武蔵野五輪弾圧救援会

2021年7月16日に東京都武蔵野市で行なわれた五輪組織委員会主催の「聖火」セレモニーに抗議した黒岩さんが、『威力業務妨害』で不当逮捕・起訴され、139日も勾留された。2022年9月5日の東京地裁立川支部(裁判長・竹下雄)判決は、懲役1年、執行猶予3年、未決算入50日の重い判決を出した。即日控訴、私たちは無罪判決をめざして活動している。カンパ送先⇒郵便振替00150-8-66752(口座名:三多摩労働者法律センター)、 通信欄に「7・16救援カンパ」と明記

弁護団・控訴趣意書(下) 何も壊さず誰も傷つけずに抗議した黒岩さんは一審で有罪。なのに、五輪関係者たちは不正をしてもばれずに罪を逃れている!

被告人黒岩大助 威力業務妨害被告事件 

東京高等裁判所あて控訴趣意書(2023年2月28日)

弁護人栗山れい子、同・山本志都、同・石井光太、同・吉田哲也 続き

弁護団・控訴趣意書(上)は→ https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2023/04/07/221351

弁護団・控訴趣意書(中)は→ https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2023/04/12/025316

判決文は → https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2022/09/25/215456

第4 被告人の行為に違法性は認められない(続き)

3 本件行為の違法性は阻却される

⑴ 被告人の行為と対比させるべき法益について

 

ア 保護法益 

  原判決は、「Uらが従事していた業務が円滑に進行されることによって得られる利益」を、被告人の行為と対比すべき法益として定立し、本件業務について法律上保護されるべき性質を有するものととらえる。

  業務妨害罪が、旧刑法第2編第8章の「商業及び農工の業を妨害する罪」を前身とし、経済的基盤としての信用を保護する信用毀損罪と同じ章に規定されていることからすれば、本来、人の経済活動を保護法益とするものである。その保護範囲は、経済的範囲に限定されるものではないとしても、一定の社会活動を保護するものと評価すべきである。

  被告人の勾留状における「被疑事実」においては、「第32回オリンピック競技大会開催に伴い、公営財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長武藤敏郎が主催し、・・武蔵野陸上競技場において開催中の・・イベント」と本件イベントの内容が簡略に示されていたが、起訴状においては、その説明すら省略されている。また、被告人が妨害しようとした業務については、「同社員らの整理誘導業務」(勾留状)、「同イベント参加者等の誘導、案内等の業務」(起訴状)、「本件イベントの参加者等の受付、誘導及び案内等の業務」(地裁判決・3頁)のように、イベント自体ではなく、イベントの主催者から委託を受けた業者の業務(実際に行うのは業者の従業員)とされている。

  しかし、被告人の主観的意図、本件行為を目撃した通常人が受領するメッセージからすれば、被告人が意見表明しようとした対象は「本件イベント」ないし本件イベントが付随するものとしてある「2020東京大会」なのであって、業者がイベント主催者から委託を受けていた、狭い「業務」に対するものではない。

  近時、労働争議に関連して、労働組合やその支援者らが行う抗議行動について、抗議活動の制圧のために委託された警備員らの業務を妨害するものとして、「業務妨害罪」として立件する事案が相当数みられる。本件にも共通するが、このように、本来、表現者の抗議の対象とは異なる、表現者により身近に接触する立場にある警備員や整理誘導員が行う「業務」が妨害されたと措定すれば、何らかの混乱が予想されるような事象について警備や誘導などの業務を委託された場合には、その事象そのものについてではなく全て警備誘導業務に対する妨害が成立する、すなわち、実質的には「業務が混乱なく何の問題もなく円滑に終了すること」が保護されるべき利益とされることになり、整理誘導業務従事者との間でなにかしらのトラブルが生じれば、それは、表現者が抗議の対象としていた事象(活動)に何の支障が発生しなくても、業務妨害罪が成立するということになる。

  このような事態は、本来の業務妨害罪が予定していたものではない。業務妨害罪の保護法益である「経済活動を中心とする一定の社会活動」を広く超えた「社会活動の平穏」を保護する結論になり、本件所為が有する社会的な意味、要保護性の本質を隠蔽するものとなってしまう。このことは、労働争議に伴う労働組合などの抗議行動やストライキに伴うピケットに業務妨害罪が問擬された例を想定すれば容易に理解できる。

  前述したとおり、本件行為は、業務妨害罪の構成要件該当性が認められず、仮に認められる余地があったとしても、本来業務妨害罪が予定していた法益侵害性がきわめて乏しい行為である。このような行為についてあえて業務妨害罪に問擬して刑事責任を問うことは、まさしく、表現者の表現活動の取締りを本来の目的としない法令を、表現行為の取締りに用いるという「脱法的行為」といえる。

