武蔵野五輪弾圧救援会

2021年7月16日に東京都武蔵野市で行なわれた五輪組織委員会主催の「聖火」セレモニーに抗議した黒岩さんが、『威力業務妨害』で不当逮捕・起訴され、139日も勾留された。2022年9月5日の東京地裁立川支部(裁判長・竹下雄)判決は、懲役1年、執行猶予3年、未決算入50日の重い判決を出した。即日控訴、私たちは無罪判決をめざして活動している。カンパ送先⇒郵便振替00150-8-66752(口座名:三多摩労働者法律センター)、 通信欄に「7・16救援カンパ」と明記

弁護団・控訴趣意書(中) 政府に忖度して五輪のデタラメを書かなかった薄っぺら判決

被告人黒岩大助 威力業務妨害被告事件 

東京高等裁判所あて控訴趣意書(2023年2月28日)

弁護人栗山れい子、同・山本志都、同・石井光太、同・吉田哲也 続き

弁護団・控訴趣意書(上)は→ https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2023/04/07/221351

弁護団・控訴趣意書(下)は→ https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2023/04/16/030030

判決文は → https://kyuenmusasino.hatenablog.com/entry/2022/09/25/215456

第4 被告人の行為に違法性は認められない

1 原審の判断

  原判決は、弁護人が「本件行為の目的や内容、表現行為としての性質からすれば、仮に業務妨害罪の構成要件に該当するとしても、正当行為(あるいは適用上違憲)として法律上保護の対象とすべきであるから違法性が阻却されるし、その法益侵害の程度からすれば可罰的違法性もない」と主張しているとして、構成要件該当性に続く第2の争点として、「本件公訴事実が違法性を有するといえるのか」という点を摘示する。そして、違法性阻却や可罰的違法性がないという弁護人の主張を斥け、被告人の行為の違法性を肯定するという「法律上の判断の誤り」を犯している。

その具体的内容は以下のとおりである。

⑴ 違法性阻却に関する原審の判断

  原判決は、まず、本件行為が表現行為であることは認めた上で、「Uらは本件イベントの参加者等の案内や誘導等を内容とする業務に従事」していたことを出発点とし、「これ【弁護人注:Uが従事していた業務をさす】が円滑に進行されることによって得られる利益は、Uらのみならず本件イベントの参加者等の関係者にとっても重要なものであって、本件業務も又法律上保護されるべきもの」であるとして、被告人の行為と対置させる。

  そして、原判決は、「憲法21条1項は、表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく、公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであり、たとえ思想を外部に発表するための手段であるとしても、その手段が他人の権利を不当に害するようなものは許されない」という規範を定立した上で、被告人の行為は表現行為の相当性を欠き、一方でこれを制限したことによる制約の程度は大きくないとする。すなわち、①被告人の行為は、「Uらをして被告人が生ぜしめた事態への対応を余儀なくさせ、本来予定していた被害会社の業務を直接又は間接に中断ないし変更させるものであり、かつ、Uらに相応の怪我を負わせる危険性を包含するものであることからすれば、その手段や方法は、表現行為としての相当性を欠いている」とし、②「本件業務の遂行が侵害された程度は小さいとはいえない一方、被告人が、自己の意見や抗議を表現する手段は、他の方法によって行うことも十分に可能であり、現に他の抗議活動は適法に行われていることも併せると、本件行為を制限することによる表現の自由の制約の程度が大きいとはいえない」とした。

  そして、「本件行為の制限は、表現の自由に対する必要かつ合理的な制限として憲法上是認されるものであって、本件行為の違法性は阻却されない」とする。

しかし、原審の判断は、被告人の行為の性質・憲法的価値の評価を誤り(以下「2 被告人の行為の性質」で詳述する)、対立する法益の評価を誤り(以下「3(1)対比させるべき法益」で詳述する)、憲法上の権利行使が制約されることが許される場合の判断基準を誤り(以下「3(2)権利行使の制限が許される場合の判断基準」で詳述する)、本件行為への具体的あてはめについて誤ったものであり(以下「3(3)合憲的限定解釈の必要性」及び「3(4)本件行為の正当行為該当性」で詳述する)、本件行為の違法性は阻却される。

⑵ 可罰的違法性に関する原審の判断

  さらに、原判決は、上述した本件行為の「認定や評価」をふまえた上で、「本件行為の手段や結果が、業務妨害罪の保護法益を侵害したと認められない程度に軽微であるとはおよそいえない」として、「本件行為の目的や表現の自由として保護されるという性質を総合的に考慮したとしても変わらない」と簡単に言及をした上で、弁護人の可罰的違法性の主張も一蹴する。

