性が認められず、仮に認められる余地があったとしても、本来業務妨害罪が予定していた法益侵害性がきわめて乏しい行為である。このような行為についてあえて業務妨害罪に問擬して刑事責任を問うことは、まさしく、表現者の表現活動の取締りを本来の目的としない法令を、表現行為の取締りに用いるという「脱法的行為」といえる。

イ 保護法益の主体

  原判決は、上記保護法益について、「Uらのみならず本件イベントの参加者等の関係者にとっても重要なもの」であるとしており、U証人、スパイダーのみならず、「関係者」も保護法益の主体であるかのように言及する(8頁)。

  しかし、U証人が従事していた業務が妨害の対象であるとしながら、その主体を「イベントの参加者等」にまで広げるのは、被告人の行為と対比させられるべき保護法益を実質的に拡張するものであって不当である。

⑵ 権利行使の制限が許される場合の判断基準

 

ア 表現の自由として

 

(ア) 政治的表現の自由の優越的地位

  本件行為は「象徴的言論」あるいは「市民的抵抗」としての性格を有し、これが処罰の対象とされる場合、それが正当行為として保護されるかに関する判断には、憲法適合性が判断される必要があり、その審査基準は、言論と同様に厳格な審査基準によって審査されなければならない。

  日本国憲法は、個人の尊重(13条)を最高の価値とし、個々人の個性・思想のかけがえのなさの尊重がその本質に包含されている。思想はその本質上、外に発表されることを欲するものであるから、個人の尊重は、必然的に表現の自由の尊重を要求するものである。よって、個人の精神作用の所産を外部に発表する精神活動の自由である「表現の自由」は、個人の全人格的な発展、自己実現のために不可欠であって、人間の精神活動の自由の実際的・象徴的基盤として、人権の中でも「優越的地位」を占める。

  特に、政治過程においては、政治・社会に関する知識・思想などが不断に流通し、自分の意見を表明する権利が与えられ、他人の意見を聞く権利が与えられることなしに、選挙権を効果的に行使することはできないし、日常的に政治に参加し、政治に働きかける自由がなければ、主権者は代表者の暴走を次の選挙時まで忍従しなければならないことになるから、政治に関する多種多様な情報が自由に流通している状態を確保することが制度的に保障されていなければならない。また、政治的表現の自由は、他の全ての人権の成立・展開を支える原動力となるものであり、憲法上特別な価値付与がなされているといえる。さらに、多数派や支配層に対して批判的な表現が迫害にあってきたことは、歴史上明らかな事実であり、この点についても配慮が必要になる。

  よって、表現の自由の中でも、特に政治的表現の自由については特別な地位が認められるべきであり、このことは、判例・学説の等しく認めるところである。

そして、2020東京大会が上述したような問題点をはらんでいることは、さまざまな観点から広範な論者から指摘されており、書籍や雑誌などでもそのような意見を採り上げた特集が行われていた(鵜飼調書1~2頁)。また、反五輪の運動は、国際的な反対運動ともつながりながら、招致運動中から展開され、運動の中で反対論も深化していった(鵜飼調書16頁)。2020東京大会は、政治的問題をはらみ、国論を二分するような状態のもとでその開催の是非が問われるようなイベントだった。

  したがって、2020東京大会の招致・開催の是非や開催方法についてはきわめて政治性の高い、思想的な問題であり、このイシューについて意思表示をすることは政治的な表現に含まれ、その表現の自由は一般的な表現行為以上に高度に保護されねばならない。

  この点原判決は、「公共の福祉のため必要かつ合理的な制限は是認される」という基準のもと、手段や方法が表現行為としての相当性を欠いている、本件行為を制限することによる表現の自由の制約の程度は小さいとして、本件行為の制限は「必要かつ合理的な制限」にあたるとする(8~9頁)。

  しかし、表現の自由の行使は、表現の場所や手段との関係で他者の財産権・管理権などの利益に影響を与える行動を伴うことも多い。少しでも他者の諸利益を害する場合に表現の自由の制約が許容されるとなれば、表現の自由の行使の保障は画餅に帰する。

  原判決は、吉祥寺駅ビラ配布事件最高裁判決(最高裁1984年12月18日)の、「たとえ思想を外部に発表するための手段であっても、その手段が他人の財産権、管理権を不当に害するごときのものは許されない」という判示を意識してか、「たとえ思想を外部に発表するための手段であるとしても、その手段が他人の権利を不当に害するようなものは許されないというべき」という。しかし、ここでは「不当に害する」といえるのかという点が重要であり、原判決はその点に対して全く配慮なく、「表現行為として相当でない」という裁判所の判断をただ押しつけるのである。

(イ) パブリックフォーラム論

  さらに、表現の自由の価値に実質的に配慮するためには、表現の場所が確保されていることが必要であり、そのような表現のための場所として役立つと考えられるべきところでの表現行為の規制に関してはその合憲性をより慎重に審査しなければならない。

  上記最高裁判決の伊藤正己裁判官の補足意見はその点について触れている。

  「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもつている。特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといつてもよい。一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくない。道路、公園、広場などは、その例である。これを『パブリツク・フオーラム』と呼ぶことができよう。このパブリツク・フオーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要があると考えられる。/道路における集団行進についての道路交通法による規制について、警察署長は、集団行進が行われることにより一般交通の用に供せられるべき道路の機能を著しく害するものと認められ、また、条件を付することによつてもかかる事態の発生を阻止することができないと予測される場合に限つて、許可を拒むことができるとされるのも(最高裁昭和56年(あ)第561号同57年11月16日第3小法廷判決・刑集36巻11号908頁参照)、道路の有するパブリツク・フオーラムとしての性質を重視するものと考えられる。/ もとより、道路のような公共用物と、一般公衆が自由に出入りすることのできる場所とはいえ、私的な所有権、管理権に服するところとは、性質に差異があり、同一に論ずることはできない。/しかし、後者にあつても、パブリツク・フオーラムたる性質を帯有するときには、表現の自由の保障を無視することができないのであり、その場合には、それぞれの具体的状況に応じて、表現の自由と所有権、管理権とをどのように調整するかを判断すべきこととなり、前述の較量の結果、表現行為を規制することが表現の自由の保障に照らして是認できないとされる場合がありうるのである。」

  と、道路における集団行進を例に挙げつつ表現行為全般との関係でパブリック・フォーラムに言及している。

  このような考え方は、判決文の中に明記されていなくても、近年に至るまでの最高裁判例においても前提とされている。

  佐世保エンタープライズ事件判決(最高裁判決1982年11月16日)は、道交法上の道路使用許可が、道路における集団的示威運動の権利を不当に制限し、憲法21条1項に反するものではないかということが論点の一つとなっていたが、この点について、許可要件で「現に交通の妨害となるおそれがない」こととされていることの意味について、単に抽象的な交通の妨害が想定されるだけでは足らず、警察署長が条件を付してもなお「道路の機能を著しく害する」ような態様のもののみ不許可とするという限定的な解釈を行った。これは、表現のための場所としての道路の機能を重視し、そのような場所での表現活動に関しては、たとえ一般交通の著しい妨げとなる場合であっても、その規制は相当程度に慎重でなければならないという考え方を前提にしている。

  また、泉佐野市民会館事件判決(最高裁1995年3月7日)は、市民会館使用の不許可要件の1つとして「公の秩序を乱す恐れがある場合」と定める条例の違憲・違法性が争われたが、同判決は、利用拒否が必要かつ合理的な制限かどうかは、「基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである」とした上で、条例の文言について、「本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、・・単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である」と、条例の文言を限定的に解釈した。市民会館が、集会という表現のための場所としての公の施設としての性質を有しているという点が考慮された結果といえる(平成7年度最高裁判例解説)。

  立川反戦ビラ事件判決(最高裁2008年4月11日)は、被告人らが「一般に人が自由に出入りすることができる場所ではない」ところに「管理権者の意思に反して」立ち入ったことから、処罰は合憲である旨の結論を導いた(高裁判決が「他人が管理する場所」全般において表現の自由を否定するのに比較して限定的である)。ここでも、表現行為が行われた場所がパブリック・フォーラムと評価しうる場所であるかが意識されている。

  しかし、原判決は、被告人が本件行為を行っていた場所について、違法性との関係で分析していない。

イ 請願権の行使として

  上述したように、請願権はその行使が高度に保障されている。「平穏」に行ったものと認められれば、請願権の行使の制限はそもそも認められない。

⑶ 合憲的限定解釈の必要性

 

ア 限定解釈とは

  国内の法体系は、さまざまな法規範が矛盾なく定立していることを前提としている(法秩序の統一性)。この概念は、憲法と他の法令との関係を整序する際に特に重要なものであり、最高法規たる憲法と他の法令とが矛盾・対立する場合には、後者は違憲・無効となる。

