武蔵野五輪弾圧救援会

2021年7月16日に東京都武蔵野市で行なわれた五輪組織委員会主催の「聖火」セレモニーに抗議した黒岩さんが、『威力業務妨害』で不当逮捕・起訴され、139日も勾留された。2022年9月5日の東京地裁立川支部(裁判長・竹下雄)判決は、懲役1年、執行猶予3年、未決算入50日の重い判決を出した。即日控訴、私たちは無罪判決をめざして活動している。カンパ送先⇒郵便振替00150-8-66752(口座名:三多摩労働者法律センター)、 通信欄に「7・16救援カンパ」と明記

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(前半) ーいわゆる「武蔵野爆竹事件」における威力業務妨害罪の成否をめぐって…宮本弘典氏意見書

宮本弘典(関東学院大学教員、刑法・刑法史)

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(後半)5.過度に広汎な処罰の禁止と違法性判断 結語」

kyuenmusasino.hatenablog.com

1.第1審判示と認定事実

 いわゆる武蔵野爆竹事件において,東京地裁立川支部判決2022年9月5日は,東京オリ・パラ聖火リレーに関するイベントに際して会場に隣接する体育館敷地内に爆竹を投入れて爆発させ,東京オリ・パラ開催等に対する反対意思を示したという事案について,被告人に有罪判決(懲役1年 執行猶予3年)を言渡した。

判決によると「罪となるべき事実」は,

  「被告人は,東京オリンピックパラリンピックやそれに関連する聖火イベントの開催等に抗議の意思を示そうと考え,2021年7月16日午後5時13分頃,武蔵野陸上競技場で開催されていた東京2020オリンピック聖火リレー点火セレモニーの参加者等の入退場,受付等が行われていた前記競技場に隣接する……武蔵野総合体育館の西側歩道上において,ライターで点火した爆竹を同体育館敷地内に投げ入れて爆発させた上,同所に設置されていたバリケードに近づくと,警備関係者らの制止を振り切り,同バリケードを乗り越えて同敷地内に侵入しようとし,その頃,同セレモニー参加者等の誘導,案内等の業務に従事していた……(イベント会社社員らに―引用者)……同業務の中断を余儀なくさせ,もって威力を用いて同人らの業務を妨害した」

というものであり,関係証拠によって判決が認定した事実は以下の通りである[1]

 ㋐ 2021年7月16日に武蔵野陸上競技場において東京2020オリンピック聖火リレー点火セレモニーが開催された。

 ㋑ 陸上競技場に隣接する武蔵野総合体育館の歩道に接している部分にはバリケードとしてプラスチック製の柵が並べられ,本件イベント参加者等の入退場口が設けられていたが,本件イベントに際して本件入退場口を通過できるのは,原則として本件イベント参加者やスタッフ等の関係者に限られ,それ以外の者の立入りは規制されていた。

 ㋒ 本件イベントの参加者等の受付,誘導及び案内等の業務委託を受けていたイベント会社社員証人Uは,本件業務の統括者として本件イベント開催中,他の多数のスタッフと共に本件業務に従事していた。

 ㋓ 本件イベント終了予定時刻は17時であったが,証人Uは17時過ぎに参加者等の退場誘導等のため本件入退場口に向かい,17時13分頃,証人Uが本件入退場口付近の歩道近くにいたところ,被告人が歩いて歩道を横切り本件入退場口付近で立止まった。証人Uが被告人に近づいてその様子を窺うと,被告人が手に爆竹のようなものを持っているように見えたことから,証人Uは被告人に手に持っているものは何か尋ねたが,被告人の返答はなかった。証人Uは,警察官に被告人への対応を任せようとして,体育館敷地内にいた警察官を呼び寄せ,再び被告人の方を振返ったところ,1発目の爆竹が鳴ったのが聞こえた。その頃,被告人は,左手に持った爆竹にライターで点火し,体育館敷地に更に近づきながら,爆竹を証人Uとは別のスタッフらが立っていた体育館敷地内に投入れた。爆竹は,被告人が手に持った状態で数回,被告人が投げた後空中や体育館敷地内で数回爆発し,爆発音を発した。爆竹を投げた直後,被告人は,爆竹の爆発が鳴り響く中で,プラスチック製の柵に駆け寄って手をかけ,柵から身を乗り出して乗越えようとした。

 ㋔ 証人Uは,目の前で爆竹が爆発したことに驚き,わずかに身をすくませたが,すぐに柵を乗越えようとする被告人に後ろから抱きつき,集まってきた警察官らとともに被告人の体育館敷地内への立入りを阻止するとともに,本件イベント会場から退場しようとする参加者等を引き留めておくようスタッフらに指示した上,参加者等を退場させる方法を検討するなどして,退場しようとする参加者を20分くらいの間やむを得ず待機させた。

 これに対して弁護人は,事実に関する問題として,㋔の参加者を20分程度待機させたという事実はなく,被告人の爆竹使用=爆竹への点火は1回に止まり,㋓の爆竹の破裂音が数回に及ぶとされる点は1回の使用(点火)による破裂音の連続に過ぎず,また同じく㋓の柵を乗り越えようとしたという事実もないと主張し,更に法的には以下の理由によって被告人の無罪を主張した。

 ① 被告人の本件行為は,被害者の自由意思を制圧するに足るものではなく「威力」の行使に当たらず,また,本件行為によって実際に業務が妨害されたこともなく,その抽象的な危険もない。

 ② 被告人の本件行為の目的や内容,象徴的言論として憲法により保障されている表現行為としての性質に鑑みて,仮に業務妨害罪の構成要件に該当するとしても,正当行為として法律上の保護の対象とされるべきであって違法性が阻却されるし,その法益侵害の程度からすれば可罰的違法性もない。

 判決はこれらの主張をいずれも斥けたが,①についての判示は以下のとおりである。

  「……本件行為は,……その具体的な態様,爆竹が爆発した位置,生じた爆発音の大きさ及び回数,爆竹投てき前後の被告人の行動並びに周辺の状況等からすれば,人の意思を制圧するに足る勢力であると評価することができ,刑法234条にいう『威力』に該当する。

   ……本件行為は,爆竹が証人Uらの至近で爆発して火傷をしたり,柵を乗り越えようとする被告人と証人Uらが接触して転倒したりする危険を内包するものであり,本来証人Uらが行うべき誘導や案内等の被害会社の業務が円滑に行われなくなる蓋然性が相当程度認められる行為であるから,被害会社の業務を妨害する抽象的な危険を有する行為であるといえる。しかも,証人Uは,……被告人に後ろから抱きついてそれを阻止したほか,……参加者を退出させる方法等の再検討を余儀なくされ,本件行為により,予定していた業務の中断ないし変更を強いられたものであり,具体的な業務妨害の結果も生じていたことが認められる」