  しかし、この判断は、被告人の行為の性質・憲法的価値の評価を誤り(以下「2 被告人の行為の性質」で詳述する)、処罰に相当する行為に可罰的違法性が必要とされる根拠及びそこから導かれる判断要素の定立を誤り(以下「4(1)可罰的違法性論の必要性」で詳述する)、本件行為への具体的あてはめについて誤ったものであり(以下「4(2)本件行為にかかる可罰的違法性判断」で詳述する)、本件行為には可罰的違法性が認められない。

2 被告人の行為の性質

⑴ 被告人の行為の性質

 

ア 本件イベントの性質

  本件イベントは、聖火リレーの代替イベントとして行われた。聖火リレーを行って、公道をランナーが走り聖火をリレーでつないでいく様子を大衆に広報することによって、開催に向けた雰囲気を醸成していくはずだったのに、コロナ禍で実施できなくなった。しかし、大衆の盛上げをあきらめきれない大会組織委員会が、「苦渋の選択」として行うことにしたのが、本件イベントを含む、日本中の多くの都市で行われた「トーチキス」関連イベントだった。

  本件イベントは、「東京2020オリンピック聖火リレー」の一部として、実行委員会形式で行われた。

  すなわち、東京都内で、2021年7月9日をDay1として始まり、同月16日のDay8は、御蔵島青ヶ島八丈島、小笠原父島・母島での公道での聖火リレーを経て、同日午後、武蔵野陸上競技場を会場として実施された。その具体的内容は、調布市三鷹市武蔵野市の順番で、競技場内に設置されたステージ上でのトーチキスを行い、聖火皿への点火及びフォトセッションを行うというものであり、本件公道を走る予定だったランナー以外にランナーの関係者、本件イベントの周辺自治体、すなわち、調布市三鷹市及び武蔵野市の行政関係者などが、参加した(弁3②)。被告人は三鷹市内に居住しており、武蔵野総合競技場は居住圏内にある施設であった。

  つまり、本件イベントは、2020東京大会を盛り上げて祝祭気分を醸成するという目的を有する2020東京大会の前触れイベントであると同時に、被告人にとっては、自らの生活エリア内で行われた、2020東京大会に対する自分の意思表明を行うのに非常に適した場所であった。

イ 本件大会・本件イベントへの抗議の意味

  2020東京大会については、オリンピック・パラリンピックに共通して指摘されてきた構造的問題点だけでなく、東京大会特有の事情があり、多くの市民がその事情を根拠として、同大会の開催に反対の意思表示を続けてきた。

具体的に掲げれば以下のような事情であり、鵜飼証人、T証人及び被告人が原審の尋問で、それぞれ明らかにした。原審は、被告人の行為が「表現の自由の行使」であることは認めたが、政治的表現の行使であることを正面から評価せず、また、当時、2020東京大会の開催をめぐって、国内世論では、中止や開催に消極的な意見がむしろ多薄であったことについても触れていない。裁判所が判断を回避したことは不当であり、判断の前提となる事項について、地裁に引き続き指摘する。

(ア)「復興五輪」招致の欺瞞

  2011年3月に、東北地方を中心に未曾有の被害を巻き起こした東日本大震災原子力発電所の爆発は、2020東京大会招致・開催の政治的意味合いを複雑なものとした。

  2012年12月に政権に復帰した自民党の第二次安倍内閣は、2020東京大会の招致計画に本格化に関与することになった。そして、政府は、震災と福島第1原発事故によって引き起こされた危機的な社会状況を突破する目的で、五輪開催に戦略的な位置づけを与えた(鵜飼調書9~10頁)。地震津波による甚大な人命の喪失、生活基盤の無残な破壊に見舞われた被災地の現実、再臨界の回避と廃炉作業だけで数10年を要する原発の廃墟を前にすれば、被災者が真に望むかたちの復興作業のために、可能なかぎり多くの社会的リソースを集中して対処すべきであることに議論の余地はなかった。

  しかし、実際にはこの当然の意見は無視された。東京都と政府は、被災地の現実に配慮することもなく、「復興五輪」を旗印に掲げて招致運動を展開し、なりふりかまわぬ招へいに邁進した。特に安倍首相(当時)は東京招致が決定された2013年9月のブエノスアイレスにおける国際オリンピック委員会(IOC)総会で、「原発事故は完全に制御されている」という、当時の東京電力の幹部でさえ耳を疑ったという明らかな虚偽を公言した。この嘘は、後に露見する賄賂工作とともに、招致委員会が、五輪の開催権を手に入れるために、手段を選ばない活動を展開したことを如実に示すものであった(鵜飼調書10頁)。

(イ)予定されていた廃園と住民らの排除

  2006年、東京都(当時石原慎太郎知事)は2016年大会の開催都市に立候補していた。この時点の招致案では、国立競技場の存在する「神宮外苑地区」は、歴史的風致地区に指定され、厳しい建築制限があり、国有地、都有地、民有地が複雑に入り組んでいるので再開発が難しいとされ、メインスタジアムは晴海に建設することが想定されていた。  しかし、この招致活動は失敗に終わった。