イ 保護法益の主体

  原判決は、上記保護法益について、「Uらのみならず本件イベントの参加者等の関係者にとっても重要なもの」であるとしており、U証人、スパイダーのみならず、「関係者」も保護法益の主体であるかのように言及する(8頁)。

  しかし、U証人が従事していた業務が妨害の対象であるとしながら、その主体を「イベントの参加者等」にまで広げるのは、被告人の行為と対比させられるべき保護法益を実質的に拡張するものであって不当である。

⑵ 権利行使の制限が許される場合の判断基準

 

ア 表現の自由として

 

(ア) 政治的表現の自由の優越的地位

  本件行為は「象徴的言論」あるいは「市民的抵抗」としての性格を有し、これが処罰の対象とされる場合、それが正当行為として保護されるかに関する判断には、憲法適合性が判断される必要があり、その審査基準は、言論と同様に厳格な審査基準によって審査されなければならない。

  日本国憲法は、個人の尊重(13条)を最高の価値とし、個々人の個性・思想のかけがえのなさの尊重がその本質に包含されている。思想はその本質上、外に発表されることを欲するものであるから、個人の尊重は、必然的に表現の自由の尊重を要求するものである。よって、個人の精神作用の所産を外部に発表する精神活動の自由である「表現の自由」は、個人の全人格的な発展、自己実現のために不可欠であって、人間の精神活動の自由の実際的・象徴的基盤として、人権の中でも「優越的地位」を占める。

  特に、政治過程においては、政治・社会に関する知識・思想などが不断に流通し、自分の意見を表明する権利が与えられ、他人の意見を聞く権利が与えられることなしに、選挙権を効果的に行使することはできないし、日常的に政治に参加し、政治に働きかける自由がなければ、主権者は代表者の暴走を次の選挙時まで忍従しなければならないことになるから、政治に関する多種多様な情報が自由に流通している状態を確保することが制度的に保障されていなければならない。また、政治的表現の自由は、他の全ての人権の成立・展開を支える原動力となるものであり、憲法上特別な価値付与がなされているといえる。さらに、多数派や支配層に対して批判的な表現が迫害にあってきたことは、歴史上明らかな事実であり、この点についても配慮が必要になる。

  よって、表現の自由の中でも、特に政治的表現の自由については特別な地位が認められるべきであり、このことは、判例・学説の等しく認めるところである。

そして、2020東京大会が上述したような問題点をはらんでいることは、さまざまな観点から広範な論者から指摘されており、書籍や雑誌などでもそのような意見を採り上げた特集が行われていた(鵜飼調書1~2頁)。また、反五輪の運動は、国際的な反対運動ともつながりながら、招致運動中から展開され、運動の中で反対論も深化していった(鵜飼調書16頁)。2020東京大会は、政治的問題をはらみ、国論を二分するような状態のもとでその開催の是非が問われるようなイベントだった。

  したがって、2020東京大会の招致・開催の是非や開催方法についてはきわめて政治性の高い、思想的な問題であり、このイシューについて意思表示をすることは政治的な表現に含まれ、その表現の自由は一般的な表現行為以上に高度に保護されねばならない。

  この点原判決は、「公共の福祉のため必要かつ合理的な制限は是認される」という基準のもと、手段や方法が表現行為としての相当性を欠いている、本件行為を制限することによる表現の自由の制約の程度は小さいとして、本件行為の制限は「必要かつ合理的な制限」にあたるとする(8~9頁)。

  しかし、表現の自由の行使は、表現の場所や手段との関係で他者の財産権・管理権などの利益に影響を与える行動を伴うことも多い。少しでも他者の諸利益を害する場合に表現の自由の制約が許容されるとなれば、表現の自由の行使の保障は画餅に帰する。

  原判決は、吉祥寺駅ビラ配布事件最高裁判決(最高裁1984年12月18日)の、「たとえ思想を外部に発表するための手段であっても、その手段が他人の財産権、管理権を不当に害するごときのものは許されない」という判示を意識してか、「たとえ思想を外部に発表するための手段であるとしても、その手段が他人の権利を不当に害するようなものは許されないというべき」という。しかし、ここでは「不当に害する」といえるのかという点が重要であり、原判決はその点に対して全く配慮なく、「表現行為として相当でない」という裁判所の判断をただ押しつけるのである。

(イ) パブリックフォーラム論

  さらに、表現の自由の価値に実質的に配慮するためには、表現の場所が確保されていることが必要であり、そのような表現のための場所として役立つと考えられるべきところでの表現行為の規制に関してはその合憲性をより慎重に審査しなければならない。