 判決は更に,四囲の状況に鑑みてもなお本件行為が「威力」の行使に該当するというが,その根拠は,「さらに激しい爆発」あるいは「複数人による同様の行為」の危険という,事実―本件は被告人が単独で行ったものであり,爆竹使用(点火)も1回のみであった―に拠らない虚構ともいうべき危険ないし可能性に過ぎない[2]。この問題には後に言及する。

 ②の主張についても以下のように判示して斥けている。

  「……すでに認定したとおり,本件行為……の手段や方法は,表現行為としての相当性を欠いている。また,本件行為によって,本件業務の遂行が侵害された程度は小さいといえない一方,被告人が,自己の意見や抗議を表現する手段は,他の方法によって行うことも十分に可能であり,現に他の抗議活動は適法に行われていることも併せると,本件行為を制限することによる表現の自由の制約の程度が大きいとはいえない。

   そうすると,被告人が本件行為により表現しようとした思想が政治的な意見であることを十分に踏まえても,本件行為の制限は,表現の自由に対する必要かつ合理的な制限として憲法上是認されるものであって,本件行為の違法性は阻却されない。

   ……

   また,本件行為に対するこれまでの認定や評価を踏まえれば,本件行為の手段や結果が,業務妨害罪の保護法益を侵害したと認められない程度に軽微であるとはおよそいえないし,そのことは本件行為の目的や表現の自由として保障されるという性質を総合的に考慮したとしても変わらないから,本件行為には可罰的違法性がないという弁護人の主張にも理由がない」

 

2.威力業務妨害罪成立の無限定性

 威力業務妨害罪の成立要件と可罰的違法性に関する第1審による如上の判示は,従来の判例に依拠するものといってよい。

 威力業務妨害罪の成否については,「威力」の意義あるいは現実の妨害結果の発生の要否が問題となる。判例や支配的見解によると「威力」とは,

   「人の意思を制圧するに足りる勢力を使用することである(通説,大判明43・2・3録16・147;大判昭7・10・10録11・1519;最判昭28・1・30集7・1・128。なお,最判昭31・5・29裁集113・613)。……一定の行為の必然的結果として,人の意思を制圧するような勢力が用いられれば足り,必ずしもそれが直接現に業務に従事している他人に加えられることを要しない(最判昭32・3・21集11・2・877―なお,業務遂行者の身体に対する直接的な危害可能の情況の存することを要しない。福岡高判昭29・4・27高集7・4・572)。……また,威力は,犯人の威勢,人数および四囲の状勢からみて被害者の自由意思を制圧するに足りる程度の勢力であればよい(大判昭10・10・25集14・1405;上掲最判昭28・1・30;大阪高判昭26・2・9判特23・14;広島高判昭28・5・27高集6・9・1105;東京高判昭31・11・26裁特3・24・1186)。現実に被害者が自由意思を制圧されたことを要しない(上掲最判昭28・1・30)」[3]

とされるとおり緩やかに解されており,種々の広範に及ぶ行為がこれに該当し得るものとなっている。また「業務を妨害した」についても―有力な反対説が存するものの―現実の妨害結果の発生を要しないものとされている。

  「判例および多数説は,妨害の結果を発生させるおそれのある行為をすれば足りると解しているが(大判昭11・5・7集15・573;最判昭28・1・30集7・1・128;東京高判昭31・5・30高集9・5・542……),業務を妨害する恐れのある状態を生じさせたことを要するであろう……。しかし,現実に妨害の結果の生じたことは必要ではない(大判昭12・2・27新聞4100・4;仙台高判昭25・2・14判特3・114……)」[4]

 注意を要するのは,本罪にいわゆる「威力」を「人の意思を制圧するに足りる勢力を使用すること」と解するにしても,それは「威力」概念の外延を一義的に画する「定義」ではあり得ないということであろう。当該行為が「人の意思を制圧するに足りる勢力」の使用であるか否かは常に事実認定の問題に収斂し,どの程度の「勢力」の使用が「威力」に当たるかについては,斉一的かつ類型的判断というよりケース・バイ・ケースの判定による外ないということである。この点は「業務を妨害した」についても同様で,本罪の成立に「妨害結果」は不要だとする以上,本罪を抽象的危険犯ではなく具体的危険犯と解するにしても,構成要件結果である具体的危険の―現実的な―発生それ自体は,―当該行為それ自体と四囲の情況を総合して行う―危険の程度判断に,つまりは事実認定に収斂せざるを得ない。更にいえば,抽象的危険の―そしてまた具体的危険であってもその―発生の有無の判断は,結局のところ当該行為が包蔵する結果発生の危険の程度に関する判断に還元されようから,威力業務妨害罪の成否は―実務の現実としては,「威力」の行使があれば結果発生の抽象的危険が認められるとして―事実上,専ら当該行為が「威力」の行使か否かという事実認定に収斂する。

 その点は措くとしても,構成要件的行為(実行行為)と構成要件結果を一義的(あるいは斉一的かつ類型的)に画定することは,構成要件による―罪刑法定の原則の要請でもある事前告知による事前予測可能性の確保という―自由保障機能の充足にとって不可欠だと解されるが,威力業務妨害罪については,構成要件的行為と構成要件結果の双方において,そうした自由保障機能が弛緩しているということである。現に,判例や支配的見解における「威力」の理解にも明らかなとおり,広範な行為が「威力」の行使に当たり得るとされるが,業務従事者に直接加えられることがなくとも,また,行為時に業務関係者が当該行為を認識していなくとも「威力」の行使に該当するとされるとき[5],本罪の実行行為性の認定に対する限定要素はほぼ皆無となる。

 おそらく,判例業務妨害罪の行為―及び結果―の外延をかくも無制約なほどに拡大し拡散させるのは,本罪は人の自由という重要な利益を保護法益とすることから,経済活動の自由に止まらない―精神的自由をも包含する―社会活動の自由一般に対する侵害行為を広く本罪に包摂しようとするからなのであろう。したがってまた逆に,業務妨害行為の外延の拡大・拡散により,基本権行使を含む―本来はその保護を不可欠とする―自由な活動が広く本罪の構成要件に包摂される事態に対して,一定の歯止めを設ける必要も不可欠となる。判例や支配的見解において,とくに労働争議に関して,生産管理やピケッティングをはじめ争議に随伴する種々の行為が本罪の構成要件に該当するとしても,労組法1条1項により刑法35条の正当行為として,その違法性が阻却される―そもそも違法性を持たない―と言及されるのもその故である[6]

 

3.業務妨害罪と可罰的違法性

 本件において弁護人が主張する可罰的違法性の概念も同様に,いわば市民社会の安全弁として[7],自由な市民活動に対する過度な刑事規制を排除する有益な理論装置である。なるほど,本件のように政治的な意思表明手段が問題となる場合には,憲法21条による保護範囲を広く解して,端的に表現活動に対する刑事規制を排除することが望ましく,かつ適切であることは言を俟たない。しかし判例はこれには消極的で,