  2005年に日本体育協会会長に就任し、2015年まで日本ラグビー協会会長でもあった森喜朗元首相は、「ワールドカップ開催の条件とされていた観客8万人収容可能なスタジアムの建設を、霞ヶ丘地区の国立競技場の建替えによって実現する」という提案を行うことで、東京都にオリンピック・パラリンピック開催への再立候補を働きかけた(なお、現在、この計画は神宮外苑地区全体の再開発をめぐる大規模な利権の発生と結びついていたことが判明している。長年にわたってさまざまな制限によって守られてきた神宮外苑地域の歴史的景観を作ってきた樹木1000本を切り倒すという、同地域の再開発が、2020東京大会閉会後、大きな問題となっている(以上鵜飼調書8~9頁))。

  つまり、2020東京大会は、立候補当初から霞ヶ丘地区の国立競技場の建替えとより大規模なスタジアムの建設が前提となっており(メガイベントを大義名分として、これまで実施困難だった大規模な再開発を行うことを最終的な目標として)、大規模集会やイベントを行える場所として市民に親しまれてきた都立明治公園(霞岳広場)の廃園、公園を生活の拠点としていた野宿生活者の排除、隣接する都営霞ヶ丘アパートの解体や住民に対する移住の強制は、東京都が2020東京大会開催に立候補した時点で織込み済みだったといえる。そして、これらの事情は、2020東京大会開催に反対する市民の中で、相当に広く共有されていた認識だった。

(ウ)コロナ蔓延による忌避

  2020年初頭から、新型コロナウイルスは、その正体が十分明らかにならないままに、多くの人々の生命と健康を犠牲にし、医療をはじめとする社会的な活動を破壊しながら、世界中に蔓延していった。

  全世界において人びとの活動が未知のウイルスに翻弄され抑制されている渦中の2020年3月16日、安倍首相は、出席したG7会議において、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として、完全な形でオリンピック・パラリンピックを開催する」と宣言し、あくまでも予定どおり開催すると国際的に公約した。この時期、安倍首相は、公明党代表に対して「とにかく聖火が日本に来ることが大事なので、それまでは、このスローガンを世界に発信して中止論を押さえ込む」と発言していた(鵜飼調書13~14頁)。まだウイルスの性質について解明が進んでおらず、もちろんワクチンも開発されていない、この時点で首相がこのように宣言したことは、東京を始めとする日本国内に住む市民や海外から東京に来訪する市民やアスリートの健康や生命よりも、メガイベントとしての2020東京大会の開催をあくまでも優先するとの政府の姿勢を示すもので、オリンピック・パラリンピックの意義については認めている人たちにも衝撃を与えた。

  その後、同月24日には、トーマス・バッハ国際オリンピック委員会会長と安倍首相との間で、2020東京大会の1年延期=2021実施が合意された(鵜飼調書13頁)。

  一方、日本国内での新型コロナウイルス感染拡大に伴い、2020年中には、2021年の東京大会開催を危惧する市民は、増加していった。「命や健康が重視されるべき」「世界から多数の人が集まることは危険ではないか」「コロナ禍で市民生活に深刻かつ回復困難な影響が生じている時に五輪どころではない」などといった意見などが、ネット上はもちろんのことメディアを通じても広がった(弁4)。

  そして、2021年4月25日、コロナ感染拡大にともない、東京都など10都道府県について第3回目の「緊急事態宣言」が発令された。この宣言以降は「緊急事態宣言で自粛せよと言われているんだから、よもやオリンピックは強行できないだろう」という声が、市民社会にも広がっていた(弁4)。

(エ)経済的な負の遺産

  当初、2020東京大会は「世界一スリムで低予算」と喧伝されたが、その約束はすぐに反故にされ、大会経費は当初予算の倍以上と言われている。また、今後の維持管理費も、新国立競技場は年間24億円、それ以外の東京アクアティックスセンター、カヌー・セラロームセンター、海の森水上競技場なども、それぞれ毎年億単位の費用がかかり続け、それらはすべて税金によって負担される。

  そして、そのことは現時点で明らかになったことではなく、2020東京大会が甚大な負の遺産を残すことは、開催前からさまざまな形で指摘されてきた。

(オ)スキャンダルにまみれた開催までの経緯

  2020東京大会は、大手メディアがすべてスポンサー企業に名を連ね、テレビでは国威発揚のための五輪宣伝が繰り返し行われた。それにもかかわらず、運営の混乱や隠蔽された違法行為の存在を窺わせるような事象についても、以下のとおり、多数報道されることとなった(弁4)。 