  上記最高裁判決の伊藤正己裁判官の補足意見はその点について触れている。

  「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもつている。特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといつてもよい。一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくない。道路、公園、広場などは、その例である。これを『パブリツク・フオーラム』と呼ぶことができよう。このパブリツク・フオーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要があると考えられる。/道路における集団行進についての道路交通法による規制について、警察署長は、集団行進が行われることにより一般交通の用に供せられるべき道路の機能を著しく害するものと認められ、また、条件を付することによつてもかかる事態の発生を阻止することができないと予測される場合に限つて、許可を拒むことができるとされるのも(最高裁昭和56年(あ)第561号同57年11月16日第3小法廷判決・刑集36巻11号908頁参照)、道路の有するパブリツク・フオーラムとしての性質を重視するものと考えられる。/ もとより、道路のような公共用物と、一般公衆が自由に出入りすることのできる場所とはいえ、私的な所有権、管理権に服するところとは、性質に差異があり、同一に論ずることはできない。/しかし、後者にあつても、パブリツク・フオーラムたる性質を帯有するときには、表現の自由の保障を無視することができないのであり、その場合には、それぞれの具体的状況に応じて、表現の自由と所有権、管理権とをどのように調整するかを判断すべきこととなり、前述の較量の結果、表現行為を規制することが表現の自由の保障に照らして是認できないとされる場合がありうるのである。」

  と、道路における集団行進を例に挙げつつ表現行為全般との関係でパブリック・フォーラムに言及している。

  このような考え方は、判決文の中に明記されていなくても、近年に至るまでの最高裁判例においても前提とされている。

  佐世保エンタープライズ事件判決(最高裁判決1982年11月16日)は、道交法上の道路使用許可が、道路における集団的示威運動の権利を不当に制限し、憲法21条1項に反するものではないかということが論点の一つとなっていたが、この点について、許可要件で「現に交通の妨害となるおそれがない」こととされていることの意味について、単に抽象的な交通の妨害が想定されるだけでは足らず、警察署長が条件を付してもなお「道路の機能を著しく害する」ような態様のもののみ不許可とするという限定的な解釈を行った。これは、表現のための場所としての道路の機能を重視し、そのような場所での表現活動に関しては、たとえ一般交通の著しい妨げとなる場合であっても、その規制は相当程度に慎重でなければならないという考え方を前提にしている。

  また、泉佐野市民会館事件判決(最高裁1995年3月7日)は、市民会館使用の不許可要件の1つとして「公の秩序を乱す恐れがある場合」と定める条例の違憲・違法性が争われたが、同判決は、利用拒否が必要かつ合理的な制限かどうかは、「基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである」とした上で、条例の文言について、「本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、・・単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である」と、条例の文言を限定的に解釈した。市民会館が、集会という表現のための場所としての公の施設としての性質を有しているという点が考慮された結果といえる(平成7年度最高裁判例解説)。

  立川反戦ビラ事件判決(最高裁2008年4月11日)は、被告人らが「一般に人が自由に出入りすることができる場所ではない」ところに「管理権者の意思に反して」立ち入ったことから、処罰は合憲である旨の結論を導いた(高裁判決が「他人が管理する場所」全般において表現の自由を否定するのに比較して限定的である)。ここでも、表現行為が行われた場所がパブリック・フォーラムと評価しうる場所であるかが意識されている。

  しかし、原判決は、被告人が本件行為を行っていた場所について、違法性との関係で分析していない。

イ 請願権の行使として

  上述したように、請願権はその行使が高度に保障されている。「平穏」に行ったものと認められれば、請願権の行使の制限はそもそも認められない。

⑶ 合憲的限定解釈の必要性

 

ア 限定解釈とは

  国内の法体系は、さまざまな法規範が矛盾なく定立していることを前提としている(法秩序の統一性)。この概念は、憲法と他の法令との関係を整序する際に特に重要なものであり、最高法規たる憲法と他の法令とが矛盾・対立する場合には、後者は違憲・無効となる。

  法秩序が統一性を保つためには、まず、国家機関が、憲法と他の法規範との関係を矛盾・対立なく整合的に理解しうるように、下位法令を制定し、解釈し、適用しなければならない。つまり、立法府たる国会は、憲法と矛盾がないように法律を制定する義務を負う。しかし、下位法令のなかには、その規定自体が違憲ではなくても、その解釈次第では、本来正当な憲法上の権利行使にまで規制を及ぼしてしまい、憲法規定との矛盾を生じさせる適用可能性を有するものが存在し、そのような場面では、最高法規たる憲法を頂点とした法秩序の統一性を保つために、法令の規定を合憲的に解釈し、憲法規定との矛盾を回避する適用が行われることが必要となる。