  「憲法21条1項も,表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく,公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであって,たとえ意見を外部に発表するための手段であっても,その手段が他人の権利等の他の法益を不当に害するようなものは許されないといわなければならない……」(最判1984年12月18日刑集38巻12号3026頁)[8]

というロジック―後述の立川自衛隊監視テント村事件最高裁判決が,問題は「表現そのものを処罰することの憲法適合性」ではなく「表現の手段……を処罰することの憲法適合性」だとしているように,処罰対象は「表現」自体ではなく「表現の手段」(態様)に過ぎないというロジック―がもはやステロタイプ化しており,より穏やかな―他の要保護利益を侵害ないし危殆化することのない―別の手段を選択し得たにもかかわらず当該行為に及んだ点を取上げ,行為態様が社会的相当性を逸脱する―相当性を欠く―として当該表現活動の違法性を肯定し,当該行為に対する刑罰法規の適用を肯定するのが常である。

 本件判決もそうした論理とともにこの判旨を引いており,また東京地判2015年2月24日も同様に,特定秘密保護法案の国会審議中に傍聴席から議場にスニーカーを投入れ,法案に反対するとともに審議の在り様を批判する意思を示したという事案について,上記の判旨を引きつつ次のように判示して威力業務妨害罪を認めている。

  「被告人が本件行為によって表明しようとした内容が上記のとおり政治的な意見であることを考慮しても,本件行為の禁止は,表現の自由に対する必要かつ合理的な制限として憲法上是認されるものであり,本件行為をもって威力業務妨害罪に問うことは,憲法21条1項に何ら反するものではない」

 このように,表現活動に対する違法判断は,想定される他の要保護利益の侵害あるいはその危険と当該行為の必要性・切迫性との比較衡量という事実認定に縮減され,一方で他の要保護利益の侵害ないし危殆化の可能性を総動員し,他方では当該行為の厳密かつ明白な必要性・切迫性が求められる結果,容易にその正当性(違法阻却)が肯定されることはない。そうであればこそ,表現活動に対する刑罰法規の適用を排斥する思考ないし論理の必要性が高いともいい得る。政治的な色彩を帯びる表現活動を保障せねばならないのは,現存秩序や現存価値に対する―少数者や周縁層による―異議申立ての自由の保障が,自由で民主的な社会においては不可欠だからである。その意味で,可罰的違法性という概念は市民社会の安全弁という側面を有している。

 しかし,可罰的違法性の概念による刑罰法規適用の抑制についても判例の冷淡さが目立つ。マジックホンを1回だけ使用して取外し電信電話公社(当時)に10円の損害を与えたという事案について―10円という被害額よりも電話料金を免れるマジックホンの設置という行為の逸脱性を強調して―偽計業務妨害罪の成立を肯定した判例(最決1986年6月24日刑集40巻4号292頁)もある。固より既に見たとおり,判例業務妨害罪を抽象的危険犯と解してその成立に現実の妨害結果の発生を要しないとしており,―現に発生した―「結果」の軽微性を根拠として本罪の可罰的違法性を否定するというのは,むしろ論理の一貫性を欠くといえなくもない[9]。むしろ端的に,法益の一般的価値序列に照らして,絶対的軽微を観念し得るのは個人法益のうち最下位に位置する財産法益を侵害する罪についてのみであり,それより上位に位置する自由・身体・生命を侵害する罪については,一般にその侵害について絶対的軽微という観念を容れることができず,したがってまたそれらについては絶対的軽微による違法阻却はあり得ないと考えることもできよう。マジックホン事件判決の―趣旨はこれとは異なろうが―判例としての射程をこのように解すれば,上述のとおり市民社会の安全弁という側面を有する可罰的違法性の概念について,絶対的軽微型可罰違法による違法阻却は―少なくとも財産犯罪については―維持されていると解することもできる[10]

 以上によれば,本件のような業務妨害罪において求められる可罰的違法性の判断は,現に発生した被害の軽微性―絶対的軽微―の評価ではなく,いわゆる相対的軽微型可罰違法判断ということになる。本件第1審判決は上述のとおり,

  「本件行為の手段や結果が,業務妨害罪の保護法益を侵害したと認められない程度に軽微であるとはおよそいえない」

と判示して絶対的軽微性を否定し,これに続けて,

  「そのことは本件行為の目的や表現の自由として保護されるという性質を総合的に考慮しても変わらないから,本件行為には可罰的違法性がないという弁護人の主張にも理由がない」

として,本来求められる相対的軽微性に関する判断も示しているように見える。問題は,その判断の論理構造により,ほぼ常に相対的軽微性が否定されるという現実であろう。

 周知のとおり,固より判例は―久留米駅事件判決(最判1973年4月25日刑集27巻3号418頁)と同日の全農林警職法事件判決(最判1973年4月25日刑集27巻4号547頁)に明らかなとおり[11]―,相対的軽微型可罰違法の思考に対して消極的で冷淡である。上述の表現活動に対する刑罰法規の適用と同じく,基本権行使という側面を有する行為についても,判例においては,他の要保護利益の侵害あるいはその危険という事実認定によって,当該行為の態様は社会的相当性を逸脱する―つまりは行為無価値による刑法上の違法性を有する―として,当該行為の相対的軽微性を否定するのが常である。沖縄返還協定に反対して衆院本会議場で本件と同じく爆竹を鳴らす等の抗議活動を行った事案について,やはり威力業務妨害罪の成立を認めた―全農林警職法事件判決の約半年後の―東京地判1973年9月6日刑裁月報5巻9号1315頁も同様である[12]

  「被告人らは,……爆竹や横幕,アジビラ等を準備したうえ,一般傍聴人を装って衆議院本会議場に侵入し,内閣総理大臣所信表明演説が行なわれている最中に,……爆竹を連続して鳴らし,大声で叫び,横幕を拡げてアジビラを撒くなどの行為に出たものであるから,その手段,方法が社会通念上容認される相当性を著しく逸脱しており,法秩序に違反する違法なものであることは明白である。また,その影響および結果についても,……内閣総理大臣の国会における所信表明演説を一時中断させ,本会議の議場を騒然とさせたのであるから,それが必ずしも軽微であるとはいい難い。以上の事実を総合すれば,当時,沖繩の本土復帰については,……これを不当として反対する意見を持つ者が沖繩県民のなかにある程度存したことが窺われることや,被告人らが沖繩出身者であることを考慮したとしても,なお可罰的違法性がないとはいえないこと明らかである」