  最初の大会エンブレムは盗作であることが判明し廃案となった。新国立競技場建設に従事していた23歳の下請会社の現場監督がパワハラを告発する遺書を残して過労自殺した。そして招致活動において国際オリンピック委員会内で票を買ったという賄賂疑惑のため、2016年からフランスの司法当局の捜査対象となっていた竹田恆和日本オリンピック委員会会長は、五輪開催予定の前年に退任を余儀なくされた(鵜飼調書10頁)。そして、大会開催前の2021年6月7日には日本オリンピック委員会の会計担当の幹部が自死し、憶測をよぶことにもなった。

  2021年2月2日、森喜朗オリンピック・パラリンピック組織委員会会長は、「新型コロナがどんな形でも五輪は開催する」と発言したが、その翌日、「女性は競争意識が強い」「会議に時間がかかる」といった理由を挙げて、女性理事の増員に否定的な姿勢を示すなど、ジェンダー平等の規範を真っ向から否定するような発言を行った。この女性蔑視発言に対して国内外から強い批判が起こり、同月11日、森氏は辞任に追い込まれた(鵜飼調書14頁)。

  また、聖火リレー開始の1週間前には、オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出面の統括責任者である佐々木宏氏が、女性タレントの容姿を侮辱するような演出案を提案していたことが明らかになり、翌日辞任した。

  なお、東京大会終了後、贈収賄及び談合などで多数の逮捕者が出、ついには、招致・開催の実務を実質的に担ってきた電通博報堂東急エージェンシーを含む大手広告代理店も被告人として、独占禁止法違反で起訴される見通しと報じられており、2020東京大会は、まさに根幹から利権にまみれ、腐りきっていたことが明らかになりつつある。

(カ) 開催反対の声の全国的広がり

  2021年初頭には、オリンピック開催を中止ないし延期すべきであると考える人の割合はおよそ8割に達していたが、五輪開催に反対する世論は、上述した同年2月の森会長辞任の時期ころから大きく広がっていった。聖火リレーのランナーに予定されていた著名人の辞退が相次ぎ、同月17日には島根県知事が県内の聖火リレーの中止検討を発表、オリンピック自体も中止すべきであると発言した。

  同年4月25日の緊急事態宣言発令後は、医療従事者によるオリンピック中止要請がさまざまなかたちで発信されるようになったが、同年5月には来日したバッハ会長が「五輪開催のために誰もが犠牲を払うべき」と発言し、市民の大きな反発を招いた。さらに、同年6月2日、政府の感染症対策分科会の尾身茂会長は、衆議院厚労省委員会で東京2020大会について、「今のパンデミック状況でやるのは、普通はない」と述べたが、丸川珠代五輪担当大臣は、「大会中止を検討する意思はない」と言明した。

  一方、日本オリンピック委員会理事の山口香氏は、「国民の多くが疑義を感じているのに、国際オリンピック委員会も日本政府も大会組織委も声を聞く気がない。平和構築の基本は対話であり、それを拒否する五輪に意義はない」と述べ、東京2020はもはや「平和の祭典」とは言えないという認識を示した(5月19日)。同月下旬、信濃毎日新聞西日本新聞沖縄タイムス琉球新報などの地方紙が、また東京五輪のオフィシャルパートナーである朝日新聞も、「社説」で相次いでオリンピック・パラリンピックの中止を要請するに至った。また、元日弁連会長の宇都宮健児弁護士が呼びかけた中止を求めるオンライン署名には、5月14日に提出した第1次で35万筆、7月15日に提出した第2次で45万筆を超える署名が集まったと報じられており、きわめて広範な人たちが積極的に反対の意思表示を行った。世論調査によっても、2020年初頭から本件行為の当時まで、むしろ過半の人が開催に反対・慎重な意見を有していたことがみてとれる。(本項全体、弁4)。

  以上のような状況からは、2020東京大会開催に反対ないし消極的な市民の声(当時はむしろ多数をしめていた)は、政府や東京都に全く顧みられることがなかったことが明らかになる。当時、2020東京大会に抗議する意思表示を行うことは、「むしろ、巨大な資力と政治力をふりかざしながら、さまざまな不正あるいは非合法な手段をもって暴走する列車を懸命に停めようとする、多数の人々を代表しておこなわれた勇気ある行動」と評価されうる(酒井意見書10頁)。

  被告人が本件行為にふみきった時点で、指摘したような状況があったことは、違法性判断の前提として考慮されなければならないが、原判決は全くそのような事情について触れていない。

ウ 意思表明の場の不存在

 

(ア) メガイベントへの反対の意思表示

  オリンピックなどのスポーツの国際的メガイベントが、貧富の格差を広げていく世界において、現地の住民に何の利益ももたらさないばかりか、それによる開発や財政負担、腐敗によって、人びとに不利益を与えることが自覚されるようになると、メガイベントの開催は現地住民の強い反対に遭遇することが増えてきた。2010ヴァンクーバー冬期五輪は、開催期間中、スポンサー企業の支店の破壊など市内で多様な抗議活動が行われた。