  法秩序が統一性を保つためには、まず、国家機関が、憲法と他の法規範との関係を矛盾・対立なく整合的に理解しうるように、下位法令を制定し、解釈し、適用しなければならない。つまり、立法府たる国会は、憲法と矛盾がないように法律を制定する義務を負う。しかし、下位法令のなかには、その規定自体が違憲ではなくても、その解釈次第では、本来正当な憲法上の権利行使にまで規制を及ぼしてしまい、憲法規定との矛盾を生じさせる適用可能性を有するものが存在し、そのような場面では、最高法規たる憲法を頂点とした法秩序の統一性を保つために、法令の規定を合憲的に解釈し、憲法規定との矛盾を回避する適用が行われることが必要となる。

  こうした場面で、日本の裁判所において用いられてきた法令の解釈方法が、法令の趣旨・目的と憲法上の権利保障との調整を念頭に、憲法上の権利を制約する法令の規定を限定解釈するという方法である。たとえば、四畳半襖の下張事件最高裁判決(1951年5月10日 わいせつ物頒布等の罪の限定解釈)、広島市暴走族追放条例事件最高裁判決(2007年9月18日 暴走族追放条例の限定解釈)、国家公務員法違反2事件最高裁判決(2012年9月18日(堀越事件、世田谷事件)国会公務員の政治的行為の禁止の限定解釈)などの例が、最高裁が法令の規定を限定解釈した例としてあげられる。

イ 業務妨害罪の適用範囲を限定すべき必要性

  業務妨害罪は、表現の自由の行使を直接規制するものではないが、同罪は構成要件に濫用の可能性がはらまれる犯罪類型であり、これを、市民的自由を抑圧する目的で、広範な捜査権限・起訴裁量のもとで適用してくることは、構成要件該当性が不明確な犯罪類型を新たに作り出すことと同じである。

  本件も含め、業務妨害罪のような本来価値中立的な法規を利用して、権力にとって都合の悪い言論を弾圧する、本来の趣旨とは離れて、法律が使われるという事態が生じている。このことは、「市民的治安主義」による市民的治安法による「市民的秩序の『実力的』貫徹」の前景化という形で、法学者に指摘されてもいる(宮本意見書10頁)。

  表現行為の取締りを本来の目的としない法令を、表現行為の取締りに用いるという「脱法的行為」は、法律の重要な機能である「予測可能性」を著しく害する。具体的に考えてみよう。「今まで犯罪とは考えられてこなかったことが、ある日突然犯罪として検挙される。この検挙の際、表現内容が問題とされたことはあからさまには示されないが、その本質的な目的が批判的言論の取締りであることを誰もが知っている。何が犯罪であり、何が犯罪でないのか、その境界が著しく不明確となってしまう、このような状況の中では、検挙を覚悟しなければ、批判的言論を発することができない」。このことは表現者にとって、きわめて強い圧力となり、周辺に多大な萎縮的効果を及ぼす。

  このような例として、公園内公衆トイレへの「反戦」落書きに対する建造物損壊罪(最判2006年1月17日)、反戦ビラのポスティングに対する住居侵入罪(立川自衛隊監視テント村事件 最判2008年4月11日)、厚労省課長補佐による政党機関紙のポスティングに対する国公法(政治的行為の禁止)違反(国公世田谷事件 最判2012年12月7日)があり、業務妨害罪についても同じく、沖縄返還協定反対活動に対する東京地判1973年9月6日や、傍聴席から議場にスニーカーを投入れて特定秘密保護法に反対意思を示した東京地判2015年2月24日、都立高校卒業式に招待された元教師が週刊誌のコピーを配布して国歌斉唱の際に着席を呼びかけたうえ校長らによる退去強制に抗議した事案(最判2011年7月7日)、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前でコンクリートブロックを積上げる等により工事資材の搬入を阻止しようとした事案(最判2019年4月22日)、生コン運搬運転手の正社員化や運賃値上げを要求して出荷拠点の運送業者のセメント出荷阻止を共謀したとされる事案(大阪地判2021年7月13日)などがあげられる(宮本意見書11頁参照)。

  被告人を逮捕し、起訴することで、批判的言論に対する萎縮的効果が生み出され、2020東京大会に対する反対の意思表示を萎縮させ、表現を制限することになることは当然想定されており、むしろ、そのような効果をもくろんでいたことが窺われる。

⑷ 本件行為の正当行為該当性

 

ア 表現の自由の行使

  被告人の本件行為は、政治的表現の自由の行使にあたる。また、本件現場の性質は、これまで検討してきたとおり、一般公衆が自由に出入りできる場所であり、実際にそこで(地裁判決も認めるとおり)「適法に」他の抗議活動は行われていたのだから、表現の場所としての機能を有することが想定されているので、パブリック・フォーラムとしての性質を有する。

  被告人の本件行為がパブリック・フォーラムの中での政治的表現の自由の行使として、最大限の保障が必要であることからすると、刑法35条の正当行為該当性は、被告人の行為の有する価値と刑法上の保護法益との抽象的な法益衡量にとどまらず、被告人の行為が具体的にどのような意義を有する行為であったのか、その行為によって刑法上の保護されるべき利益は実際にどの程度侵害されたと言いうるのか、その保護されるべき利益の要保護性の程度はどのくらいかなどを、当該事件の具体的事情のもとで慎重に考慮すべきである。

  ここで、具体的にあてはめてみるに、被告人の行為は民主主義的制約が及ばない事項に対する市民的抵抗としての意義を有する行為であってきわめて大きな意義を有する一方、U証人らの案内誘導業務に対する侵害は全く認められないか、発生していたとしてもごくわずかであり、案内誘導業務そのものを保護すべき必要性はほとんど認められない。

  このような具体的な利益考量の結果から、被告人の本件行為がたとえ威力業務妨害罪の構成要件に該当すると認められた場合であっても、保護の客体である本件業務の要保護性の程度は相当に低いのに対して、被告人の本件行為の意義は相対的に極めて大きく、正当な目的のために行った行為として、法秩序全体の見地から社会的に許容されるものであり、刑法35条の正当行為に該当する。

イ 請願権の行使

  国民・住民の代表機関として議論し意思決定を行う議会が機能不全に陥っている場合、その機能不全を是正するように議会に対して請願を行う手続について、法律は特段の定めを設けてはいない。むしろ、そのような場合だからこそ、国民は直接に憲法16条に依拠して積極的に請願をなすべきである。

  被告人による本件行為は「本件イベントの開催を妨害する」という目的で行われたものではなく、2020東京大会の開催の中止を求め抗議する意思を表明するために行われたものであり、その性質からすれば、本件イベントの場を通じて、オリンピック開催のための業務に従事する者や国や東京都の民主的政治過程を担う者に対して、抗議の意思を伝え民主的政治過程本来の討論・審議機能を回復することを求める一種の「請願」であると評価することができる。

  憲法16条によって請願について課される制限は唯一「平穏に」ということだけであり、「平穏」というのは気づいてもらう必要性との関係で相対的に決されるものである。

  本件のように、周囲が喧噪状態にある中で、請願の意思を伝えるために爆竹を用いて自分の意思を伝えることは、全体の事情を総合的にみたときには、平穏を害する行為とはいえない。爆竹を鳴らすこと自体はお祭りなどの場面で、日常的に行われている行為で危険性はきわめて低く、誰にも怪我をさせず、何も壊さずに単に爆竹を破裂させた行為は「平穏な請願」の範疇に属する。

  また、オリンピック組織委員会からオリンピック開催イベント関連業務を請け負っている業者は「公務」の遂行にあたるものとして、請願が行われた場合に、誠実にこれを処理するためにこの請願を受理すべき立場にある。

  そして、平穏な請願である以上、請願を行ったことを理由にして処罰されるべきではないことは当然であり、被告人の行為は「正当行為」とみなされる。

⑸ 小括

  これまで論じてきたとおり、本件行為は、表現の自由の行使あるいは請願権の行使として「正当行為」にあたり、違法性が阻却される。被告人の行為について業務妨害罪の成立を認めることはできない。

4 本件行為に可罰的違法性は認められない

⑴ 可罰的違法性論の必要性

 

ア 原審の判断

  原審は、「本件行為の手段や結果が、業務妨害罪の保護法益を侵害したと認められない程度に軽微であるとはおよそいえない」と判示して絶対的軽微性を否定し、これに続けて、「そのことは本件行為の目的や表現の自由として保護されるという性質を総合的に考慮しても変わらないから、本件行為には可罰的違法性がないという弁護人の主張にも理由がない」として、本来求められる相対的軽微性に関する判断も示しているように見える。