 このように判例においては,事実認定レベルでの行為態様の評価が違法性判断に直結することにより,可罰的違法性という思考の果たすべき―自由主義国家における刑罰法規適用の抑制という―自由保障機能はほぼ失われている。可罰的違法性の概念はたしかに市民社会の安全弁という性質を有するべきものではある。しかしそれは,当為の世界ではそうである(べきである)ということであって,存在の現実世界の姿ではない。

 とはいえ,一般に刑罰権―したがってまた刑罰法規適用―が抑制されるべきであるということに争いはない。現在的視点においては,刑法はウルティマラツィオ(究極の叡智/最後の手段)であり,その創設(立法)・解釈・適用のいずれの段階においても,刑法の謙抑性・断片性・補充性という近代自由主義国家の要請を―その実質に関する理解に相違は存するにせよ―充たさねばならないという点で一致している。日本国憲法が31条から40条にわたって詳細かつ具体的な人身の自由保障規定を有することからも明らかなとおり,歴史を教訓としても,ファシズム体制下の権威主義国家におけるような―典型的には治安維持法に基づく思想国防のための思想司法のような―暴力的な市民社会の抑圧が日本国憲法下において許されようはずもないからである。

 そうであればこそ,刑法の現実世界の姿に対する厳しい批判も当然であろう。典型的な政治的治安法はいうまでもなく,例えば,「市民的治安主義」による市民的治安法―あるいは機能的治安法―による「市民的秩序の『実力的』貫徹」の前景化の指摘などはその好例といってよい[13]。ここにいわゆる市民的治安法―あるいは機能的治安法―とは,例えば軽犯罪法や道交法等,更には刑法典の住居侵入罪や逮捕・監禁罪,脅迫罪や暴行罪等々を典型として,政治的治安法のような―心情刑法と同様に行為以前の段階も含めて包括的に処罰対象とする―典型的な治安法とはその形式を異にする刑罰法令であろうとも,治安強化目的でこれらがとくに公安事例に適用される現実に着目する呼称である[14]

 そうした例は即座に想起されよう。公園内公衆トイレへの「反戦」落書きに対する建造物損壊罪(最判2006年1月17日刑集60巻1号29頁),反戦ビラのポスティングに対する住居侵入罪(立川自衛隊監視テント村事件 最判2008年4月11日刑集62巻5号1217頁),厚労省課長補佐による政党機関紙のポスティングに対する国公法(政治的行為の禁止)違反(国公世田谷事件 最判2012年12月7日刑集66巻12号1722頁)等々である。業務妨害罪についても同じく,上述の沖縄返還協定反対活動に対する東京地判1973年9月6日や,やはり上述の傍聴席から議場にスニーカーを投入れて特定秘密保護法に反対意思を示した東京地判2015年2月24日に加えて,都立高校卒業式に招待された元教師が週刊誌のコピーを配布して国歌斉唱の際に着席を呼びかけたうえ校長らによる退去強制に抗議した事案(最判2011年7月7日刑集65巻5号619頁)[15],名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前でコンクリートブロックを積上げる等により工事資材の搬入を阻止しようとした事案(最判2019年4月22日)[16]生コン運搬運転手の正社員化や運賃値上げを要求して出荷拠点の運送業者のセメント出荷阻止を共謀した事案(大阪地判2021年7月13日)[17]等がある。

 

4.刑法上の違法性とソフトな違法一元論

 氷山の一角のそのまた一角に過ぎないであろう以上の例は,市民的治安主義に基づく治安法的な刑罰法規の適用例であり,基本権行使という性質を有する行為の―本来行われるべき―違法性阻却について,もはや可罰的違法性の概念が機能し得ないという現実の証左ともいえようか。しかし,行為無価値を重視する規範違反説の社会的相当性―行為態様の社会的・歴史的通常性の有無と程度―による違法判断であれ,結果無価値を重視する法益侵害説の法益(の要保護性)衡量―侵害法益と同等あるいはそれを凌駕する法益保全の有無―による違法判断であれ,刑罰法規の適用に際しては,本来の可罰的違法性判断に求められるのと同様の慎重かつ抑制的な判断が求められる。

 判例が一般に,本来行われるべきこのような違法判断を事実認定に解消し,想定される他の要保護利益の侵害あるいはその危険と当該行為の―厳密かつ明白な―必要性・切迫性を比較衡量しつつ,他の要保護利益の侵害ないし危殆化の可能性を総動員して当該行為の違法性を判断する結果,違法阻却はきわめて「狭き門」となり,―再審請求について語られるところに倣えば―「針の穴に駱駝を通すより難しい」ものとなっていることは,既に見たとおりである。しかし,とくに基本権行使に対する刑罰法規適用の通例化ないし一般化が意味するのは,自由主義の後退ないし死滅に外ならず,そのような刑法と刑事司法の在り様は,前近代のあるいは権威主義国家のそれのルネサンスといわねばなるまい。

 上述の市民的治安主義による刑罰法規適用例においても,このような前近代のあるいは権威主義国家の刑法適用という色彩は隠せない。処罰対象たる犯罪の核芯を抗拒罪/抗命罪にみるという点である。前近代における刑法の中心課題は,地の平和という神の意志に対する否認・反抗の処罰であり,典型的には大逆罪や反逆罪のように,神によって処罰権/裁判権を委ねられたとする君主の権威に対する―いまだ行為に至らない(共謀罪のような!)潜在的な内心の意思も含めた―否認や抵抗の処罰であった。権威主義国家における刑法もまた同じく,典型的には心情刑法として猛威を揮った治安維持法のように[18],国家が後見し担保する現存価値秩序の―やはりいまだ潜在的な内心的意思も含めた―抵抗や否認の処罰を重要な使命としていた。苦くて重い歴史の教訓である。要するに,刑法(に基づく処罰)によって市民に対して現存価値秩序への同意を強制し,刑法(に基づく処罰)によって現存価値秩序を確証するという,いわば刑法の原初的暴力性に対する制約ないし抑制を欠く刑法/刑事司法は,前近代あるいは権威主義国家のそれであり,近代自由主義国家/社会にとって克服し訣別すべき悪弊/旧弊でしかない。近代自由主義国家は,個人の自由―及びその総和の最大化―を国制改革の第一原理とする啓蒙思想の影響の下に生成・発展したからである。

 マックス・ヴェーバーに言及するまでもなく,近代の特質を多元的な権力から一元的権力への移行に見出すなら,近代国家は―物理的な実力=暴力Gewalt =権力の排他的かつ独占的な所有主体/行使主体として―最も組織的かつ系統的に暴力=権力を所有し行使する主体として立ち現れる。近代刑法という理念型は,国家/権力による自由の抑圧・侵害という歴史の教訓に学んだ叡智の所産であり,強大な国家権力への徹底的な懐疑―絶対的な権力は絶対的に腐敗する―を出発点とする。かくして古典的な近代自由主義の理解によれば,刑法はウルティマラツィオであると観念され,自由主義国家の近代刑法の理念と―現実的で実践的な―目標は,積極的・包括的・優先的な社会防衛手段の投入/発動ではなく,国家が独占する強大な刑罰権から個人の自由を保護することに求められるのである。