  日本においても、海外での抗議行動ほど目立つものでないにせよ、中止すべきという意見は市民の過半に広がるまでになり、忌避の意思や感覚は共有されていた。

  被告人をはじめとして、2020東京大会反対のために立ち上がった国内の市民は、世界の民衆との感覚と乖離し、不正にまみれたイベントに唯々諾々と従うばかりでない人が日本社会にも存在することを示したといえる(酒井意見書7~9頁)。

(イ)   きわめて限定された反対意見を表明する場

  オリンピック招致については、住民投票が必須とされておらず(もちろん住民投票が行えないわけではなく、そのような機会が保障されることがめざされるべきではある)、一般に市民は、議員や首長の選挙を通じて間接的に意思表示をするしかない。また、いったん招致が決定されてしまうと、開催までの間にどのような事態が発生したとしても、IOCと開催都市との「契約」が優先され、開催を止める方法が予定されていない(2020東京大会においてもそのような説明がされ、「莫大な違約金を負担しなければならなくなる」などとの言説が広がっていた)。

  実際に、2020東京大会では、東京都民や新国立競技場周辺や各地のスタジアム周辺の地域住民は1回も直接的な意思表示を行っておらず、招致がもくろまれた後に、震災(2011年3月)、コロナウイルス感染拡大(2020年初頭から)というような、社会全体を震撼させるような事態が発生しているにもかかわらず、開催を見直す機会は与えられなかった。

  さまざまな反対意見が表明される中、それを無視して、真摯な見直しもないまま2020東京大会の実施に向けて舵が切られ、本件イベントが開催されるに至ったのであり、この時点で、市民が、大会開催に反対の意思を表明するためには、公開された場所でのイベントなどに向けて直接的に抗議行動や働きかけの行動を行うしか、方法は残されていなかった。

  そして、本件現場は、武蔵野陸上競技場に隣接する武蔵野総合体育館の敷地に接する西側の歩道上であり、開放された空間である。同所は、市役所を始め公共施設複数が近接して所在している地域にあるため、歩道に接する車道はかなり交通量が多いが、歩道と車道とは区分され、広い歩道スペースが確保されており、エリア一帯が公共的空間として機能しており、人が滞留しても全く危険性がないような場所である(武蔵野陸上競技場や武蔵野総合体育館で多数人を集めたイベントが行われることが想定されているためか、体育館前は、ある程度人が密集したり、滞留したりしても危険ではないように道路や施設が設計されている)。

  実際に被告人が本件所為を行った時点では、本件イベントに反対する市民らが、プラカードやバーナーを所持して通行人やイベント参加者に示したり、拡声器を用いて話をしたりする態様で、抗議行動がまさに行われていた。

  このような場所は、さまざまな意見が披露され交換される可能性のある公共的空間としての性質を有する。そして、被告人にとっては、前述したようにいわば「地元」であり、地域で2020東京大会に対する抗議の意思表示を行うには絶好の場所だった。

⑵ 被告人の尊厳と密接な関連を有する本件行為

 

ア 被告人のこれまでの活動

  被告人は、人生を通じて、「野宿者と共に生きる」活動に精力を傾けてきた。

  特に、1998年からは、「渋谷・野宿者の生活と生存を勝ち取る自由連合」(のじれん)という団体を立ち上げ、渋谷地域で、共同炊事、夜回りによる生活状況の確認や応相談、生活保護申請同行などの活動に従事してきた(被告人調書5~6頁)。その活動の根幹には、支援者・野宿者という区分ではなく、共同で支え合うと言う理念があり、「命と健康を守る安否確認と共に、やはりいろいろなところで追い出しの動きや排除の動きが強まると共に、私たちが支援としてそのまま行動に移すというふうなところではなく、その野宿者と共に、この追い出しや排除に抵抗すると、それを止めていくというふうな運動を、運動というか活動をしていました」(被告人調書7頁)。

  そして、「2020東京大会開催のため」と標榜して行われた新国立競技場の建設では、都立明治公園内「四季の庭」で長年にわたって起居してきた野宿生活者が、問答無用の断行の仮処分の手続を利用して追出しが強行された(同所は、水場があり、緑があって人目につきにくく、定住的に居住する野宿者が、最大で40名ほど起居している場所だった)。都営霞ヶ丘アパートも取り壊され、暮らしてきた高齢の住民のコミュニティが破壊された。

  被告人は、「そこに居住している、あるいはその施設の建設に、立地に住む野宿者が排除されることが、その【弁護人注:2020東京大会反対運動を行うようになった】主な理由です」(被告人調書5頁)と述べ、緑があってテントを張りやすく定住する者も多かった、野宿生活者が、新国立競技場の新設工事により追い出されることをどうにかしたい、という気持ちから反対運動に参加したことを明らかにしている(被告人調書7~8頁)。