  こうした場面で、日本の裁判所において用いられてきた法令の解釈方法が、法令の趣旨・目的と憲法上の権利保障との調整を念頭に、憲法上の権利を制約する法令の規定を限定解釈するという方法である。たとえば、四畳半襖の下張事件最高裁判決(1951年5月10日 わいせつ物頒布等の罪の限定解釈)、広島市暴走族追放条例事件最高裁判決(2007年9月18日 暴走族追放条例の限定解釈)、国家公務員法違反2事件最高裁判決(2012年9月18日(堀越事件、世田谷事件)国会公務員の政治的行為の禁止の限定解釈)などの例が、最高裁が法令の規定を限定解釈した例としてあげられる。

イ 業務妨害罪の適用範囲を限定すべき必要性

  業務妨害罪は、表現の自由の行使を直接規制するものではないが、同罪は構成要件に濫用の可能性がはらまれる犯罪類型であり、これを、市民的自由を抑圧する目的で、広範な捜査権限・起訴裁量のもとで適用してくることは、構成要件該当性が不明確な犯罪類型を新たに作り出すことと同じである。

  本件も含め、業務妨害罪のような本来価値中立的な法規を利用して、権力にとって都合の悪い言論を弾圧する、本来の趣旨とは離れて、法律が使われるという事態が生じている。このことは、「市民的治安主義」による市民的治安法による「市民的秩序の『実力的』貫徹」の前景化という形で、法学者に指摘されてもいる(宮本意見書10頁)。

  表現行為の取締りを本来の目的としない法令を、表現行為の取締りに用いるという「脱法的行為」は、法律の重要な機能である「予測可能性」を著しく害する。具体的に考えてみよう。「今まで犯罪とは考えられてこなかったことが、ある日突然犯罪として検挙される。この検挙の際、表現内容が問題とされたことはあからさまには示されないが、その本質的な目的が批判的言論の取締りであることを誰もが知っている。何が犯罪であり、何が犯罪でないのか、その境界が著しく不明確となってしまう、このような状況の中では、検挙を覚悟しなければ、批判的言論を発することができない」。このことは表現者にとって、きわめて強い圧力となり、周辺に多大な萎縮的効果を及ぼす。

  このような例として、公園内公衆トイレへの「反戦」落書きに対する建造物損壊罪(最判2006年1月17日)、反戦ビラのポスティングに対する住居侵入罪(立川自衛隊監視テント村事件 最判2008年4月11日)、厚労省課長補佐による政党機関紙のポスティングに対する国公法(政治的行為の禁止)違反(国公世田谷事件 最判2012年12月7日)があり、業務妨害罪についても同じく、沖縄返還協定反対活動に対する東京地判1973年9月6日や、傍聴席から議場にスニーカーを投入れて特定秘密保護法に反対意思を示した東京地判2015年2月24日、都立高校卒業式に招待された元教師が週刊誌のコピーを配布して国歌斉唱の際に着席を呼びかけたうえ校長らによる退去強制に抗議した事案(最判2011年7月7日)、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前でコンクリートブロックを積上げる等により工事資材の搬入を阻止しようとした事案(最判2019年4月22日)、生コン運搬運転手の正社員化や運賃値上げを要求して出荷拠点の運送業者のセメント出荷阻止を共謀したとされる事案(大阪地判2021年7月13日)などがあげられる(宮本意見書11頁参照)。

  被告人を逮捕し、起訴することで、批判的言論に対する萎縮的効果が生み出され、2020東京大会に対する反対の意思表示を萎縮させ、表現を制限することになることは当然想定されており、むしろ、そのような効果をもくろんでいたことが窺われる。

⑷ 本件行為の正当行為該当性

 

ア 表現の自由の行使

  被告人の本件行為は、政治的表現の自由の行使にあたる。また、本件現場の性質は、これまで検討してきたとおり、一般公衆が自由に出入りできる場所であり、実際にそこで(地裁判決も認めるとおり)「適法に」他の抗議活動は行われていたのだから、表現の場所としての機能を有することが想定されているので、パブリック・フォーラムとしての性質を有する。

  被告人の本件行為がパブリック・フォーラムの中での政治的表現の自由の行使として、最大限の保障が必要であることからすると、刑法35条の正当行為該当性は、被告人の行為の有する価値と刑法上の保護法益との抽象的な法益衡量にとどまらず、被告人の行為が具体的にどのような意義を有する行為であったのか、その行為によって刑法上の保護されるべき利益は実際にどの程度侵害されたと言いうるのか、その保護されるべき利益の要保護性の程度はどのくらいかなどを、当該事件の具体的事情のもとで慎重に考慮すべきである。