 そうであればこそ近代自由主義国家は,刑法の謙抑性・断片性・補充性とその帰結である刑法の世俗化・合理化・人道(人間)化をたんなるモットーに止めることなく,実現すべき課題とせねばならない。その実践原理こそが近代刑法原理―罪刑法定の原則/行為原理・侵害原理/責任原理―である。上述の可罰的違法性の概念による違法阻却という思考も,刑罰法規適用の抑制という市民に対する自由保障の側面に着目すれば,―違法論の指導原理とされるべき―行為原理・侵害原理が有する自由保障機能を実質化し貫徹する試みであったといえよう。たしかに刑法の謙抑性・断片性・補充性という近代刑法の前提的な公理に従う限り,刑法上の違法性は―単に当該行為と結果が形式的に構成要件を充足するというだけでは足りずに―刑罰を科すに値するだけの質と量を保持するものでなければならない。刑法における違法評価/認定には,行政法や民事法といった他の法領域とは異なる質と量の認定が求められるということである。

 例えばソフトな違法一元論は,周知のとおり,法秩序は統一的であるがゆえに違法は相対的であるという。刑事法・行政法・民事法といった各法領域は,その自由侵害の程度と強制力に応じて統一的な階統構造をなし,自由侵害の程度と強制力に応じて各法領域に特有な違法性の質と量を有することから,違法の発現は各法領域によって異なることになる一方,違法阻却の基準は各法領域を通じて統一的に解され,自由侵害の程度と強制力のより微弱な法領域における違法性が認められない行為については,それがより強大な法領域における違法性もまた認められることはないとされる。いうまでもなく,刑法は強制的に自由や財産-ニホンのような死刑存置国においては場合によっては生命(!)―を強制的にはく奪する法領域であり,自由侵害の程度と強制力において刑法は法の最大限に位置する。つまり,刑法上の違法性は,他の法領域をなす行政法領域や民事法領域における違法に比してより強度な質と量を具備しなければならず,行政法領域や民事法領域において違法であるからといって,それが必ずしも刑法上の違法性を有するわけではなく,逆に,行政法領域や民事法領域において違法性が認められない行為については,常に刑法上の違法性も認めることはできないということである。それと同時に,刑事法は,いわば劇薬ともいうべき最も峻烈な実力装置であることから,その適用領域は法の最小限でなければならないということにもなる。

 このような違法性発現の個別性・相対性と違法阻却基準の統一性を求めるソフトな違法一元論に対して,周知のとおり,上述の久留米駅事件や全農林警職法事件における最高裁判決は消極姿勢を明らかにし,当該行為の違法性は「法秩序全体の見地」から当該行為が他の法領域において違法とされる事情も含めて評価されるとして,可罰的違法性の欠如による違法阻却という思考を事実上「死に体」として「お蔵入り」に追い込んだ。

 しかし,実務においてソフトな違法一元論が完全に排斥されているわけではない。例えば,検察官の絶対的裁量を許容するニホン型起訴便宜主義の是非は別論としても[19],検察官の起訴裁量にはソフトな違法一元論によらねば―政治的セレクションという以外に―説明が困難な例もある。記憶に新しいところでは,高級官僚が主導して公文書を書換えさせたという事案があった。学校法人への国有地売却をめぐって,首相夫人や政治家の氏名等の削除も含めて14文書で300カ所以上に及ぶ記録文書の「改ざん」について,財務省による調査では,当時の財務省理財局長Sが中心的な役割を担って近畿財務局職員らの抵抗を抑えて決済文書「改ざん」を強行し,「(改ざんの)方向性を決定付け」「(決裁文書を)国会答弁を踏まえた内容とするよう念押し」したとして,Sを停職3カ月の懲戒処分に付したのに対し,大阪地検特捜部はこれらの「改ざん」について,契約内容や金額といった決裁文書の「核心部分」には変更や虚偽記載がなく,この「改ざん」によっても決裁文書に新たな証明力が生じるような意味の変更は見出しがたいとして,告発された公用文書毀棄や虚偽公文書作成,更には背任等の各被疑事実についてSを不起訴とした[20]。上述の反戦落書きに対する建造物損壊や反戦ビラのポスティングに対する住居侵入,社会保険庁職員による休日の(しかも選挙期間外の!)政党機関紙の配布やポスティングを政治活動とする国公法違反等々,政治的セレクションとしか思えぬ検察による起訴事案を想起すれば,このような検察による処分の「手ぬるさ」と「手際良さ」に違和感を覚えざるを得ないという側面もある。多くの文書の多数箇所に及ぶ「改ざん」は各文書の意味の変更とは別に一連の文書全体の意味変更を生じさせるものであるから虚偽公文書作成罪,「改ざん」部分が文書の本質を変更するものではないとしても決裁者全員の同意を経ない削除や書換えは公用文書変造罪,その国会提出や会計検査院への提出等は同行使罪,財務省規則により1年未満の保管とされる交渉記録等についても,国会への提出を求められた時点でその存在が確認されていれば,保存期間超過後の隠匿・廃棄も公的に必要な書類のそれとして公用文書毀棄罪,更には現に存在する交渉記録を廃棄したとする国会におけるSの虚偽答弁は,議員の委員会質問や一般質問に困難を生じさせたものとして偽計業務妨害罪に該当する等々の指摘・批判のとおり,その当否は別としてもSの刑事責任を問うことは可能とも思えるからである。

 こうした検察官による起訴裁量が政治的セレクションによるものでないというのであれば,Sによる如上の行為は,懲戒対象となる行政法上の違法性が認められる行為であっても,刑法上の違法性が常に認められるわけではない―あるいは刑法上の違法性が認められるとしても起訴するに値しない程度の量に止まる―ということなのであろう。まさに―刑法上の違法は刑罰を科すに値する質と量を有するものでなければならないという―ソフトな違法一元論の思考―したがってまたそれを前提とする可罰的違法性の思考―を忠実に実践したものといえようか。

 

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(後半)

 5.過度に広汎な処罰の禁止と違法性判断

 結語

に続く

 

----- 脚注 ------ 

[1] 本件イベント開催に際しては,付近の歩道上でその開催に抗議して拡声器を用いてシュプレヒコールをあげる者もおり,検察官は論告において,被告人が本件イベント開催の事実に加えてこの抗議活動が行われることも事前に認識していたとして,被告人が本件イベントの開催自体を妨害しようとしたものであると示唆しているが,判決はそれを否定して,