  メガイベントにおける都市の「浄化」や困窮者の追い出しは、世界各国で行われている。2020東京大会でも、野宿生活者たちが、「断行の仮処分」という手法によって、1回の審尋期日を経ただけで理由も示さないままの仮処分決定が発出され(野宿生活者に対して仮処分命令によって排除が行われたのは全国で初めてのことであった)、「大量の警備員や警察官が動員されて、中にいる人たちを、その持ち上げたりしまして、あるいは、こう、荷物を外に持ち出して、強引に持ち出したりするようなこと」をするというような手法で追い出されたが、被告人はこのような排除を実際に経験し、野宿生活者のコミュティが破壊されるのを目の当たりにしていた(被告人調書7~8頁)。

  つまり、被告人にとって、2020東京大会に反対の意思表示をすることは、自分自身がずっと行ってきた活動からそのまま派生する、いわばアイデンティティから切り離すことのできないような自己の尊厳に関わるような思想の表出でもあった。

イ 現実に被告人が参加した活動

  被告人は、2021年6月6日に行われた、2020東京大会に反対する意思表示をするために、吉祥寺で行われたデモのための公道利用を申請し、自身もこのデモ行進に参加している(被告人調書1頁、11頁、15頁)が、被告人が反対運動に参加するようになったのは、招致決定前からである。特に、2013年、東京での開催が決定された後に行われた調査団の調査に際して、代々木公園に近接する道路の歩道にある野宿者のテントや荷物が排除され、一時的に移動されて、何もなかったかのようにされたことについて、調査団に対する抗議行動を行った(被告人調書1、10頁)。

  被告人の本件行為は、そのような反五輪の活動の一環として行われたものである。

⑶ 表現の自由の行使としての側面

 

ア 「象徴的言論」とは

  象徴的言論(シンボリック・スピーチ)とは、特定の信念を伝えるための行動の形をとる非言語的コミュニケーションの一種とされ、あるメッセージを、見る人に、それと分かる形で伝える行動をさす。具体的には、バリケードを設置する、旗やバーナーをふる、旗や絵や物(たとえば徴兵カードや政府の指導者を模した人形)を焼く、裸になるなどが典型的なものとされる。

  最高裁は、猿払事件で、意見表明そのものの制約と、その行動のもたらす弊害の防止を狙いとする制約を区別して論じ、言論と行動を二分して規制を区別する考え方を前提としているようにもみえる。

  しかし、言葉や文字といった純粋な言論に基づく伝達手段のみならず、外形的な行動を伴うことによって、より端的に効果的に第三者にアピールできるということがあり(そのこと自体は誰も否定できまい)、表現行為も第三者に伝えることが目的である以上、何らかの行動が伴うことはむしろ当然のことであり、「行動を処罰しても意見表明そのものは傷つけられない」という言い方は、単純な二元論から導かれた表現内容中立規制があり得ることを前提として、多様化し続ける表現手段を単純に分類し処罰の対象とすることになり、結局表現の抑圧につながることが強く危惧される。

  象徴的言論が、上述したとおり、思想の伝達を目的とした言論によらない態度によって、何らかの思想や見解を表明するものであるとすれば、そこで用いられる象徴とその象徴が用いられた文脈(コンテクスト)から、表現者が表明しようとした主張や見解の内容が明らかになれば、思想を伝達しコミュニケーションする効果を生じるものであって、言語記号と同列に位置付けることのできる言論機能を有する象徴といってよい。

  裁判所が、言葉以外の態度に思想伝達機能が備わっていると認めるかどうかについては、その表現者の態度に何らかのメッセージを伝えようとする意図が存在し、周囲の状況においても、それを受け取った者たちによって、そのように理解される蓋然性が高ければ、言語の使用がなかったとしてもそれは「表現」として保護されるべきである。

イ 爆竹を利用した「表現」

  本件行為は、上述したような位置付けがなされている本件イベントの開催にあわせて、被告人自身が同イベントに抗議する意思を有し、そのことを周囲にアピールする目的をもって、開催場所に近接する出入り口付近で、爆竹を鳴らすなどしたものであるから、一般人がみれば、これが2020東京大会に反対するというメッセージを現場で表現したものであることは、一見して明白であり、当然に「象徴的言論」にあたるといえる。

  鵜飼証人は、「私は、今回のオリンピックは、先ほども述べましたように、社会的な弱者、それから災害の被害者を棄民化する、非常に暴力的な性格を持っていたと思います。黒岩さんは、まず、長年、東京の野宿者の支援に関わってこられて、その視点から、今回のオリンピックがどのように招致が決定され、どのように開会準備がされてきたのか、つぶさに御覧になってこられたと思います。しかも、それは、8年間と、非常に長い時間なわけですね。そして更に、そこにコロナという事態になり、これでもオリンピックは中止にならないと。そして、多くの人が自宅で亡くなっていくような惨禍が起きている中で、どうしてオリンピックを祝うことができるのかという、非常に深い憤りをもたれていたのではないかと思います」と、本件所為の「象徴的言論」としての性質をとらえている(鵜飼調書18頁)。