  ここで、具体的にあてはめてみるに、被告人の行為は民主主義的制約が及ばない事項に対する市民的抵抗としての意義を有する行為であってきわめて大きな意義を有する一方、U証人らの案内誘導業務に対する侵害は全く認められないか、発生していたとしてもごくわずかであり、案内誘導業務そのものを保護すべき必要性はほとんど認められない。

  このような具体的な利益考量の結果から、被告人の本件行為がたとえ威力業務妨害罪の構成要件に該当すると認められた場合であっても、保護の客体である本件業務の要保護性の程度は相当に低いのに対して、被告人の本件行為の意義は相対的に極めて大きく、正当な目的のために行った行為として、法秩序全体の見地から社会的に許容されるものであり、刑法35条の正当行為に該当する。

イ 請願権の行使

  国民・住民の代表機関として議論し意思決定を行う議会が機能不全に陥っている場合、その機能不全を是正するように議会に対して請願を行う手続について、法律は特段の定めを設けてはいない。むしろ、そのような場合だからこそ、国民は直接に憲法16条に依拠して積極的に請願をなすべきである。

  被告人による本件行為は「本件イベントの開催を妨害する」という目的で行われたものではなく、2020東京大会の開催の中止を求め抗議する意思を表明するために行われたものであり、その性質からすれば、本件イベントの場を通じて、オリンピック開催のための業務に従事する者や国や東京都の民主的政治過程を担う者に対して、抗議の意思を伝え民主的政治過程本来の討論・審議機能を回復することを求める一種の「請願」であると評価することができる。

  憲法16条によって請願について課される制限は唯一「平穏に」ということだけであり、「平穏」というのは気づいてもらう必要性との関係で相対的に決されるものである。

  本件のように、周囲が喧噪状態にある中で、請願の意思を伝えるために爆竹を用いて自分の意思を伝えることは、全体の事情を総合的にみたときには、平穏を害する行為とはいえない。爆竹を鳴らすこと自体はお祭りなどの場面で、日常的に行われている行為で危険性はきわめて低く、誰にも怪我をさせず、何も壊さずに単に爆竹を破裂させた行為は「平穏な請願」の範疇に属する。

  また、オリンピック組織委員会からオリンピック開催イベント関連業務を請け負っている業者は「公務」の遂行にあたるものとして、請願が行われた場合に、誠実にこれを処理するためにこの請願を受理すべき立場にある。

  そして、平穏な請願である以上、請願を行ったことを理由にして処罰されるべきではないことは当然であり、被告人の行為は「正当行為」とみなされる。

⑸ 小括

  これまで論じてきたとおり、本件行為は、表現の自由の行使あるいは請願権の行使として「正当行為」にあたり、違法性が阻却される。被告人の行為について業務妨害罪の成立を認めることはできない。

4 本件行為に可罰的違法性は認められない

⑴ 可罰的違法性論の必要性

 

ア 原審の判断

  原審は、「本件行為の手段や結果が、業務妨害罪の保護法益を侵害したと認められない程度に軽微であるとはおよそいえない」と判示して絶対的軽微性を否定し、これに続けて、「そのことは本件行為の目的や表現の自由として保護されるという性質を総合的に考慮しても変わらないから、本件行為には可罰的違法性がないという弁護人の主張にも理由がない」として、本来求められる相対的軽微性に関する判断も示しているように見える。

  しかし、このような論理構造をとれば、ほぼ常に相対的軽微性は否定されてしまう。原審の判断は、違法判断を事実認定に改称し、想定される他の要保護利益の侵害ないし危殆化の可能性を限界まで指摘している(構成要件該当性判断の部分ではあるが、原判決が「本件行為は、爆竹がUらの至近で爆発して火傷をしたり、柵を乗り越えようとする被告人とUらが接触して転倒したりする危険を内包する」(6頁)とか、「被告人が本件現場で取り押さえられなかった場合には、柵を乗り越えて体育館敷地内に侵入し、所持していた残りの爆竹をすべて爆発させるなどの行動に出た可能性が高いという事情」(7頁)とか、検察官すら主張していない裁判官の妄想を付け加えている点に、顕著である)。原審はそのような姿勢で当該行為の違法性を判断したため、違法阻却が認められる範囲はきわめて狭くなってしまった。だが、とくに基本権行使に対する刑罰法規適用の通例化ないし一般化が意味するのは、自由主義の後退ないし死滅に外ならない(宮本意見書12頁)。

