武蔵野五輪弾圧救援会

2021年7月16日に東京都武蔵野市で行なわれた五輪組織委員会主催の「聖火」セレモニーに抗議した黒岩さんが、『威力業務妨害』で不当逮捕・起訴され、139日も勾留された。2022年9月5日の東京地裁立川支部(裁判長・竹下雄)判決は、懲役1年、執行猶予3年、未決算入50日の重い判決を出した。即日控訴、私たちは無罪判決をめざして活動している。カンパ送先⇒郵便振替00150-8-66752(口座名:三多摩労働者法律センター)、 通信欄に「7・16救援カンパ」と明記

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(後半) ーいわゆる「武蔵野爆竹事件」における威力業務妨害罪の成否をめぐって…宮本弘典氏意見書

宮本弘典(関東学院大学教員、刑法・刑法史)

過度に広汎な処罰の禁止と刑法上の違法性(前半)は「1.第1審判示と認定事実 2.威力業務妨害罪成立の無限定性 3,業務妨害罪と可罰的違法性 4.刑法上の違法性とソフトな違法一元論」は→

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5.過度に広汎な刑事規制の禁止と違法性判断

 以上のとおり,実務においてもソフトな違法一元論を前提とする可罰的違法性の思考は実践されている。注意すべきは,ソフトな違法一元論であれ可罰的違法性の概念であれ,その自由保障機能は,いずれも行為原理/侵害原理を指導原理とする違法性という犯罪論カテゴリー内部の理論的問題に止まらず,罪刑法定の原則と連結していることである[1]

 具体的には,実体的デュー・プロセスの要請という,罪刑法定の原則の実質的人権保障原理としての側面が問題となる。たしかに,罪刑法定の原則は「法律なくば犯罪なく,刑罰なし―nullum crimen, nulla poena sine lege」という形式的側面を歴史的沿革とし,行政権と司法権に対する拘束原理として生成した。しかし,形式的合法性を充足する「法律」が市民の日常的な自由―「普通の人たちの普段の生活」[2]―を根こそぎ奪い去ったという事実は,20世紀前半期のファシズム支配の歴史に明らかなとおりであろう。いまや,自由保障原理としての罪刑法定の原則は,行政権と司法権のみならず立法権をも拘束し,刑罰法規は形式的な合法性に加えて実質的な合法性をも持たねばならず,明確な刑罰法規及び適正内容を有する刑罰法規の立法の要請―明確性の原則及び刑罰法規適正の原則―を含むものと解されている。憲法31条の「法律」とは「適正な法律」―明確性の原則及び刑罰法規適正の原則を充たす法律―を意味し,適正ならざる法律(の立法及び適用)は,憲法81条による違憲審査権により,憲法31条違反として違憲・無効とされる。このように解するならば,罪刑法定の原則は―社会防衛刑法として誕生した現行刑法典は罪刑法定の原則の規定を有しないものの―憲法31条にその基礎を見出すことになる。憲法31条により,立法権力には―罪刑法定の原則の要請として―厳密かつ明白に必要な,つまりは明確で適正内容を有する刑罰法規の立法のみが許容され[3],このような厳格な合理性―必要性と相当性―を充足しない刑罰法規は,すべて憲法31条に違反し無効とされる―べきである―ということである。留意すべきは,例えば表現の自由や思想・信条の自由,あるいは平等条項といった個々の基本権条項に違反するとは認められない場合でも,当該刑罰法規(の適用)の厳密かつ明白な必要性が認められない場合には,憲法31条により,その刑罰法規(の適用)は違憲無効だとされることであろう。

 このように,実体的デュー・プロセスの思考によれば,罪刑法定の原則は法律による事前告知という形式原理に止まらず,憲法的な要請による実質的な人権保障原理だと解されねばならないことになる。現に,小野清一郎―刑法による国家道義の実現・貫徹を主張し,権威主義国家としての高度国防国家の戦時刑事司法イデオロギーの形成に尽力した日本法理研究会においても指導的地位を占め,敗戦後の公職追放にもかかわらず刑事判例研究会を主宰し,更には法務省顧問として改正刑法準備会・法制審刑事法特別部会を主導する等,一貫して影響力を保持した―が[4],敗戦後に罪刑法定の原則について,

  「……戦前・戦後を通じて,罪刑法定主義そのものは未だかつて争われたことはない。……戦前の厳しい統制時代においても,学説は勿論,実務上においても,未だかつて罪刑法定主義が否定されたことはない」[5]

と断じたのに対し,やはり小野の主導的影響下にあった改正刑法草案に反対し,常に民主主義刑法学を擁護した吉川経夫は,

  「もちろん,罪刑法定主義をもっていかなる内容のものと解するかによるけれども,わたくしはこのように確信的な断定には疑問を禁ずることができない。むしろ,わが国においては,その資本主義発展の特殊性を反映して,真の意味での基本的人権保障の原理としての罪刑法定主義は,未だかつて確立されたことがなかったというべきなのではなかろうか」[6]