  また、門前に立って、被告人とは別途に抗議行動を行っていたT証人も、「東京オリパラを強行をしなければ失われなかった命というのがあると思っていて、コロナ感染患者に対しての医療がもうちょっと、東京オリパラをやらずにそちらのほうに注力できれば、死ななかった人がいると私は思っていて、それに比べて、黒岩さんは人を傷つけていないし、というふうに思います。当時、あの当時はほんとに8割の人が東京オリパラに反対しているとも言われていて、言われていても、やっぱり声を上げると言うことは難しかったし、声を上げても聞こえないふりをされていたということがあって、そういうときに爆竹の音というのは、私にとっては、そういう閉じ込められた声を解放する感じの音でもあった、そういう表現だと私は受け止めています」と述べており、閉塞状況のもと、被告人の届けようとしたメッセージは、被告人の意図したとおり、周囲に広がり、きっちりと受け取られたといってよい。

ウ 表現手段の多様性と選択の自由

  大衆が利用できる表現の方法(手段)としては、ネットへの投稿、集会や公道での発言や演説、ビラ配布・投函などがありうるが、それぞれにその伝播の範囲などに特徴がある。

  本件所為のようないわば大衆的示威行為ともいうべき「象徴的言論」には独自の意義があり、一方で、一定の場所の占有や第三者との接触を伴うことから、恣意的な公権力の規制を受けやすいという性格を有する。

  しかし、公権力が、「別な方法もある」ことを理由にして、表現方法を制約することは許されない。たとえば、「ビラまきが認められているのだからデモ行進を禁止してもいい」とか「街頭演説が認められているのだからビラまきを禁止してもいい」ということが不当であることは明らかだ。ある表現者にとって、その手段が特別な意味を有するものであるとすれば、その表現者にとってその表現方法をとること自体が表現の自由の内容である。表現内容は、その性質上、表現方法(表現の手段やそれを行う場所)や受け手によって規定されるものだからである。

  そして、表現者は自分の伝えたいメッセージの宛先・内容にとって、もっともふさわしく表現しやすいと判断する表現方法を選択することができる。

また、表現の自由の保障の機能として自己実現の契機を重視する立場にたてば、自己が伝えたいと望む情報を自己が望むような形で相手にメッセージとして手渡すこと自体が保護されるべきである。

  2020東京大会に対する抗議活動においては、警察官らによる厳重な警備が行われることで、イベントに対する抗議行動や街頭宣伝が制約され、警察官らが抗議行動参加者に対して手を出して傷害を負わせるという事態まで生じていた(T調書4~5頁)。言論に基づいた行動が自由に行われるような状況にはなかったのが現実である。

そうであるから、手段の選択の幅は広く認められなければ、表現の自由が実質的に保障された状態にあるとはいえない。

エ 「市民的抵抗」としての性質

  市民的抵抗とは、「動的な紛争の方法であり、非武装の人々が、調整されたさまざまな方法(ストライキ、抗議行動、デモ、ボイコット、その他多くの戦術)を用いて、相手に直接に危害をくわえたり脅迫したりすることなく、変化を促すことを目的とするもの」であるという(酒井意見書2頁)。そして、マハトマ・ガンディーの塩の行進、イギリスの女性参政権運動における投石、ハンガーストライキ、爆弾、放火、自殺、絵画の破損などの行為、川崎造船所サボタージュアメリカの公民権運動におけるモンゴメリーのバス・ボイコット、気候正義運動における絵画へのアピールなどがあげられる(同4~7頁)。

  被告人の行為も、象徴的言論であると同時に、上述したような前提的な事実関係が存在する中で、2020東京大会の開催に抵抗する意思を表明するものとして、「市民的抵抗」の一つであるといえる(ただし、本件行為は、前記典型例と異なり、器物にすら何らダメージを与えていないことは注目されるべきである)。

  原判決は、「自己の意見や抗議を表現する手段は、他の方法によっても行うことも十分に可能」と言い、要するに、被告人の行為について「爆竹を投げなくても抗議することはできたんだから、爆竹を投げるのはあきらめて。投げたら有罪」と安易に断罪しているようにみえる。

  しかし、「政府がデモ参加者に対して、受動的で破壊的でない許容可能な方法を指示することには、まさにそのようなやりかたには効果がないことが実証されているだけに、本質的な矛盾がある・・・わたしたちは、具体的な変化をもたらすためには、秩序攪乱と抗議とは手を取り合っておこなわれると認める必要がある。『抗議する権利』は認めながら、抗議が波風を立てることがないよう指示するといった態度は現実的ではない」(ルーク・マクマナラ 酒井意見書11頁)ということが、その本質であり、上述した指摘はまさに被告人の認識とも一致する。