  「なお,検察官は,被告人が本件イベントの開催自体を妨害しようと考えて本件行為に及んだ旨主張しているが,被告人が,本件行為に及んだ時刻が本件イベントの終了間際であったことや,被告人が本件イベントそのものを妨害するつもりはなく,オリンピック等の開催に抗議の意思を示そうとしていた旨供述していることからすると,被告人が本件イベントの開催自体を妨害する目的であったと認定するにはなお合理的疑いが残ることから,判示のとおり,東京オリンピックパラリンピックやそれに関連する聖火イベントの開催に抗議の意思を示そうと考えたものと認定した」

と判示している。本件イベント自体の催行に対する「妨害」とは認めがたくとも,その因果のエポクとしての運営業務の一部を阻害すれば業務妨害罪に該当するとして,本件のような表現活動にも刑罰適用を肯定するもので,この問題点には後に言及する。

[2] 判示は次のとおりである。

  「弁護人は,本件現場が喧噪のある市街地であって,静謐が求められる状況ではなく,本件当時,本件現場近くではオリンピックの開催に反対する抗議行動が行われていて警察官による警備も行われていたことからすれば,被告人が,単独で爆竹一束程度を人のいない体育館敷地内に投げ入れた行為をもって,『威力』に当たるとはいえない旨主張する。

   しかしながら,……(本件行為によってイベント会社社員の―引用者)……証人上野らが,更に激しい爆発が起こったり,複数人による同様の行為が行われたりするのではないかと考え,驚いたり,恐怖を感じたりすることは当然のことである。そして,証人上野らをして,そのような恐怖を感じさせ,更にこれを未然に防止する対応を取らざるを得ない状況を生じさせる程度のものである以上,本件行為は,被害者の自由意思を制圧する行為に該当するというべきであり,そのことは本件現場周辺で警察官による警備が行われていたとしても変わらない」

なお,威力業務妨害罪は可罰性の限界があいまいな犯罪類型であるとして,いわゆる「大阪駅事件」を中心に,対面での言葉による「威力」の行使の成否を検討するものとして,安達光治「業務妨害罪における威力の意義―人との対面での言葉によるものを中心に」立命館法学361号(2015年)132頁以下参照。

[3] 大塚仁『注解刑法[増補第2版]』(青林書院新社・1977年)1030頁。

[4] 大塚・前掲1028頁。本罪をこのように具体的危険犯と解するのは大塚の他に,藤木英雄『刑法講義各論』(弘文堂・1976年)251頁,佐伯千仭『刑法各論[新訂版]』(有信堂・1981年)136頁,団藤重光『刑法綱要各論[第3版]』(創文社・1990年)538頁,西原春夫『犯罪各論[訂補準備版]』(成文堂・1991年)285頁,福田平『全訂刑法各論[第3版増補版]』(有斐閣・2002年)201頁等があり,現実の結果発生を要する侵害犯と解するのは小野清一郎『新訂刑法講義各論[第3版]』(有斐閣・1950年)224頁,瀧川幸辰『刑法各論[増補版]』(世界思想社・1951年)100頁,中森喜彦『刑法各論[第2版]』(有斐閣・1996年)70頁,平野竜一『刑法概説』(東京大学出版会・1977年)188頁,斎藤信治『刑法各論』(有斐閣・2001年)83頁,曽根威彦『刑法各論[第4版]』(弘文堂・2008年)74頁,西田典之『刑法各論[第4版]』(弘文堂・2009年)121頁,大谷実『刑法講義各論[新版第3版]』(成文堂・2009年)142頁等がある。

[5] 業務従事者が認識していない例として,斎藤・前掲82頁は,店舗の前に物を一面に立てて並べた(東京高判1964年11月25日),捕獲されたイルカを解放した(長崎地佐世保支判1980年5月30日,静岡地沼津支判1981年3月12日),公害源の工場排水を生コンで封鎖した(高知地判1976年3月31日)等を挙げている。

[6] この点についてはさしあたり,大塚・前掲1031‐1032頁,大谷・前掲142頁等参照。なお大塚の指摘するとおり,判例は行為の態様により違法阻却の成否について積極と消極の相違がある。

[7] 市民社会の安全弁というのは,平野竜一『刑法総論Ⅱ』(有斐閣・1975年)278頁における「期待可能性」に関する叙述に着想を得たものである。

  「……期待可能性の理論は,刑法が結局において『法律家』のものではなく国民のものであるための安全弁として必要である。陪審制度のもとでは,陪審が無罪といってしまえばそれでおしまいであるから,ここで国民感情との調和がはかられる。しかし,陪審制のない,そしてドイツのように,責任阻却としての緊急避難や強制の規定をもっていないわが国では,超法規的な安全弁が必要である」

 ただし,可罰的違法性の欠如を―刑法35条によらない―「超法規的」違法阻却事由と解するか否かは検討を要する問題である。刑法35条「正当な業務による行為は罰しない」とは「正当な行為は違法性がない」ということであり,「正当な」とは「違法性がない」の謂であるから,字義通り解すれば35条はたんなるトートロジーでしかなくなる。35条は,「正当な―違法性のない―行為を罰してはならない」―違法性のない行為に刑罰法規を適用してはならない―という違法性に関する一般条項として,36‐37条の緊急行為以外にも違法性の実質を欠く行為があり,違法性を欠く行為に対して刑罰法規を適用することは許されないという―当然の事理を確認的に規定した―違法性の総則規定であると解される。したがって35条は,医師による治療行為や格闘技といった個別の違法阻却事例群のみならず,被害者の同意や可罰的違法性の欠如等々―従来は超法規的違法阻却と解されていたものも含めて―あらゆる刑法上の違法阻却の根拠規定だと解されるべきなのである。

[8] ビラ配布のため管理者の許可なく駅構内に立入り管理者の退去要求にもかかわらず退去しなかったという事案につき,住居侵入罪及び許可なく鉄道地内で物品の販売や配布,演説等を禁じる鉄道営業法35条違反を認めたもので,周知のとおり,「パブリック・フォーラム」論を展開する裁判官・伊藤正巳の補足意見が付されている。伊藤はビラ配布についてとくに重要な意見表明手段だとしながら,

「ビラ配布が言論出版という純粋の表現形態でなく,一定の行動を伴うものであるだけに,他の利益との較量の必要性は高いといえる。したがつて,……本件のような規制は,社会に対する明白かつ現在の危険がなければ許されないとすることは相当でない」

とし,その正当性判断―つまりは違法判断―は他の要保護利益との比較衡量によるべきであるとして,やはり違法判断を事実認定に収斂させてしまう。

  「……ビラ配布の規制については,その行為が主張や意見の有効な伝達手段であることからくる表現の自由の保障においてそれがもつ価値と,それを規制することによって確保できる他の利益とを具体的状況のもとで較量して,その許容性を判断すべきであり,形式的に刑罰法規に該当する行為というだけで,その規制を是認することは適当ではないと思われる。そして,この較量にあたっては,配布の場所の状況,規制の方法や態様,配布の態様,その意見の有効な伝達のための他の手段の存否など多くの事情が考慮されることとなろう」