  後述するように、罪刑法定主義の原則(憲法31条)から、本来、違法性を阻却ないし低減する方向の事実も取り上げた上で、厳密かつ詳細に違法性の検討を行うべきであるのに、原審はこれを怠り、「過度に広汎な処罰の禁止」に反する刑罰法規の適用という結論に至っている点で破棄を免れない。

イ 刑法上の違法性

  刑法は謙抑的でなければならず、可罰的違法性の概念は、「市民社会の安全弁」として機能する(宮本意見書6頁)。

  藤木英雄教授は、「可罰的違法性の理論とは、刑罰法規の構成要件に該当する形式外観をそなえているように見える行為であっても、その行為がその犯罪類型において処罰に値すると予想している程度の実質的違法性を備えていないときは、定型性を欠き、犯罪構成要件にはあたらないのだということを認めていこうとするものである。/換言すれば、構成要件該当性、定型性と言うときには、形式的・外形的判断に留まらず、その罪において予想される、あるいはその罪として処罰に値するだけの定型的な実質的違法性-違法の軽重という量的意味のみならず、法益保護の目的からみた質的面を含めて-をそなえていることが前提とされていると解すべきだ、という主張である。具体的には、刑法の解釈につき、杓子定規な形式的解釈によらず、実質的観点から、合理的・縮小的解釈を行うべきだという主張であって、刑法は法益保護のための最小限の害悪に止まるべきだという謙抑主義の立場と、実質的・合目的的解釈とをむすびつけたものである」と述べている(『可罰的違法性』(学陽書房・法学選書、1975年)9~10頁)。そして、「同じ犯罪構成要件にあたる行為であっても、違法性が非常に重いものもあれば、違法性が極端に軽いものもあることを認めることを前提とし、その上で、違法性の程度が軽いものについて、はたしてこれがその犯罪構成要件を定めたことによって法が処罰を予想するものだろうか、ということを問題にしようとするのが、可罰的違法性の理論の趣旨である」(同書12頁)。

  つまり、刑法上の違法性は、単に形式的に構成要件該当性が認められるばかりではなく、刑罰を科すに足るだけの質と量とを保持するものでなければならず、刑法における違法性の評価においてはその質と量の認定が行われなければならない。

  前述したとおり、これは構成要件該当性においても検討されなければならないが、可罰的違法性の判断においても、上述した機能からすれば、同様の考慮がなされなければならないことになる。すなわち、憲法31条にその基礎を見いだすことができる罪刑法定主義の原則は、法律による事前告知という形式原理にとどまらず、憲法的な要請による実質的な人権保障原理としての性質を有する。そして、同原則は、「刑法の謙抑性・断片性・補充性という自由主義国家の基本前提をなす公理の実践原理として、刑罰法規の創設・解釈・適用の全ての次元において、人間の尊厳を基調とする民主主義社会における自由・自律を保障するものでなければならない」(宮本意見書18頁)といえる。

  とすれば、「実体的デュー・プロセスの要請は立法権力による刑罰法規の創設に対するのみならず,司法権や行政権によるその解釈・適用にも及び,刑罰法規の創設段階における厳格な必要性と相当性のみならず,その適用段階における厳格な必要性と相当性も求められることになる。罪刑法定の原則による『刑罰法規適正の原則』は,刑罰法規の創設段階における必要性・相当性の要求を意味する『過度に広汎な刑事規制の禁止』のみならず,その適用段階における必要性・相当性の要求である過度に広汎な刑罰法規適用の禁止―つまりは『過度に広汎な処罰の禁止』―をも包含しているのである」(同19頁)。そこからは、構成要件該当性の判断においても可罰的違法性の存否の判断においても、「刑罰を科すに足るだけの違法性が存在するのか」について、違法性の質と量の両面から検討を行わなければならないという結論が導かれる。

ウ 可罰的違法性について考慮した裁判例の検討要素

  違法な行為であったとしても、その違法性が実質的に考察して処罰に値しない程度であることを理由に犯罪の成立を否定するという、可罰的違法性の犯罪論における機能は、実際の裁判例でどのように果たされているのか。

  前田雅英教授は、可罰的違法性を欠き無罪と結論づけた裁判例が、絶対的軽微性を理由とするものだけではなく、「法益侵害行為が存するものの、それが一定の正当な目的を有する事案を対象としている」場合、「労働争議行為や抗議活動に際して行われたものであること、つまり、行為が一定の価値を担っていることが暗黙の内に加味されて、『軽微概念』が弛緩してくると推測される」(『可罰的違法性論の研究』(東京大学出版会、1982年)436~7頁)として、具体的には、①結果・手段の軽微性、②目的の正当性、③手段の相当性・必要性という各要素が検討されているとする(同書531~556頁)。