と反論し,「真の意味での基本的人権保障原理としての罪刑法定主義」の確立が不可欠だとして,実体的デュー・プロセスの思考に触れつつ憲法による罪刑法定の原則の再定位を確認している[7]。同様のベクトルは,罪刑法定の原則を「実質的人権保障の原理」とする内藤謙による次のような理解にも見出すことができる。

  「(自由主義国民主権主義/代表制民主主義という―引用者)三者による根拠づけのいずれについても問題として残るのは,それだけでは,罪刑法定主義が議会の制定した『法律』の内容を法制度上は問いえず,立法権を内容的に拘束しえない形式原理にとどまるという点である。むしろ右の三つの原理には,その根底に,人間がただ人間であるということに基づいて当然に有する権利と自由,すなわち,個人の尊厳によって基礎づけられる権利と自由(その意味での『人権』)を国家刑罰権の恣意的行使から実質的に保障するという意味での『実質的人権保障の原理』が存在していると理解すべきであろう。国家刑罰権に階層性の側面が事実として存在していることからみれば,また,代表による国民の合意にも擬制の要素が事実として存在することを否定しえないことからみれば,罪刑法定主義には,国家刑罰権の実現過程で,そのような側面や要素を払拭するという課題にこたえるための原理であるという要素が内在していると解すべきであろう。そのことは,罪刑法定主義に,少数者ないし弱者の保護のための原理としての要素が内在すると解することに連なっている」[8]

 このような意味での「実質的人権保障原理」として働く(べき)ものとして,罪刑法定の原則は,刑法の謙抑性・断片性・補充性という自由主義国家の基本前提をなす公理の実践原理として,刑罰法規の創設・解釈・適用の全ての次元において,人間の尊厳を基調とする民主主義社会における自由・自律を保障するものでなければならない。上述のとおり,憲法31条が立法権力に対して刑罰法規創設の厳格な合理性―必要性と相当性―を要求し,実体的デュー・プロセスの要請である「明確性の原則」と「刑罰法規適正の原則」の充足を要求するのもこの理由による。しかし判例は残念な状況にある。明確性の原則にせよ刑罰法規適正の原則にせよ,最高裁において,これらに違反するがゆえに憲法31条に反し違憲無効であるとされた例はいまだ皆無だからである。

 ところで,刑法の謙抑性・断片性・補充性は,近代自由主義国家における近代刑法の不可欠な前提をなす公理であり,上述のとおり,刑罰法規の創設・解釈・適用のいずれの段階においても妥当すべきものである。そうであるなら,この公理の実践原理たる罪刑法定の原則もまた,刑罰法規の創設・解釈・適用のいずれの次元においても指導原理として働かねばならない。したがって,判例は残念な状況だが,実体的デュー・プロセスの要請は立法権力による刑罰法規の創設に対するのみならず,司法権や行政権によるその解釈・適用にも及び,刑罰法規の創設段階における厳格な必要性と相当性のみならず,その適用段階における厳格な必要性と相当性も求められることになる。罪刑法定の原則による「刑罰法規適正の原則」は,刑罰法規の創設段階における必要性・相当性の要求を意味する「過度に広汎な刑事規制の禁止」のみならず,その適用段階における必要性・相当性の要求である過度に広汎な刑罰法規適用の禁止―つまりは「過度に広汎な処罰の禁止」―をも包含しているのである。

 注目すべきは,刑罰法規の適用段階における厳格な必要性・相当性の要求を意味する「過度に広汎な処罰の禁止」と,既に見たソフトな違法一元論や可罰的違法性の思考との親和性であろう。ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念によれば,刑法上の違法性は刑罰を科すに値する質と量を具備する違法性を意味し,行政法や民事法といった他の法領域における違法性を質的にも量的にも凌駕するものでなければならないとされ,そのような違法性の質と量を充たさない行為には刑法上の違法性は認められないとして,これに対する刑罰法規の適用が否定されるからである。このように,刑罰法規適用の縮減による自由保障機能という点で,「過度に広汎な処罰の禁止」とソフトな違法一元論や可罰的違法性の思考は通底性を有している。このような意味での―ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念による―違法性の評価/判断は,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」の実践場面であり,罪刑法定の原則がこのような違法評価/判断を求めているといってもよい。上述のとおり罪刑法定の原則が憲法上の要請という地位を有するなら,ソフトな違法一元論や可罰的違法性の概念による違法性判断の必要性・不可欠性もまた,憲法―31条―にその根拠を有するといえよう[9]