[9] マジックホン事件判決における裁判官・大内恒夫の補足意見は,「電話料金がただになる機械」の設置が許されないことは一般人が容易に了解し得ることであり,妨害罪は「妨害結果を発生させるおそれのある行為」をもって成立するから,本件事案において当罰性が否定されることはないとして,この趣旨を明らかにしている。なお裁判官・谷口正孝は結果の軽微性とマジックホン製造・販売業者の責任追及のため捜査に協力した点等を考慮して,可罰的違法性を否定して違法性を阻却すべきだとする反対意見を述べている。

[10] マジックホン事件を詐欺罪ではなく偽計業務妨害罪で起訴したのも,絶対的軽微による違法阻却を回避するためだったのであろう。更にこの事件は,通話料金10円の免脱という不可罰的利益窃盗を偽計業務妨害罪によってカバーするという側面を有しているが,その点を重視すれば,業務妨害罪においても実際の被害額が問題とされるべきだという指摘がある。その点について京藤哲久「マジックホンの取り付け使用行為が有線電気通信妨害罪及び偽計業務妨害罪にあたるとされた事例(最決昭和59.4.27)」警察研究58巻2号(1987年)47頁以下参照。

[11] 官公労働者の争議あおり等の処罰規定に関して,都教組事件判決(最判1969年4月2日刑集23巻5号305頁)や東京中郵事件判決(最判1969年10月26日刑集20巻8号901頁)の判例―国公法違反事件としては都教組事件判決と同日の仙台全司法事件判決(最判1969年4月2日刑集23巻5号685頁)―を変更する全農林警職法事件判決が,法的論理というより,「判例変更が専ら最高裁判所裁判官人事を通じて数(または力)の論理のもとに遂行された」「クーデター的」なもので,いわゆる「司法の危機」に対する第5代最高裁長官・石田和外による青法協(ブルー)パージに典型的な人事政策の帰結であり,判例としての妥当性や正統性に疑義が存するという点について,小田中聰樹『治安政策と法の展開過程』(法律文化社・1982年)48‐49頁,宮本弘典「思想司法の系譜―ニホン刑事司法の古層2」同『刑罰権イデオロギーの位相と古層』(社会評論社・2020年)300‐302頁参照。

[12] 被告人が「一般傍聴人を装って衆議院本会議場に侵入し」たというのは奇妙で驚くべき判示というべきであろう。本件は控訴審(東京高判1975年3月25日刑裁月報7巻3号162頁)で有罪が確定した。なお第1審判決によると,弁護人による可罰的違法性の欠如による違法阻却の主張は以下のようなものであった。

  「……弁護人は,被告人らの本件各所為の目的は,国会審議の物理的妨害や議事を混乱に陥れることにあったのではなく,被告人らとしては,沖繩の歴史が徹底した差別と収奪のもとに貧困と屈辱を強いられて来た歴史であり,沖繩返還協定の隠された真の意図は,これを契機として沖繩を日本の国内植民地化しようとするものであるから,同協定は不当であるとの認識を抱き,これに反対する沖繩県民の意思を顧みようとしない日本国民に対する抗議の意思を表明し,心ある人々に対し被告人らとともに決起し右協定を粉砕するように呼びかけることが目的であったのであるから,被告人らの本件所為はその目的において正当というべきであり,これに用いた手段は,爆竹,横幕,ビラなど,すべて思想表現の手段として相当なものであり,傍聴人はもとより衛視に対してもなんら有形力は行使していない。また,その影響や結果をみても,被告人らの行為によって,総理大臣の所信表明演説が一時中断し,傍聴人が立ち上がり,議場の議員がふりむいたという程度にすぎず,却って被告人らは大声をあげたものの忽ち衛視に取押えられたのであって,その影響および結果は軽微である。しかも,沖繩のこれまで置かれて来た歴史的事情を無視し,沖繩県民の発言を一切封じ,将来においても封じようとしたことに対して,やむを得ずとられた行為であるから,被告人らの本件行為は可罰的違法性がないと主張する」

 ここで言及されているとおり,被告人は衛視によって抗議活動を阻止されると同時に,取り押さえられたうえ傍聴席から排除されており,たんに「その影響および被害は軽微である」というのみならず,その時点で行政法上の処分によって抗議活動を封殺され,国会を傍聴する権利をはく奪されるという不利益処分を受けている。そうした行政法上の処分に加えてなお刑罰を科すだけの違法性が認められるのかが問題だったといえよう。衛視による排除という処分については,特定秘密保護法制定に反対しその審議に抗議して,国会の議場へスニーカーを投入れた後述の東京地判2015年2月24日も同様である。

[13] 例えば,内田博文『日本刑法学のあゆみと課題』(日本評論社・2008年)5‐6頁は,政治的治安刑法の敗戦前後に共通する特徴について,

  「支配体制を維持しようという,優れて政治的な意図を持つものだという点が第一である。第二は,このような政治的な意図に照応して,『国家の敵』が国家の安全に何らかの侵害をもたらす前に,これを結社・宣伝・表現の罪などとして規制する政治的な予防主義を原則としているという点である。第三は,これらの罪においては,罪となる行為の記述は不確定な概念あるいは一般条項で行われており,思想の危険性が決定的な要素とされる結果,いわゆる心情刑法化しているという点である」

と指摘したうえ更に,

  「これらの動きを仮に政治的治安主義と名づけると,市民的安全の擁護という名の下に国家刑罰権を市民の日常生活の隅々にまで浸透させることを目的とし,市民的秩序の『実力的』貫徹をめざす動きを市民的治安主義と呼ぶことができる」

として,近時におけるその拡大が刑罰国家ともいうべき刑事法制と刑事司法の背景をなしているという。

[14] このように適用される刑罰法規について,例えば中山研一刑法総論』(成文堂・1982年)5頁,吉川経夫/小田中聰樹『治安と人権』(法律文化社・1974年)289頁以下は「機能的治安法」と呼んでいる。なお治安法に関する先行研究として,宮内裕『戦後治安立法の基本的性格』(有信堂・1960年),中山研一現代社会と治安法』(岩波書店・1970年)等参照。

[15] 被告人の行動が表現活動であってもやはり違法であるとする論理は,既に見たステロタイプによるもので,裁判官・宮川光治の補足意見も,

「例えば校門前の道路等で行われるのであれば,原則として,憲法21条1項により表現の自由として保障される」

として,被告人が校門前のような「パブリック・フォーラム」において同様の行為を行い得た―より穏やかな手段を選択し得た―のだから本件行為は違法だとしている。

[16] 被告人は沖縄平和運動センター元議長で,起訴罪名は,一連の反基地活動により威力業務妨害罪のみならず,傷害罪と公務執行妨害罪を含んでいた。被告人の身柄拘束は約150日に及び,ようやく保釈直前に20分の妻との面会許可を得た。なおこの事件の第1審における意見書を基に表現行為の刑事規制の憲法適否を検討する論攷として,高作正博「表現行為に対する刑事法の適用とその合憲性」関西大学法学論集67巻6号(2018年)41頁以下参照。