  しかし、このような論理構造をとれば、ほぼ常に相対的軽微性は否定されてしまう。原審の判断は、違法判断を事実認定に改称し、想定される他の要保護利益の侵害ないし危殆化の可能性を限界まで指摘している(構成要件該当性判断の部分ではあるが、原判決が「本件行為は、爆竹がUらの至近で爆発して火傷をしたり、柵を乗り越えようとする被告人とUらが接触して転倒したりする危険を内包する」(6頁)とか、「被告人が本件現場で取り押さえられなかった場合には、柵を乗り越えて体育館敷地内に侵入し、所持していた残りの爆竹をすべて爆発させるなどの行動に出た可能性が高いという事情」(7頁)とか、検察官すら主張していない裁判官の妄想を付け加えている点に、顕著である)。原審はそのような姿勢で当該行為の違法性を判断したため、違法阻却が認められる範囲はきわめて狭くなってしまった。だが、とくに基本権行使に対する刑罰法規適用の通例化ないし一般化が意味するのは、自由主義の後退ないし死滅に外ならない(宮本意見書12頁)。

  後述するように、罪刑法定主義の原則(憲法31条)から、本来、違法性を阻却ないし低減する方向の事実も取り上げた上で、厳密かつ詳細に違法性の検討を行うべきであるのに、原審はこれを怠り、「過度に広汎な処罰の禁止」に反する刑罰法規の適用という結論に至っている点で破棄を免れない。

イ 刑法上の違法性

  刑法は謙抑的でなければならず、可罰的違法性の概念は、「市民社会の安全弁」として機能する(宮本意見書6頁)。

  藤木英雄教授は、「可罰的違法性の理論とは、刑罰法規の構成要件に該当する形式外観をそなえているように見える行為であっても、その行為がその犯罪類型において処罰に値すると予想している程度の実質的違法性を備えていないときは、定型性を欠き、犯罪構成要件にはあたらないのだということを認めていこうとするものである。/換言すれば、構成要件該当性、定型性と言うときには、形式的・外形的判断に留まらず、その罪において予想される、あるいはその罪として処罰に値するだけの定型的な実質的違法性-違法の軽重という量的意味のみならず、法益保護の目的からみた質的面を含めて-をそなえていることが前提とされていると解すべきだ、という主張である。具体的には、刑法の解釈につき、杓子定規な形式的解釈によらず、実質的観点から、合理的・縮小的解釈を行うべきだという主張であって、刑法は法益保護のための最小限の害悪に止まるべきだという謙抑主義の立場と、実質的・合目的的解釈とをむすびつけたものである」と述べている(『可罰的違法性』(学陽書房・法学選書、1975年)9~10頁)。そして、「同じ犯罪構成要件にあたる行為であっても、違法性が非常に重いものもあれば、違法性が極端に軽いものもあることを認めることを前提とし、その上で、違法性の程度が軽いものについて、はたしてこれがその犯罪構成要件を定めたことによって法が処罰を予想するものだろうか、ということを問題にしようとするのが、可罰的違法性の理論の趣旨である」(同書12頁)。

  つまり、刑法上の違法性は、単に形式的に構成要件該当性が認められるばかりではなく、刑罰を科すに足るだけの質と量とを保持するものでなければならず、刑法における違法性の評価においてはその質と量の認定が行われなければならない。

  前述したとおり、これは構成要件該当性においても検討されなければならないが、可罰的違法性の判断においても、上述した機能からすれば、同様の考慮がなされなければならないことになる。すなわち、憲法31条にその基礎を見いだすことができる罪刑法定主義の原則は、法律による事前告知という形式原理にとどまらず、憲法的な要請による実質的な人権保障原理としての性質を有する。そして、同原則は、「刑法の謙抑性・断片性・補充性という自由主義国家の基本前提をなす公理の実践原理として、刑罰法規の創設・解釈・適用の全ての次元において、人間の尊厳を基調とする民主主義社会における自由・自律を保障するものでなければならない」(宮本意見書18頁)といえる。

  とすれば、「実体的デュー・プロセスの要請は立法権力による刑罰法規の創設に対するのみならず,司法権や行政権によるその解釈・適用にも及び,刑罰法規の創設段階における厳格な必要性と相当性のみならず,その適用段階における厳格な必要性と相当性も求められることになる。罪刑法定の原則による『刑罰法規適正の原則』は,刑罰法規の創設段階における必要性・相当性の要求を意味する『過度に広汎な刑事規制の禁止』のみならず,その適用段階における必要性・相当性の要求である過度に広汎な刑罰法規適用の禁止―つまりは『過度に広汎な処罰の禁止』―をも包含しているのである」(同19頁)。そこからは、構成要件該当性の判断においても可罰的違法性の存否の判断においても、「刑罰を科すに足るだけの違法性が存在するのか」について、違法性の質と量の両面から検討を行わなければならないという結論が導かれる。

ウ 可罰的違法性について考慮した裁判例の検討要素

  違法な行為であったとしても、その違法性が実質的に考察して処罰に値しない程度であることを理由に犯罪の成立を否定するという、可罰的違法性の犯罪論における機能は、実際の裁判例でどのように果たされているのか。

  前田雅英教授は、可罰的違法性を欠き無罪と結論づけた裁判例が、絶対的軽微性を理由とするものだけではなく、「法益侵害行為が存するものの、それが一定の正当な目的を有する事案を対象としている」場合、「労働争議行為や抗議活動に際して行われたものであること、つまり、行為が一定の価値を担っていることが暗黙の内に加味されて、『軽微概念』が弛緩してくると推測される」(『可罰的違法性論の研究』(東京大学出版会、1982年)436~7頁)として、具体的には、①結果・手段の軽微性、②目的の正当性、③手段の相当性・必要性という各要素が検討されているとする(同書531~556頁)。

⑵ 本件行為にかかる可罰的違法性判断

  上記要素を意識して、被告人の本件行為について分析すると、以下のとおりの事情が確認できる。

ア 結果の軽微性

  本件行為は本件イベントに何ら影響を及ぼしておらず、U証人の業務に限定しても妨害の結果は生じていない(影響があったとしても業務が一時中断されたというにとどまる)。U証人は検察官から「被告人に何か言いたいことがあれば言うように」と促されて、「正直、特にはないです。けが人とか、うちのスタッフがけがをしたとか、お客様がけがをしたとかっていうことはないので、その男性の方に、特にもありません」(U調書13頁)と述べているように、被害感情を有していない。また、被告人は、U証人及び周辺で警備にあたっていた警察官らにその場で身体を押さえられ、抗議活動を阻止されると同時に本件現場から排除されている。つまり、被告人が行ったことは、1本の爆竹に点火して鳴らしたという一事なのである。

  そもそも、威力によってイベント会社社員の業務遂行等を阻止・妨害したとして業務妨害罪の罪責を問うとすれば、当該イベントそれ自体の催行の―内容・日程等の大幅な変更を含む―放棄・断念という結果(の抽象的危険)が発生したか否かにかかわらず、その結果が生じるまでの因果のプロセスのいずれかの段階を切取って業務妨害罪を適用し得るのは、機会主義的・便宜主義的な刑罰法規適用であり、刑法の謙抑性・断片性・補充性という近代刑法の不可欠な前提をなす公理に背反する。とくに基本権行使の側面を有する行為について、機会主義的・便宜主義的に切り取って刑罰法規の適用を求めるような起訴は、市民的治安主義の実践であり、一般刑法の市民的治安法化を更に促進するものとなり、問題がある(宮本意見書26~27頁)。

  よって、本件所為には、明らかに、結果の軽微性が認められる。

イ 目的の正当性

  上述したとおり、被告人は、2020東京大会に抗議するために、政治的表現の自由の行使として本件所為に及んでおり、被告人の目的は正当である。

ウ 手段としての相当性・必要性

 

(ア)相当性

  「象徴的言論」については、そもそも単なる表現ではなく、一定の行為(それは必然的に第三者や周囲に対する一定の影響をもたらす)が前提となっていることから、手段として効果が生じえ、一定の範囲で用いられているということが認められれば、相当性を認めてよい。

  爆竹を鳴らすという行為で抗議や怒りの意思を表明すること、あるいは自分の意思表示に注目させることは、世界的にも広く行われているものであり(鵜飼調書19~20頁)、抗議の手段としても一般的である。そして、被告人は、U証人に対する、直接な有形力の行使は行っていない。