  公民権運動を担ったマーティン・ルーサー・キングは、「バーミングハム刑務所からの手紙」という市民的抵抗の基礎文献ともなっている公開書簡(1963年)において、「制度という経路を通してなぜ要求しないのか」という批判に対して、「なぜ、直接行動なのか?なぜ、座り込みやデモ行進などなのか? 交渉の方がいいのではと、あなた方が問われるのはもっともです。実に、これこそが直接行動の目的なのです。非暴力直接行動は、つねに交渉を拒否してきたコミュニティがその問題に直面せざるをえないような危機をつくりだし、その緊張感を創出することをめざしているのです。問題を劇的に変化させ、無視できなくさせるのです。非暴力抵抗者としてのわたしが緊張の創出をあげたことは、かなりショッキングに聞こえるかもしれません。しかし、わたしは『緊張』という言葉を恐れているわけではないことを告白しておかねばなりません。わたしは暴力的な緊張に真剣に反対してきましたが、建設的で非暴力的な緊張というものがあると考えています。それは成長のために必要なものなのです」と応じた(酒井意見書12頁)。

  我々がいま享受している権利や自由のほとんどは、政治的・経済的に力をもった人びとから、そしてそこで設定されたルールからはみだすことをおそれず、『秩序攪乱』とみられるような行動によって主張し行動してきた人たちによって獲得されてきたものであることは間違いない。

  被告人が抗議をした2020東京大会についてみれば、開催を強行する側に、大きな不正や混乱があり、虚偽の言説の流布と欺罔があり、他方、それに対して多数の人びとが反対の意思を有していても、制度上の規則を遵守するだけでは、なにも動かず、事態をなにも変容させることができなかった。ここに、民主主義に反する事態が生起していたことは間違いない。

  だからこそ民主主義は「制度的回路をそもそもつくりだす、こうした市民的抵抗が核心をなしている」といえ(酒井意見書12頁)、そこからは「市民的抵抗は成熟した民主主義の重要な構成要素である」(ユルゲン・ハーバマス 2022年)という命題が導かれる(酒井意見書13頁)。

  とすれば、被告人の行った市民的抵抗は、市民が自らの権利や意思を表明し、民主主義過程の中でも重要な「権利のための闘争」であるといえる。憲法第12条が「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と述べていることに示されているように、権利及び自由は、憲法典に書き込まれることによって自動的に獲得できるものではない。憲法自らが「権利のための闘争の義務」を市民に課しており、被告人はその義務を履行したと評価できるのである。

⑷ 請願権の行使としての側面

 

ア 「請願」としての意思表明

  上述したとおり、オリンピックの招致・開催の決定においては、そもそも、住民が直接意思表示を行う民主主義的過程が予定されていない。そして、実際の招致・開催の過程では、実務を担う者が虚偽の言説を行ったり、贈収賄や談合などの違法行為を繰り返したりすることで、事実や合理的な根拠に基づく議論が妨げられてきたことが、現に明らかになっている。さらに、被告人が支援活動に従事してきた野宿者については選挙権の行使の機会すら奪われてきた。

  議会における代表を選出する選挙は民主主義の根幹であるが、選挙権を有しない者や選挙権を行使しえない者であっても、日本国の統治下にある限り請願権を有する。つまり、請願権は、主権者国民が全土にわたってすべての人の自由・人権を保障するために行動する手段として、国会の機能を支える役割を有している。

  被告人の行為は、前述したとおり、政治的表現であると同時に、2020東京大会の開催を中止すべきであるという抗議の意思を、開催のための準備行為をになっている者たちに伝え、議論することを求める「請願」としての性質を有し、憲法16条で保障されている請願権の行使とみることができる。

イ 許容される請願の方法

  請願は「平穏」に行われるべきとされている。

  しかし、たとえば、「大衆的なデモ行進を背景とする請願」も平穏なものとされているように、この判断には一定の幅があり、相対的な判断が許容されている。これは、請願が一種のコミュニケーションであるところから当然に認められる性質といえる。

  憲法16条は「何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」と定め、請願権を手厚く保護する。この趣旨は、請願権が参政権的意義を有しているだけではなく、外国人も含め、日本国の統治下にあるすべての人びとの自由に関わるからである。統治に一方的に服従し、統治者に対して一切意見を述べることも聞いてもらうこともできないというのは、統治者に隷属した奴隷的状態といえ、そのような立場に何人もおかないという必要があることからすれば、許容される「平穏」は相当に広汎なものになるべきである。

  さらに、主観的には必要やむをえない手段であると思っていた場合であっても、客観的には「平穏」と評価できないような場合であっても、「いかなる差別待遇も受けない」と強く請願権を保護している趣旨からすれば、その程度に応じて違法性判断に影響があるとみるべきである(笹沼意見書8~9頁)。

竹下雄裁判長、これが現実だ