[17] 全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(いわゆる「関西生コン」)委員長に対する判決(懲役3年 執行猶予5年)で,起訴罪名は組合員らとの共謀による威力業務妨害に加えて(未遂を含む)恐喝も含まれ,求刑は懲役8年であったが恐喝については無罪とされた。逮捕以降の身柄拘束は640日に及ぶ。本件判決を含む一連の「関西生コン」事件は,2017年の運搬運転手の正社員化を求めるストライキに始まる活動を契機として,共謀も含めて逮捕者は延べ約80名に及び起訴された者も延べ60名を超え,複数回逮捕・勾留によって身柄拘束が1年を超える例もある。威力業務妨害罪を構成する罪となるべき事実が「ストの計画」とされるように,共謀罪適用のシミュレーションを兼ねたパイロット事例という側面を有し,また,「関西生コン」の―適法な―要求行動の捜査に対する使用者側の協力には,2018年6月に導入された「司法取引」の一面が存することも否定できない。以上についてはさしあたり,竹信三恵子「『関西生コン事件』と労働基本権の危機」IMADOR(国際人権NGO反差別国際運動)HP. https://imadr.net/books/200_3/

[18] 思想検察による「凡庸な悪」ともいうべき刑事司法の様相は,1937年に反ファシズム雑誌『世界文化』同人が治安維持法違反で相次いで逮捕され,長期にわたる身柄拘束下において繰返し暴虐かつ侮辱的な取調べを受けた久野収の述懐によっても窺われる。久野収「帝国憲法の教訓」(法学セミナー1957年3月号) 同『憲法の論理[増補新版]』(筑摩書房・1989年)41‐43頁によると,公判から思想犯保護観察に至る様子は以下のとおりであった。なお,宮本・前掲265頁,279‐280頁参照。

  「検事の論告と判事の判決とがともに法律論はほとんどなく,護教の精神にみちみちていたことです。検事は科こそ違いますが,同じ大学を同期ででた人物でしたが,被告のような悪質な犯罪者は,根性が根本からなおるまで刑務所に入れておくのが国家のためである。不幸にしてわが国にはナチの強制収容所のような制度がないし,初犯では刑はどうしても軽くなるのがまことに残念だ,といった趣旨のことをのべたてました。法律では主として具体的行動を罰するものだという学説を,われわれは大学で一緒に机を並べて,法律学の権威から教えられたはずなのに,この人物は意識だけをとりあげて,あたかも中世の異端審問官のような調子で攻撃しました。……検事は治安維持法の従来の例に従ってほとんど機械的に論告しているにすぎません。……だからこの検事は,おそらく現在『夜と霧』(みすず書房)をよんでも,……あまり恥じるところがないのではないかと思います。むしろ自分のことは忘れて,『夜と霧』の事実にいきどおりを感じてさえいるのではないでしょうか。……

   判事の方も,被告は国家に弓をひいた悪人だが,さいわい頭脳はなかなかよいのだから,心をいれかえて尽忠報国のまことをいたせば,悪を転じて善にすることができるであろう,といった護教的説教をのべ,……私自身の記憶では遂に判決理由書を被告によみきかせることなく閉廷したように思います。

   結果はいうまでもありません。……その後,職場を追われるだけではなく,敗戦後の10月4日,占領軍の思想犯釈放の指令の日まで,一週間に一度特高警官が,かろうじてえた職場を調査という名目の監視のためにたえずおとずれ,国の内外に大きな事件のおこるたびに“所感”という踏み絵を書かされ,まったく肩身をせまくしたまま,思想的には,ほとんど呼吸をころして,生きつづけなければならなかったとすれば,誰もがものをいわなくなるのは当然であります。……

   やがて自分が少数派,或いは異端とみられることへの恐怖から,インテリや学者は,最初は本心をかくして,大勢に身をまかせはじめ,後にはそれが惰性となって,どちらが大勢で,どちらが本心かわからなくなる気分が支配的となり,恥多き日々を送りつづけることになりました。それから生じる国民の損失は,おそらく計ることができないほどのものがあったと思います」

[19] ニホンの起訴便宜主義は検察官に絶対的な起訴裁量権限を認める比較法的にも稀有なもので,起訴するか否かは専ら検察官の判断に委ねられている。その判断の根拠は刑訴法第248条によれば,「犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情状」であるとされるが,司法研修所教官室編『検察講義案[改訂版]』(法曹会・2002年)102‐103頁によると「刑罰を科さなくても,社会秩序の維持を図ることができるかどうか」という法的根拠のない要素も考慮されるという。

[20] この不起訴処分について,「世間の耳目を集めていること,事案の特殊性などに鑑み,処分結果と理由の説明が必要」であるとして,2018年5月31日,大阪地検特捜部長・山本真千子が次席検事・畝本毅の同席のもとに異例の会見を行い,その冒頭で「今回の事案が社会的な批判の対象となっている」が「犯罪にあたるかどうかは慎重に考えざるを得ない」という「検察のスタンス」を述べ,Sの不起訴処分は「嫌疑なし」ではなく「『嫌疑不十分』という文字通り」の判断によるものだと述べた。財務省がSの主導的関与による「改ざん」を認めて懲戒処分に付したのは,刑事訴追の懸念を一まず解消する検察の判断を示すこの会見から旬日もおかぬ6月4日のことであった。なお,宮本弘典「司法をめぐる動き(38)森友文書『改竄』不起訴を考える―検察官司法の闇」法と民主主義529号(2018年)42頁以下参照。

 

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宮本 弘典(みやもと ひろのり)

主要著作

『警察監視国家と市民生活』(共著 白順社・1998年)

『治安国家拒否宣言 「共謀罪」がやってくる』(共著 晶文社・2005年)

『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房 朔・2009年)

『冤罪・福岡事件 届かなかった死刑囚の無実の叫び』(共著 現代人文社・2011年)

『転落自白 「日本型えん罪」はなぜうまれるのか』(共著 日本評論社・2012年)

『歴史に学ぶ刑事訴訟法』(共著 法律文化社・2013年)

『国家の論理といのちの倫理 現代社会の共同幻想と聖書の読み直し』(共著 新教出版社・2014年)

『近代刑法の現代的論点 足立昌勝先生古稀記念論文集』(共編著 社会評論社・2014年)

『刑罰権イデオロギーの位相と古層』(社会評論社・2020年)

など。