  この点について、宮本教授は、「爆竹の使用という事実―そしてその爆発によって意思を制圧され、業務妨害結果が発生した、あるいは発生する(抽象的)危険があったという認定―をもって、直ちに被告人の表現『手段』が『相当性』を欠くという帰結を導くことはできない。固より爆竹は種々のイベント等にも使用に供される日常品でそれ自体とくに危険物ではないこと、爆竹の使用が本件イベント終了予定時刻を10分以上経過した後であること、使用した爆竹の量も到底『大量』とは認められないこと、爆竹の使用(点火)は1回のみで複数回にわたって執拗に繰返されたものではないこと、被告人は爆竹を会場に隣接する―本件イベント参加者の出入口であり受付場所であった―『体育館敷地内』に投げ入れたのであって―沖縄返還協定に反対して議場内で爆竹を鳴らしたという東京地判1973年9月6日の事案とは異なり―会場である『競技場(トラック内)』で使用(点火)しあるいは投入れたものではないこと等々、第1審判決が―構成要件該当性をもって『相当性』を欠くとする罪刑法定の原則に反する安易な判断により―軽視あるいは黙殺する事実を併せ考慮しても、その表現『手段』は憲法21条1項による保障の範囲外に置かれねばならないほどに『相当性』を欠くのか、つまりは刑罰法規の適用を受けるに値するだけの違法性の質と量を具備していたのか否かを問題とせねばならないのである。更に第1審判決によれば、被告人の意図は『東京オリンピックパラリンピックやそれに関連する聖火イベントの開催に抗議の意思を示そうと』する点にあるとされるが、オリ・パラそれ自体や関連イベント催行の態様と被告人の―爆竹使用という―行為の態様の非対称性は、『・・実際被告人を罰したいのは、オリ・パラなんじゃないかというふうに私は感じていて、まあ国を挙げての、地方自治体やらNHKやら・・マスコミやら、あるいは大企業から・・小さな企業まで巻き込んでの、総力挙げての、そして全国から警察を集めて、また自衛隊の出てきての、そういう圧倒的な力でオリンピック・パラリンピックが強行されて、それに対して爆竹というのは、余りにも桁違いに小さい、破壊力が小さいと私は感じています』とする―オリ・パラ開催に反対の立場に立つ証人による―証言【弁護人注:T証人証言】のとおりである。これも被告人の行為について違法性低減のベクトルを有する要素となろう」と指摘するとおりである(宮本意見書24~25頁)。

(イ) 法益衡量

  「もはや許された範囲を著しく逸脱したもの」のように手段の不相当性を強調すればそれはあまりにも硬直した判断になってしまうため、「具体的目的のためにはどの程度までの侵害が許されるか」という観点から衡量を行うべきである。

   被告人の保護されるべき法益は、憲法上優越的地位が認められた政治的表現の自由である。これに対し、妨害されたという業務は、起訴状によれば非常に限定されたものに過ぎず、しかもその業務に従事していたU証人は業務を妨害されたという明確な意思をもっていない。

  このことからすれば、被告人が本件行為によって実現しようとした法益表現の自由の行使あるいは請願権の行使)を尊重すべきである。

(ウ)必要性

   手段が必要かつ相当なものであったかという点については、行為が目的達成のために必要なものか、あえてその場で行為を行わざるをえなかったのか判断すべきである。

  コロナ禍で2022東京大会に直接的に反対の意思表示を行う場面は非常に限定されたものになった。その中で、被告人は、「そのほうが人を傷つけず、目立った公道であると思ったからです」(被告人調書3頁)、「柵の中には結構大きなスペースというものがあって、そこで人を傷つけずに、自分のこのオリンピック・パラリンピック、そしていわゆる聖火リレーに対する抗議の意思表示をしようと思いました」(同15頁)として、象徴的言論としての効果と人に傷害を負わさないということを両立し、自分にも容易に実現可能な手段として爆竹を鳴らすという手段を選択したものであり、手段としての必要性も認められる。

⑶ 小括

  本件は、結果・手段の軽微性が優に認定できる事案であり、しかも前述のとおり、業務妨害罪が本来予定している法益侵害性が認められないから、絶対的軽微性類型に相当するといえる。したがって、本来、その余の要素を検討するまでもなく、可罰的違法性は否定される。

    仮に、法益侵害性が認められるとの立場に立っても、その程度はU証人の証言に現れたようにきわめて軽微であること、一方、被告人らの保護されるべき法益は、憲法上優越的地位が認められた表現の自由、とりわけ尊重されるべき政治的意味を有する表現の自由であること、手段の相当性が認められることなどを総合考慮すれば、可罰的違法性は認められない。

5 被告人の行為に違法性は認められない

  先に引用したユルゲン・ハーバマスは、「市民的抵抗は成熟した民主主義の重要な構成要素である」と市民的抵抗の価値を位置づけた後、「社会的な目的のために法律を破る市民を国家がどのように扱うかは、確かにその国の政治文化をよく表している」と述べた。被告人の本件行為に違法性が認められるかどうかの裁判所の判断は、被告人のような一種の抵抗行為を、日本社会がどのように扱うのかを示す指標となる。  

  被告人は、何も壊さず、何者も傷つけず、迷惑に配慮して、ささやかな抗議行動を行った。一方で、被告人の抗議の対象である2020東京大会は、不正によって巨大な利権を得る者たちによって、招致・開催された(と一般人にはみえている)。被告人の抗議行動だけが不寛容に取り上げられ、刑事事件とされ、断罪されるのに対して、多くの不正は今も明らかにされず、刑事事件として立件されているものも、大きな利権のごく一部にすぎない。

  市民の表現行為や抗議行動への不寛容は、社会の閉塞感を強化し、不正に対するあきらめを蔓延させることで、市民の倫理観を腐食させる。そのような結果を生じさせないために、表現行為や市民的抵抗の違法性については慎重に扱うという判断が積み重ねられているのである。

  被告人の本件行為に違法性は認められない。

 

第5 結語

  以上のとおり、被告人の行為は威力に該当するものではなく、また仮に威力に該当するものであったとしてもその違法性が阻却される。

  したがって原判決は事実誤認に基づくものであるとともに、法令の適用を誤ったものであり、これらはいずれも判決に影響を及ぼすことが明らかである。原判決は破棄を免れない。

  速やかに原判決を破棄して被告人に無罪判決を言渡すべきである。

 

以 上

一審判決に異議あり

 

弁護団・控訴趣意書(中) 政府に忖度して五輪のデタラメを書かなかった薄っぺら判決

被告人黒岩大助 威力業務妨害被告事件 

東京高等裁判所あて控訴趣意書(2023年2月28日)

弁護人栗山れい子、同・山本志都、同・石井光太、同・吉田哲也 続き

弁護団・控訴趣意書(上)は→ https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2023/04/07/221351

弁護団・控訴趣意書(下)は→ https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2023/04/16/030030

判決文は → https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2022/09/25/215456

第4 被告人の行為に違法性は認められない

1 原審の判断

  原判決は、弁護人が「本件行為の目的や内容、表現行為としての性質からすれば、仮に業務妨害罪の構成要件に該当するとしても、正当行為(あるいは適用上違憲)として法律上保護の対象とすべきであるから違法性が阻却されるし、その法益侵害の程度からすれば可罰的違法性もない」と主張しているとして、構成要件該当性に続く第2の争点として、「本件公訴事実が違法性を有するといえるのか」という点を摘示する。そして、違法性阻却や可罰的違法性がないという弁護人の主張を斥け、被告人の行為の違法性を肯定するという「法律上の判断の誤り」を犯している。

その具体的内容は以下のとおりである。

⑴ 違法性阻却に関する原審の判断

  原判決は、まず、本件行為が表現行為であることは認めた上で、「Uらは本件イベントの参加者等の案内や誘導等を内容とする業務に従事」していたことを出発点とし、「これ【弁護人注:Uが従事していた業務をさす】が円滑に進行されることによって得られる利益は、Uらのみならず本件イベントの参加者等の関係者にとっても重要なものであって、本件業務も又法律上保護されるべきもの」であるとして、被告人の行為と対置させる。

  そして、原判決は、「憲法21条1項は、表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく、公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであり、たとえ思想を外部に発表するための手段であるとしても、その手段が他人の権利を不当に害するようなものは許されない」という規範を定立した上で、被告人の行為は表現行為の相当性を欠き、一方でこれを制限したことによる制約の程度は大きくないとする。すなわち、①被告人の行為は、「Uらをして被告人が生ぜしめた事態への対応を余儀なくさせ、本来予定していた被害会社の業務を直接又は間接に中断ないし変更させるものであり、かつ、Uらに相応の怪我を負わせる危険性を包含するものであることからすれば、その手段や方法は、表現行為としての相当性を欠いている」とし、②「本件業務の遂行が侵害された程度は小さいとはいえない一方、被告人が、自己の意見や抗議を表現する手段は、他の方法によって行うことも十分に可能であり、現に他の抗議活動は適法に行われていることも併せると、本件行為を制限することによる表現の自由の制約の程度が大きいとはいえない」とした。