⑵ 本件行為にかかる可罰的違法性判断

  上記要素を意識して、被告人の本件行為について分析すると、以下のとおりの事情が確認できる。

ア 結果の軽微性

  本件行為は本件イベントに何ら影響を及ぼしておらず、U証人の業務に限定しても妨害の結果は生じていない(影響があったとしても業務が一時中断されたというにとどまる)。U証人は検察官から「被告人に何か言いたいことがあれば言うように」と促されて、「正直、特にはないです。けが人とか、うちのスタッフがけがをしたとか、お客様がけがをしたとかっていうことはないので、その男性の方に、特にもありません」(U調書13頁)と述べているように、被害感情を有していない。また、被告人は、U証人及び周辺で警備にあたっていた警察官らにその場で身体を押さえられ、抗議活動を阻止されると同時に本件現場から排除されている。つまり、被告人が行ったことは、1本の爆竹に点火して鳴らしたという一事なのである。

  そもそも、威力によってイベント会社社員の業務遂行等を阻止・妨害したとして業務妨害罪の罪責を問うとすれば、当該イベントそれ自体の催行の―内容・日程等の大幅な変更を含む―放棄・断念という結果(の抽象的危険)が発生したか否かにかかわらず、その結果が生じるまでの因果のプロセスのいずれかの段階を切取って業務妨害罪を適用し得るのは、機会主義的・便宜主義的な刑罰法規適用であり、刑法の謙抑性・断片性・補充性という近代刑法の不可欠な前提をなす公理に背反する。とくに基本権行使の側面を有する行為について、機会主義的・便宜主義的に切り取って刑罰法規の適用を求めるような起訴は、市民的治安主義の実践であり、一般刑法の市民的治安法化を更に促進するものとなり、問題がある(宮本意見書26~27頁)。

  よって、本件所為には、明らかに、結果の軽微性が認められる。

イ 目的の正当性

  上述したとおり、被告人は、2020東京大会に抗議するために、政治的表現の自由の行使として本件所為に及んでおり、被告人の目的は正当である。

ウ 手段としての相当性・必要性

 

(ア)相当性

  「象徴的言論」については、そもそも単なる表現ではなく、一定の行為(それは必然的に第三者や周囲に対する一定の影響をもたらす)が前提となっていることから、手段として効果が生じえ、一定の範囲で用いられているということが認められれば、相当性を認めてよい。

  爆竹を鳴らすという行為で抗議や怒りの意思を表明すること、あるいは自分の意思表示に注目させることは、世界的にも広く行われているものであり(鵜飼調書19~20頁)、抗議の手段としても一般的である。そして、被告人は、U証人に対する、直接な有形力の行使は行っていない。

  この点について、宮本教授は、「爆竹の使用という事実―そしてその爆発によって意思を制圧され、業務妨害結果が発生した、あるいは発生する(抽象的)危険があったという認定―をもって、直ちに被告人の表現『手段』が『相当性』を欠くという帰結を導くことはできない。固より爆竹は種々のイベント等にも使用に供される日常品でそれ自体とくに危険物ではないこと、爆竹の使用が本件イベント終了予定時刻を10分以上経過した後であること、使用した爆竹の量も到底『大量』とは認められないこと、爆竹の使用(点火)は1回のみで複数回にわたって執拗に繰返されたものではないこと、被告人は爆竹を会場に隣接する―本件イベント参加者の出入口であり受付場所であった―『体育館敷地内』に投げ入れたのであって―沖縄返還協定に反対して議場内で爆竹を鳴らしたという東京地判1973年9月6日の事案とは異なり―会場である『競技場(トラック内)』で使用(点火)しあるいは投入れたものではないこと等々、第1審判決が―構成要件該当性をもって『相当性』を欠くとする罪刑法定の原則に反する安易な判断により―軽視あるいは黙殺する事実を併せ考慮しても、その表現『手段』は憲法21条1項による保障の範囲外に置かれねばならないほどに『相当性』を欠くのか、つまりは刑罰法規の適用を受けるに値するだけの違法性の質と量を具備していたのか否かを問題とせねばならないのである。更に第1審判決によれば、被告人の意図は『東京オリンピックパラリンピックやそれに関連する聖火イベントの開催に抗議の意思を示そうと』する点にあるとされるが、オリ・パラそれ自体や関連イベント催行の態様と被告人の―爆竹使用という―行為の態様の非対称性は、『・・実際被告人を罰したいのは、オリ・パラなんじゃないかというふうに私は感じていて、まあ国を挙げての、地方自治体やらNHKやら・・マスコミやら、あるいは大企業から・・小さな企業まで巻き込んでの、総力挙げての、そして全国から警察を集めて、また自衛隊の出てきての、そういう圧倒的な力でオリンピック・パラリンピックが強行されて、それに対して爆竹というのは、余りにも桁違いに小さい、破壊力が小さいと私は感じています』とする―オリ・パラ開催に反対の立場に立つ証人による―証言【弁護人注:T証人証言】のとおりである。これも被告人の行為について違法性低減のベクトルを有する要素となろう」と指摘するとおりである(宮本意見書24~25頁)。

(イ) 法益衡量

  「もはや許された範囲を著しく逸脱したもの」のように手段の不相当性を強調すればそれはあまりにも硬直した判断になってしまうため、「具体的目的のためにはどの程度までの侵害が許されるか」という観点から衡量を行うべきである。

   被告人の保護されるべき法益は、憲法上優越的地位が認められた政治的表現の自由である。これに対し、妨害されたという業務は、起訴状によれば非常に限定されたものに過ぎず、しかもその業務に従事していたU証人は業務を妨害されたという明確な意思をもっていない。

  このことからすれば、被告人が本件行為によって実現しようとした法益表現の自由の行使あるいは請願権の行使)を尊重すべきである。

(ウ)必要性

   手段が必要かつ相当なものであったかという点については、行為が目的達成のために必要なものか、あえてその場で行為を行わざるをえなかったのか判断すべきである。

  コロナ禍で2022東京大会に直接的に反対の意思表示を行う場面は非常に限定されたものになった。その中で、被告人は、「そのほうが人を傷つけず、目立った公道であると思ったからです」(被告人調書3頁)、「柵の中には結構大きなスペースというものがあって、そこで人を傷つけずに、自分のこのオリンピック・パラリンピック、そしていわゆる聖火リレーに対する抗議の意思表示をしようと思いました」(同15頁)として、象徴的言論としての効果と人に傷害を負わさないということを両立し、自分にも容易に実現可能な手段として爆竹を鳴らすという手段を選択したものであり、手段としての必要性も認められる。

⑶ 小括

  本件は、結果・手段の軽微性が優に認定できる事案であり、しかも前述のとおり、業務妨害罪が本来予定している法益侵害性が認められないから、絶対的軽微性類型に相当するといえる。したがって、本来、その余の要素を検討するまでもなく、可罰的違法性は否定される。

    仮に、法益侵害性が認められるとの立場に立っても、その程度はU証人の証言に現れたようにきわめて軽微であること、一方、被告人らの保護されるべき法益は、憲法上優越的地位が認められた表現の自由、とりわけ尊重されるべき政治的意味を有する表現の自由であること、手段の相当性が認められることなどを総合考慮すれば、可罰的違法性は認められない。

5 被告人の行為に違法性は認められない

  先に引用したユルゲン・ハーバマスは、「市民的抵抗は成熟した民主主義の重要な構成要素である」と市民的抵抗の価値を位置づけた後、「社会的な目的のために法律を破る市民を国家がどのように扱うかは、確かにその国の政治文化をよく表している」と述べた。被告人の本件行為に違法性が認められるかどうかの裁判所の判断は、被告人のような一種の抵抗行為を、日本社会がどのように扱うのかを示す指標となる。  

  被告人は、何も壊さず、何者も傷つけず、迷惑に配慮して、ささやかな抗議行動を行った。一方で、被告人の抗議の対象である2020東京大会は、不正によって巨大な利権を得る者たちによって、招致・開催された(と一般人にはみえている)。被告人の抗議行動だけが不寛容に取り上げられ、刑事事件とされ、断罪されるのに対して、多くの不正は今も明らかにされず、刑事事件として立件されているものも、大きな利権のごく一部にすぎない。

  市民の表現行為や抗議行動への不寛容は、社会の閉塞感を強化し、不正に対するあきらめを蔓延させることで、市民の倫理観を腐食させる。そのような結果を生じさせないために、表現行為や市民的抵抗の違法性については慎重に扱うという判断が積み重ねられているのである。

  被告人の本件行為に違法性は認められない。

 

第5 結語

  以上のとおり、被告人の行為は威力に該当するものではなく、また仮に威力に該当するものであったとしてもその違法性が阻却される。

  したがって原判決は事実誤認に基づくものであるとともに、法令の適用を誤ったものであり、これらはいずれも判決に影響を及ぼすことが明らかである。原判決は破棄を免れない。

  速やかに原判決を破棄して被告人に無罪判決を言渡すべきである。

 

以 上

一審判決に異議あり