  そして、「本件行為の制限は、表現の自由に対する必要かつ合理的な制限として憲法上是認されるものであって、本件行為の違法性は阻却されない」とする。

しかし、原審の判断は、被告人の行為の性質・憲法的価値の評価を誤り(以下「2 被告人の行為の性質」で詳述する)、対立する法益の評価を誤り(以下「3(1)対比させるべき法益」で詳述する)、憲法上の権利行使が制約されることが許される場合の判断基準を誤り(以下「3(2)権利行使の制限が許される場合の判断基準」で詳述する)、本件行為への具体的あてはめについて誤ったものであり(以下「3(3)合憲的限定解釈の必要性」及び「3(4)本件行為の正当行為該当性」で詳述する)、本件行為の違法性は阻却される。

⑵ 可罰的違法性に関する原審の判断

  さらに、原判決は、上述した本件行為の「認定や評価」をふまえた上で、「本件行為の手段や結果が、業務妨害罪の保護法益を侵害したと認められない程度に軽微であるとはおよそいえない」として、「本件行為の目的や表現の自由として保護されるという性質を総合的に考慮したとしても変わらない」と簡単に言及をした上で、弁護人の可罰的違法性の主張も一蹴する。

  しかし、この判断は、被告人の行為の性質・憲法的価値の評価を誤り(以下「2 被告人の行為の性質」で詳述する)、処罰に相当する行為に可罰的違法性が必要とされる根拠及びそこから導かれる判断要素の定立を誤り(以下「4(1)可罰的違法性論の必要性」で詳述する)、本件行為への具体的あてはめについて誤ったものであり(以下「4(2)本件行為にかかる可罰的違法性判断」で詳述する)、本件行為には可罰的違法性が認められない。

2 被告人の行為の性質

⑴ 被告人の行為の性質

 

ア 本件イベントの性質

  本件イベントは、聖火リレーの代替イベントとして行われた。聖火リレーを行って、公道をランナーが走り聖火をリレーでつないでいく様子を大衆に広報することによって、開催に向けた雰囲気を醸成していくはずだったのに、コロナ禍で実施できなくなった。しかし、大衆の盛上げをあきらめきれない大会組織委員会が、「苦渋の選択」として行うことにしたのが、本件イベントを含む、日本中の多くの都市で行われた「トーチキス」関連イベントだった。

  本件イベントは、「東京2020オリンピック聖火リレー」の一部として、実行委員会形式で行われた。

  すなわち、東京都内で、2021年7月9日をDay1として始まり、同月16日のDay8は、御蔵島青ヶ島八丈島、小笠原父島・母島での公道での聖火リレーを経て、同日午後、武蔵野陸上競技場を会場として実施された。その具体的内容は、調布市三鷹市武蔵野市の順番で、競技場内に設置されたステージ上でのトーチキスを行い、聖火皿への点火及びフォトセッションを行うというものであり、本件公道を走る予定だったランナー以外にランナーの関係者、本件イベントの周辺自治体、すなわち、調布市三鷹市及び武蔵野市の行政関係者などが、参加した(弁3②)。被告人は三鷹市内に居住しており、武蔵野総合競技場は居住圏内にある施設であった。

  つまり、本件イベントは、2020東京大会を盛り上げて祝祭気分を醸成するという目的を有する2020東京大会の前触れイベントであると同時に、被告人にとっては、自らの生活エリア内で行われた、2020東京大会に対する自分の意思表明を行うのに非常に適した場所であった。

イ 本件大会・本件イベントへの抗議の意味

  2020東京大会については、オリンピック・パラリンピックに共通して指摘されてきた構造的問題点だけでなく、東京大会特有の事情があり、多くの市民がその事情を根拠として、同大会の開催に反対の意思表示を続けてきた。

具体的に掲げれば以下のような事情であり、鵜飼証人、T証人及び被告人が原審の尋問で、それぞれ明らかにした。原審は、被告人の行為が「表現の自由の行使」であることは認めたが、政治的表現の行使であることを正面から評価せず、また、当時、2020東京大会の開催をめぐって、国内世論では、中止や開催に消極的な意見がむしろ多薄であったことについても触れていない。裁判所が判断を回避したことは不当であり、判断の前提となる事項について、地裁に引き続き指摘する。

(ア)「復興五輪」招致の欺瞞

  2011年3月に、東北地方を中心に未曾有の被害を巻き起こした東日本大震災原子力発電所の爆発は、2020東京大会招致・開催の政治的意味合いを複雑なものとした。

  2012年12月に政権に復帰した自民党の第二次安倍内閣は、2020東京大会の招致計画に本格化に関与することになった。そして、政府は、震災と福島第1原発事故によって引き起こされた危機的な社会状況を突破する目的で、五輪開催に戦略的な位置づけを与えた(鵜飼調書9~10頁)。地震津波による甚大な人命の喪失、生活基盤の無残な破壊に見舞われた被災地の現実、再臨界の回避と廃炉作業だけで数10年を要する原発の廃墟を前にすれば、被災者が真に望むかたちの復興作業のために、可能なかぎり多くの社会的リソースを集中して対処すべきであることに議論の余地はなかった。

  しかし、実際にはこの当然の意見は無視された。東京都と政府は、被災地の現実に配慮することもなく、「復興五輪」を旗印に掲げて招致運動を展開し、なりふりかまわぬ招へいに邁進した。特に安倍首相(当時)は東京招致が決定された2013年9月のブエノスアイレスにおける国際オリンピック委員会(IOC)総会で、「原発事故は完全に制御されている」という、当時の東京電力の幹部でさえ耳を疑ったという明らかな虚偽を公言した。この嘘は、後に露見する賄賂工作とともに、招致委員会が、五輪の開催権を手に入れるために、手段を選ばない活動を展開したことを如実に示すものであった(鵜飼調書10頁)。

(イ)予定されていた廃園と住民らの排除

  2006年、東京都(当時石原慎太郎知事)は2016年大会の開催都市に立候補していた。この時点の招致案では、国立競技場の存在する「神宮外苑地区」は、歴史的風致地区に指定され、厳しい建築制限があり、国有地、都有地、民有地が複雑に入り組んでいるので再開発が難しいとされ、メインスタジアムは晴海に建設することが想定されていた。  しかし、この招致活動は失敗に終わった。

  2005年に日本体育協会会長に就任し、2015年まで日本ラグビー協会会長でもあった森喜朗元首相は、「ワールドカップ開催の条件とされていた観客8万人収容可能なスタジアムの建設を、霞ヶ丘地区の国立競技場の建替えによって実現する」という提案を行うことで、東京都にオリンピック・パラリンピック開催への再立候補を働きかけた(なお、現在、この計画は神宮外苑地区全体の再開発をめぐる大規模な利権の発生と結びついていたことが判明している。長年にわたってさまざまな制限によって守られてきた神宮外苑地域の歴史的景観を作ってきた樹木1000本を切り倒すという、同地域の再開発が、2020東京大会閉会後、大きな問題となっている(以上鵜飼調書8~9頁))。

  つまり、2020東京大会は、立候補当初から霞ヶ丘地区の国立競技場の建替えとより大規模なスタジアムの建設が前提となっており(メガイベントを大義名分として、これまで実施困難だった大規模な再開発を行うことを最終的な目標として)、大規模集会やイベントを行える場所として市民に親しまれてきた都立明治公園(霞岳広場)の廃園、公園を生活の拠点としていた野宿生活者の排除、隣接する都営霞ヶ丘アパートの解体や住民に対する移住の強制は、東京都が2020東京大会開催に立候補した時点で織込み済みだったといえる。そして、これらの事情は、2020東京大会開催に反対する市民の中で、相当に広く共有されていた認識だった。

(ウ)コロナ蔓延による忌避

  2020年初頭から、新型コロナウイルスは、その正体が十分明らかにならないままに、多くの人々の生命と健康を犠牲にし、医療をはじめとする社会的な活動を破壊しながら、世界中に蔓延していった。

  全世界において人びとの活動が未知のウイルスに翻弄され抑制されている渦中の2020年3月16日、安倍首相は、出席したG7会議において、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として、完全な形でオリンピック・パラリンピックを開催する」と宣言し、あくまでも予定どおり開催すると国際的に公約した。この時期、安倍首相は、公明党代表に対して「とにかく聖火が日本に来ることが大事なので、それまでは、このスローガンを世界に発信して中止論を押さえ込む」と発言していた(鵜飼調書13~14頁)。まだウイルスの性質について解明が進んでおらず、もちろんワクチンも開発されていない、この時点で首相がこのように宣言したことは、東京を始めとする日本国内に住む市民や海外から東京に来訪する市民やアスリートの健康や生命よりも、メガイベントとしての2020東京大会の開催をあくまでも優先するとの政府の姿勢を示すもので、オリンピック・パラリンピックの意義については認めている人たちにも衝撃を与えた。

  その後、同月24日には、トーマス・バッハ国際オリンピック委員会会長と安倍首相との間で、2020東京大会の1年延期=2021実施が合意された(鵜飼調書13頁)。

  一方、日本国内での新型コロナウイルス感染拡大に伴い、2020年中には、2021年の東京大会開催を危惧する市民は、増加していった。「命や健康が重視されるべき」「世界から多数の人が集まることは危険ではないか」「コロナ禍で市民生活に深刻かつ回復困難な影響が生じている時に五輪どころではない」などといった意見などが、ネット上はもちろんのことメディアを通じても広がった(弁4)。

  そして、2021年4月25日、コロナ感染拡大にともない、東京都など10都道府県について第3回目の「緊急事態宣言」が発令された。この宣言以降は「緊急事態宣言で自粛せよと言われているんだから、よもやオリンピックは強行できないだろう」という声が、市民社会にも広がっていた(弁4)。

(エ)経済的な負の遺産

  当初、2020東京大会は「世界一スリムで低予算」と喧伝されたが、その約束はすぐに反故にされ、大会経費は当初予算の倍以上と言われている。また、今後の維持管理費も、新国立競技場は年間24億円、それ以外の東京アクアティックスセンター、カヌー・セラロームセンター、海の森水上競技場なども、それぞれ毎年億単位の費用がかかり続け、それらはすべて税金によって負担される。

  そして、そのことは現時点で明らかになったことではなく、2020東京大会が甚大な負の遺産を残すことは、開催前からさまざまな形で指摘されてきた。

(オ)スキャンダルにまみれた開催までの経緯

  2020東京大会は、大手メディアがすべてスポンサー企業に名を連ね、テレビでは国威発揚のための五輪宣伝が繰り返し行われた。それにもかかわらず、運営の混乱や隠蔽された違法行為の存在を窺わせるような事象についても、以下のとおり、多数報道されることとなった(弁4)。 

  最初の大会エンブレムは盗作であることが判明し廃案となった。新国立競技場建設に従事していた23歳の下請会社の現場監督がパワハラを告発する遺書を残して過労自殺した。そして招致活動において国際オリンピック委員会内で票を買ったという賄賂疑惑のため、2016年からフランスの司法当局の捜査対象となっていた竹田恆和日本オリンピック委員会会長は、五輪開催予定の前年に退任を余儀なくされた(鵜飼調書10頁)。そして、大会開催前の2021年6月7日には日本オリンピック委員会の会計担当の幹部が自死し、憶測をよぶことにもなった。

  2021年2月2日、森喜朗オリンピック・パラリンピック組織委員会会長は、「新型コロナがどんな形でも五輪は開催する」と発言したが、その翌日、「女性は競争意識が強い」「会議に時間がかかる」といった理由を挙げて、女性理事の増員に否定的な姿勢を示すなど、ジェンダー平等の規範を真っ向から否定するような発言を行った。この女性蔑視発言に対して国内外から強い批判が起こり、同月11日、森氏は辞任に追い込まれた(鵜飼調書14頁)。

  また、聖火リレー開始の1週間前には、オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出面の統括責任者である佐々木宏氏が、女性タレントの容姿を侮辱するような演出案を提案していたことが明らかになり、翌日辞任した。

  なお、東京大会終了後、贈収賄及び談合などで多数の逮捕者が出、ついには、招致・開催の実務を実質的に担ってきた電通博報堂東急エージェンシーを含む大手広告代理店も被告人として、独占禁止法違反で起訴される見通しと報じられており、2020東京大会は、まさに根幹から利権にまみれ、腐りきっていたことが明らかになりつつある。

(カ) 開催反対の声の全国的広がり

  2021年初頭には、オリンピック開催を中止ないし延期すべきであると考える人の割合はおよそ8割に達していたが、五輪開催に反対する世論は、上述した同年2月の森会長辞任の時期ころから大きく広がっていった。聖火リレーのランナーに予定されていた著名人の辞退が相次ぎ、同月17日には島根県知事が県内の聖火リレーの中止検討を発表、オリンピック自体も中止すべきであると発言した。

  同年4月25日の緊急事態宣言発令後は、医療従事者によるオリンピック中止要請がさまざまなかたちで発信されるようになったが、同年5月には来日したバッハ会長が「五輪開催のために誰もが犠牲を払うべき」と発言し、市民の大きな反発を招いた。さらに、同年6月2日、政府の感染症対策分科会の尾身茂会長は、衆議院厚労省委員会で東京2020大会について、「今のパンデミック状況でやるのは、普通はない」と述べたが、丸川珠代五輪担当大臣は、「大会中止を検討する意思はない」と言明した。

  一方、日本オリンピック委員会理事の山口香氏は、「国民の多くが疑義を感じているのに、国際オリンピック委員会も日本政府も大会組織委も声を聞く気がない。平和構築の基本は対話であり、それを拒否する五輪に意義はない」と述べ、東京2020はもはや「平和の祭典」とは言えないという認識を示した(5月19日)。同月下旬、信濃毎日新聞西日本新聞沖縄タイムス琉球新報などの地方紙が、また東京五輪のオフィシャルパートナーである朝日新聞も、「社説」で相次いでオリンピック・パラリンピックの中止を要請するに至った。また、元日弁連会長の宇都宮健児弁護士が呼びかけた中止を求めるオンライン署名には、5月14日に提出した第1次で35万筆、7月15日に提出した第2次で45万筆を超える署名が集まったと報じられており、きわめて広範な人たちが積極的に反対の意思表示を行った。世論調査によっても、2020年初頭から本件行為の当時まで、むしろ過半の人が開催に反対・慎重な意見を有していたことがみてとれる。(本項全体、弁4)。

  以上のような状況からは、2020東京大会開催に反対ないし消極的な市民の声(当時はむしろ多数をしめていた)は、政府や東京都に全く顧みられることがなかったことが明らかになる。当時、2020東京大会に抗議する意思表示を行うことは、「むしろ、巨大な資力と政治力をふりかざしながら、さまざまな不正あるいは非合法な手段をもって暴走する列車を懸命に停めようとする、多数の人々を代表しておこなわれた勇気ある行動」と評価されうる(酒井意見書10頁)。

  被告人が本件行為にふみきった時点で、指摘したような状況があったことは、違法性判断の前提として考慮されなければならないが、原判決は全くそのような事情について触れていない。

ウ 意思表明の場の不存在

 

(ア) メガイベントへの反対の意思表示

  オリンピックなどのスポーツの国際的メガイベントが、貧富の格差を広げていく世界において、現地の住民に何の利益ももたらさないばかりか、それによる開発や財政負担、腐敗によって、人びとに不利益を与えることが自覚されるようになると、メガイベントの開催は現地住民の強い反対に遭遇することが増えてきた。2010ヴァンクーバー冬期五輪は、開催期間中、スポンサー企業の支店の破壊など市内で多様な抗議活動が行われた。

  日本においても、海外での抗議行動ほど目立つものでないにせよ、中止すべきという意見は市民の過半に広がるまでになり、忌避の意思や感覚は共有されていた。

  被告人をはじめとして、2020東京大会反対のために立ち上がった国内の市民は、世界の民衆との感覚と乖離し、不正にまみれたイベントに唯々諾々と従うばかりでない人が日本社会にも存在することを示したといえる(酒井意見書7~9頁)。

(イ)   きわめて限定された反対意見を表明する場

  オリンピック招致については、住民投票が必須とされておらず(もちろん住民投票が行えないわけではなく、そのような機会が保障されることがめざされるべきではある)、一般に市民は、議員や首長の選挙を通じて間接的に意思表示をするしかない。また、いったん招致が決定されてしまうと、開催までの間にどのような事態が発生したとしても、IOCと開催都市との「契約」が優先され、開催を止める方法が予定されていない(2020東京大会においてもそのような説明がされ、「莫大な違約金を負担しなければならなくなる」などとの言説が広がっていた)。

  実際に、2020東京大会では、東京都民や新国立競技場周辺や各地のスタジアム周辺の地域住民は1回も直接的な意思表示を行っておらず、招致がもくろまれた後に、震災(2011年3月)、コロナウイルス感染拡大(2020年初頭から)というような、社会全体を震撼させるような事態が発生しているにもかかわらず、開催を見直す機会は与えられなかった。

  さまざまな反対意見が表明される中、それを無視して、真摯な見直しもないまま2020東京大会の実施に向けて舵が切られ、本件イベントが開催されるに至ったのであり、この時点で、市民が、大会開催に反対の意思を表明するためには、公開された場所でのイベントなどに向けて直接的に抗議行動や働きかけの行動を行うしか、方法は残されていなかった。

  そして、本件現場は、武蔵野陸上競技場に隣接する武蔵野総合体育館の敷地に接する西側の歩道上であり、開放された空間である。同所は、市役所を始め公共施設複数が近接して所在している地域にあるため、歩道に接する車道はかなり交通量が多いが、歩道と車道とは区分され、広い歩道スペースが確保されており、エリア一帯が公共的空間として機能しており、人が滞留しても全く危険性がないような場所である(武蔵野陸上競技場や武蔵野総合体育館で多数人を集めたイベントが行われることが想定されているためか、体育館前は、ある程度人が密集したり、滞留したりしても危険ではないように道路や施設が設計されている)。

  実際に被告人が本件所為を行った時点では、本件イベントに反対する市民らが、プラカードやバーナーを所持して通行人やイベント参加者に示したり、拡声器を用いて話をしたりする態様で、抗議行動がまさに行われていた。

  このような場所は、さまざまな意見が披露され交換される可能性のある公共的空間としての性質を有する。そして、被告人にとっては、前述したようにいわば「地元」であり、地域で2020東京大会に対する抗議の意思表示を行うには絶好の場所だった。

⑵ 被告人の尊厳と密接な関連を有する本件行為

 

ア 被告人のこれまでの活動

  被告人は、人生を通じて、「野宿者と共に生きる」活動に精力を傾けてきた。

  特に、1998年からは、「渋谷・野宿者の生活と生存を勝ち取る自由連合」(のじれん)という団体を立ち上げ、渋谷地域で、共同炊事、夜回りによる生活状況の確認や応相談、生活保護申請同行などの活動に従事してきた(被告人調書5~6頁)。その活動の根幹には、支援者・野宿者という区分ではなく、共同で支え合うと言う理念があり、「命と健康を守る安否確認と共に、やはりいろいろなところで追い出しの動きや排除の動きが強まると共に、私たちが支援としてそのまま行動に移すというふうなところではなく、その野宿者と共に、この追い出しや排除に抵抗すると、それを止めていくというふうな運動を、運動というか活動をしていました」(被告人調書7頁)。

  そして、「2020東京大会開催のため」と標榜して行われた新国立競技場の建設では、都立明治公園内「四季の庭」で長年にわたって起居してきた野宿生活者が、問答無用の断行の仮処分の手続を利用して追出しが強行された(同所は、水場があり、緑があって人目につきにくく、定住的に居住する野宿者が、最大で40名ほど起居している場所だった)。都営霞ヶ丘アパートも取り壊され、暮らしてきた高齢の住民のコミュニティが破壊された。

  被告人は、「そこに居住している、あるいはその施設の建設に、立地に住む野宿者が排除されることが、その【弁護人注:2020東京大会反対運動を行うようになった】主な理由です」(被告人調書5頁)と述べ、緑があってテントを張りやすく定住する者も多かった、野宿生活者が、新国立競技場の新設工事により追い出されることをどうにかしたい、という気持ちから反対運動に参加したことを明らかにしている(被告人調書7~8頁)。

  メガイベントにおける都市の「浄化」や困窮者の追い出しは、世界各国で行われている。2020東京大会でも、野宿生活者たちが、「断行の仮処分」という手法によって、1回の審尋期日を経ただけで理由も示さないままの仮処分決定が発出され(野宿生活者に対して仮処分命令によって排除が行われたのは全国で初めてのことであった)、「大量の警備員や警察官が動員されて、中にいる人たちを、その持ち上げたりしまして、あるいは、こう、荷物を外に持ち出して、強引に持ち出したりするようなこと」をするというような手法で追い出されたが、被告人はこのような排除を実際に経験し、野宿生活者のコミュティが破壊されるのを目の当たりにしていた(被告人調書7~8頁)。

  つまり、被告人にとって、2020東京大会に反対の意思表示をすることは、自分自身がずっと行ってきた活動からそのまま派生する、いわばアイデンティティから切り離すことのできないような自己の尊厳に関わるような思想の表出でもあった。

イ 現実に被告人が参加した活動

  被告人は、2021年6月6日に行われた、2020東京大会に反対する意思表示をするために、吉祥寺で行われたデモのための公道利用を申請し、自身もこのデモ行進に参加している(被告人調書1頁、11頁、15頁)が、被告人が反対運動に参加するようになったのは、招致決定前からである。特に、2013年、東京での開催が決定された後に行われた調査団の調査に際して、代々木公園に近接する道路の歩道にある野宿者のテントや荷物が排除され、一時的に移動されて、何もなかったかのようにされたことについて、調査団に対する抗議行動を行った(被告人調書1、10頁)。

  被告人の本件行為は、そのような反五輪の活動の一環として行われたものである。

⑶ 表現の自由の行使としての側面

 

ア 「象徴的言論」とは

  象徴的言論(シンボリック・スピーチ)とは、特定の信念を伝えるための行動の形をとる非言語的コミュニケーションの一種とされ、あるメッセージを、見る人に、それと分かる形で伝える行動をさす。具体的には、バリケードを設置する、旗やバーナーをふる、旗や絵や物(たとえば徴兵カードや政府の指導者を模した人形)を焼く、裸になるなどが典型的なものとされる。

  最高裁は、猿払事件で、意見表明そのものの制約と、その行動のもたらす弊害の防止を狙いとする制約を区別して論じ、言論と行動を二分して規制を区別する考え方を前提としているようにもみえる。

  しかし、言葉や文字といった純粋な言論に基づく伝達手段のみならず、外形的な行動を伴うことによって、より端的に効果的に第三者にアピールできるということがあり(そのこと自体は誰も否定できまい)、表現行為も第三者に伝えることが目的である以上、何らかの行動が伴うことはむしろ当然のことであり、「行動を処罰しても意見表明そのものは傷つけられない」という言い方は、単純な二元論から導かれた表現内容中立規制があり得ることを前提として、多様化し続ける表現手段を単純に分類し処罰の対象とすることになり、結局表現の抑圧につながることが強く危惧される。

  象徴的言論が、上述したとおり、思想の伝達を目的とした言論によらない態度によって、何らかの思想や見解を表明するものであるとすれば、そこで用いられる象徴とその象徴が用いられた文脈(コンテクスト)から、表現者が表明しようとした主張や見解の内容が明らかになれば、思想を伝達しコミュニケーションする効果を生じるものであって、言語記号と同列に位置付けることのできる言論機能を有する象徴といってよい。

  裁判所が、言葉以外の態度に思想伝達機能が備わっていると認めるかどうかについては、その表現者の態度に何らかのメッセージを伝えようとする意図が存在し、周囲の状況においても、それを受け取った者たちによって、そのように理解される蓋然性が高ければ、言語の使用がなかったとしてもそれは「表現」として保護されるべきである。

イ 爆竹を利用した「表現」

  本件行為は、上述したような位置付けがなされている本件イベントの開催にあわせて、被告人自身が同イベントに抗議する意思を有し、そのことを周囲にアピールする目的をもって、開催場所に近接する出入り口付近で、爆竹を鳴らすなどしたものであるから、一般人がみれば、これが2020東京大会に反対するというメッセージを現場で表現したものであることは、一見して明白であり、当然に「象徴的言論」にあたるといえる。

  鵜飼証人は、「私は、今回のオリンピックは、先ほども述べましたように、社会的な弱者、それから災害の被害者を棄民化する、非常に暴力的な性格を持っていたと思います。黒岩さんは、まず、長年、東京の野宿者の支援に関わってこられて、その視点から、今回のオリンピックがどのように招致が決定され、どのように開会準備がされてきたのか、つぶさに御覧になってこられたと思います。しかも、それは、8年間と、非常に長い時間なわけですね。そして更に、そこにコロナという事態になり、これでもオリンピックは中止にならないと。そして、多くの人が自宅で亡くなっていくような惨禍が起きている中で、どうしてオリンピックを祝うことができるのかという、非常に深い憤りをもたれていたのではないかと思います」と、本件所為の「象徴的言論」としての性質をとらえている(鵜飼調書18頁)。

  また、門前に立って、被告人とは別途に抗議行動を行っていたT証人も、「東京オリパラを強行をしなければ失われなかった命というのがあると思っていて、コロナ感染患者に対しての医療がもうちょっと、東京オリパラをやらずにそちらのほうに注力できれば、死ななかった人がいると私は思っていて、それに比べて、黒岩さんは人を傷つけていないし、というふうに思います。当時、あの当時はほんとに8割の人が東京オリパラに反対しているとも言われていて、言われていても、やっぱり声を上げると言うことは難しかったし、声を上げても聞こえないふりをされていたということがあって、そういうときに爆竹の音というのは、私にとっては、そういう閉じ込められた声を解放する感じの音でもあった、そういう表現だと私は受け止めています」と述べており、閉塞状況のもと、被告人の届けようとしたメッセージは、被告人の意図したとおり、周囲に広がり、きっちりと受け取られたといってよい。

ウ 表現手段の多様性と選択の自由

  大衆が利用できる表現の方法(手段)としては、ネットへの投稿、集会や公道での発言や演説、ビラ配布・投函などがありうるが、それぞれにその伝播の範囲などに特徴がある。

  本件所為のようないわば大衆的示威行為ともいうべき「象徴的言論」には独自の意義があり、一方で、一定の場所の占有や第三者との接触を伴うことから、恣意的な公権力の規制を受けやすいという性格を有する。

  しかし、公権力が、「別な方法もある」ことを理由にして、表現方法を制約することは許されない。たとえば、「ビラまきが認められているのだからデモ行進を禁止してもいい」とか「街頭演説が認められているのだからビラまきを禁止してもいい」ということが不当であることは明らかだ。ある表現者にとって、その手段が特別な意味を有するものであるとすれば、その表現者にとってその表現方法をとること自体が表現の自由の内容である。表現内容は、その性質上、表現方法(表現の手段やそれを行う場所)や受け手によって規定されるものだからである。

  そして、表現者は自分の伝えたいメッセージの宛先・内容にとって、もっともふさわしく表現しやすいと判断する表現方法を選択することができる。

また、表現の自由の保障の機能として自己実現の契機を重視する立場にたてば、自己が伝えたいと望む情報を自己が望むような形で相手にメッセージとして手渡すこと自体が保護されるべきである。

  2020東京大会に対する抗議活動においては、警察官らによる厳重な警備が行われることで、イベントに対する抗議行動や街頭宣伝が制約され、警察官らが抗議行動参加者に対して手を出して傷害を負わせるという事態まで生じていた(T調書4~5頁)。言論に基づいた行動が自由に行われるような状況にはなかったのが現実である。

そうであるから、手段の選択の幅は広く認められなければ、表現の自由が実質的に保障された状態にあるとはいえない。

エ 「市民的抵抗」としての性質

  市民的抵抗とは、「動的な紛争の方法であり、非武装の人々が、調整されたさまざまな方法(ストライキ、抗議行動、デモ、ボイコット、その他多くの戦術)を用いて、相手に直接に危害をくわえたり脅迫したりすることなく、変化を促すことを目的とするもの」であるという(酒井意見書2頁)。そして、マハトマ・ガンディーの塩の行進、イギリスの女性参政権運動における投石、ハンガーストライキ、爆弾、放火、自殺、絵画の破損などの行為、川崎造船所サボタージュアメリカの公民権運動におけるモンゴメリーのバス・ボイコット、気候正義運動における絵画へのアピールなどがあげられる(同4~7頁)。

  被告人の行為も、象徴的言論であると同時に、上述したような前提的な事実関係が存在する中で、2020東京大会の開催に抵抗する意思を表明するものとして、「市民的抵抗」の一つであるといえる(ただし、本件行為は、前記典型例と異なり、器物にすら何らダメージを与えていないことは注目されるべきである)。

  原判決は、「自己の意見や抗議を表現する手段は、他の方法によっても行うことも十分に可能」と言い、要するに、被告人の行為について「爆竹を投げなくても抗議することはできたんだから、爆竹を投げるのはあきらめて。投げたら有罪」と安易に断罪しているようにみえる。

  しかし、「政府がデモ参加者に対して、受動的で破壊的でない許容可能な方法を指示することには、まさにそのようなやりかたには効果がないことが実証されているだけに、本質的な矛盾がある・・・わたしたちは、具体的な変化をもたらすためには、秩序攪乱と抗議とは手を取り合っておこなわれると認める必要がある。『抗議する権利』は認めながら、抗議が波風を立てることがないよう指示するといった態度は現実的ではない」(ルーク・マクマナラ 酒井意見書11頁)ということが、その本質であり、上述した指摘はまさに被告人の認識とも一致する。

  公民権運動を担ったマーティン・ルーサー・キングは、「バーミングハム刑務所からの手紙」という市民的抵抗の基礎文献ともなっている公開書簡(1963年)において、「制度という経路を通してなぜ要求しないのか」という批判に対して、「なぜ、直接行動なのか?なぜ、座り込みやデモ行進などなのか? 交渉の方がいいのではと、あなた方が問われるのはもっともです。実に、これこそが直接行動の目的なのです。非暴力直接行動は、つねに交渉を拒否してきたコミュニティがその問題に直面せざるをえないような危機をつくりだし、その緊張感を創出することをめざしているのです。問題を劇的に変化させ、無視できなくさせるのです。非暴力抵抗者としてのわたしが緊張の創出をあげたことは、かなりショッキングに聞こえるかもしれません。しかし、わたしは『緊張』という言葉を恐れているわけではないことを告白しておかねばなりません。わたしは暴力的な緊張に真剣に反対してきましたが、建設的で非暴力的な緊張というものがあると考えています。それは成長のために必要なものなのです」と応じた(酒井意見書12頁)。

  我々がいま享受している権利や自由のほとんどは、政治的・経済的に力をもった人びとから、そしてそこで設定されたルールからはみだすことをおそれず、『秩序攪乱』とみられるような行動によって主張し行動してきた人たちによって獲得されてきたものであることは間違いない。

  被告人が抗議をした2020東京大会についてみれば、開催を強行する側に、大きな不正や混乱があり、虚偽の言説の流布と欺罔があり、他方、それに対して多数の人びとが反対の意思を有していても、制度上の規則を遵守するだけでは、なにも動かず、事態をなにも変容させることができなかった。ここに、民主主義に反する事態が生起していたことは間違いない。

  だからこそ民主主義は「制度的回路をそもそもつくりだす、こうした市民的抵抗が核心をなしている」といえ(酒井意見書12頁)、そこからは「市民的抵抗は成熟した民主主義の重要な構成要素である」(ユルゲン・ハーバマス 2022年)という命題が導かれる(酒井意見書13頁)。

  とすれば、被告人の行った市民的抵抗は、市民が自らの権利や意思を表明し、民主主義過程の中でも重要な「権利のための闘争」であるといえる。憲法第12条が「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と述べていることに示されているように、権利及び自由は、憲法典に書き込まれることによって自動的に獲得できるものではない。憲法自らが「権利のための闘争の義務」を市民に課しており、被告人はその義務を履行したと評価できるのである。

⑷ 請願権の行使としての側面

 

ア 「請願」としての意思表明

  上述したとおり、オリンピックの招致・開催の決定においては、そもそも、住民が直接意思表示を行う民主主義的過程が予定されていない。そして、実際の招致・開催の過程では、実務を担う者が虚偽の言説を行ったり、贈収賄や談合などの違法行為を繰り返したりすることで、事実や合理的な根拠に基づく議論が妨げられてきたことが、現に明らかになっている。さらに、被告人が支援活動に従事してきた野宿者については選挙権の行使の機会すら奪われてきた。

  議会における代表を選出する選挙は民主主義の根幹であるが、選挙権を有しない者や選挙権を行使しえない者であっても、日本国の統治下にある限り請願権を有する。つまり、請願権は、主権者国民が全土にわたってすべての人の自由・人権を保障するために行動する手段として、国会の機能を支える役割を有している。

  被告人の行為は、前述したとおり、政治的表現であると同時に、2020東京大会の開催を中止すべきであるという抗議の意思を、開催のための準備行為をになっている者たちに伝え、議論することを求める「請願」としての性質を有し、憲法16条で保障されている請願権の行使とみることができる。

イ 許容される請願の方法

  請願は「平穏」に行われるべきとされている。

  しかし、たとえば、「大衆的なデモ行進を背景とする請願」も平穏なものとされているように、この判断には一定の幅があり、相対的な判断が許容されている。これは、請願が一種のコミュニケーションであるところから当然に認められる性質といえる。

  憲法16条は「何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」と定め、請願権を手厚く保護する。この趣旨は、請願権が参政権的意義を有しているだけではなく、外国人も含め、日本国の統治下にあるすべての人びとの自由に関わるからである。統治に一方的に服従し、統治者に対して一切意見を述べることも聞いてもらうこともできないというのは、統治者に隷属した奴隷的状態といえ、そのような立場に何人もおかないという必要があることからすれば、許容される「平穏」は相当に広汎なものになるべきである。

  さらに、主観的には必要やむをえない手段であると思っていた場合であっても、客観的には「平穏」と評価できないような場合であっても、「いかなる差別待遇も受けない」と強く請願権を保護している趣旨からすれば、その程度に応じて違法性判断に影響があるとみるべきである(笹沼意見書8~9頁)。

竹下雄裁判長、これが現実だ