 もっとも,最高裁において,「過度に広汎な処罰の禁止」を包含する「刑罰法規適正の原則」によって刑罰法規(の適用)を違憲とした例は存しない。この点は既に述べたとおりである。しかし,とくに基本権行使の性質を有する行為について,この原則に適応すべく法規を合憲的に限定解釈し,実質的には,上述の意味での―刑罰を科すに値するだけの質と量を有する―刑法上の違法性を具備しないとして,刑罰法規の適用を否定するものは散見される[10]。そのなかには,構成要件該当性を否定するものもある。刑法の謙抑性・断片性・補充性の要請という観点から明らかなことだが,刑罰法規として定立される構成要件は,規範違反性(行為無価値)や社会侵害性(結果無価値)という点でとくに違法性の著しい行為の類型であり,規範論理的には違法評価/判断―規範違反性あるいは社会侵害性の評価/判断―が構成要件に先行する。したがって,ある行為についてある構成要件の該当性が否定される場合,その判断は,当該行為が当該構成要件に想定される違法性を具備しない,つまりは当該構成要件に該当するとして刑罰を科すに値する違法性の質と量を具備しないという判断を包含しているのである。代表的な例を見ておこう。

 まずは職業選択の自由に関するHS式無熱高周波療法事件(最判1960年1月27日刑集14巻1号33頁)である。原審が,法定の除外事由なく有料でHS式無熱高周波療法を施した行為について,あん摩マツサージ師,はり師,きゆう師及び柔道整復師法12条に違反する「医業類似行為」として有罪としたのに対し,最高裁は,医業類似行為の禁止は「人の健康に害を及ぼす虞のある業務行為に限局する趣旨と解しなければならない」とし,原判決は当該療法の健康への影響の有無について「なんら判示するところがない」として破棄差戻した。これについて,

  「この最高裁判決は,直接には憲法22条の『職業選択の自由』との関連で問題をとりあげている。しかし,その実質は,医療類似行為を業としたからといって直ちに処罰してよいのではなく,『人の健康に害を及ぼす虞』のない無害な行為であれば処罰してはならないとしている点にあり,無害の行為を罰することは刑罰法規としての内容の適正を欠き,憲法31条に反するという考え方を根底においていたといえよう」[11]

という指摘は重要である。無害行為の処罰が刑罰法規適正の原則に反して違憲憲法31条違反―だというのは,刑法の謙抑性・断片性・補充性の実践原理たる罪刑法定の原則の要請に照らして当然の帰結である。したがって判示の趣旨は,当該行為が―「人の健康に害を及ぼす虞」という観点において―刑罰を科すに値するだけの違法性を具備するか否かについて検討することなく,形式的な構成要件該当性をもって違法性を肯定し刑罰法規を適用することは,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」に該当し,憲法31条に違反するということをも含意する。少なくとも基本権行使の側面を有する行為について,厳密かつ詳細な―ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念によるのと同様の―違法評価/判断を欠いたまま刑罰法規を適用することは,直ちに個別の基本権規定に反しないまでも,罪刑法定の原則の要請に反するがゆえに憲法31条に違反するということである。

 職業選択の自由という経済的自由に関してそうであるならば,優越的な保護を必要とする表現の自由に関しては尚更であろう。言論の自由表現の自由の行使という側面を有する行為に対する刑罰法規の適用には,憲法31条によって一層の慎重さが求められるということだが,最決1967年7月20日判時496号68頁の判旨が注目される[12]破壊活動防止法38条2項2号の内乱目的をもって内乱の「実行の正当性又は必要性を主張した文書」を頒布する罪は,

  「右文書の頒布により内乱罪の実行されうべき可能性ないし蓋然性が客観的に存在していたことは認められない」

事案については成立しないとするものである。過度に広汎な処罰の禁止の観点から,当該行為は内乱文書頒布の刑罰法規を適用する―刑罰を科すに値する―だけ違法性の質と量を具備していないとの判断なのであろう。繰返し確認するが,このような行為に対する刑罰法規適用は,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」に該当し,憲法31条違反とされるという趣旨である。判示において明言されてはいないものの,このような―ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念と同様の―違法性判断について,言論の自由表現の自由の行使が問題となるケースでは,経済的自由の行使のケースに比してより厳格な評価/判断が求められよう。優越的な保護を必要とする表現の自由の行使に対して刑罰法規を適用するには,比較的広範な制限が許容される経済的自由の行使に比して,より強度の質と量を具備する違法性を要するのは当然だからである。

 社会権としての労働基本権についても,周知のとおり,都教組事件判決(最判1969年4月2日刑集23巻5号305頁)が「二重の絞り論」を展開し,限定解釈による刑罰法規適用の縮減を試みている。

  「地公法61条4号は……争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし,そのような違法な争議行為等のあおり行為等であってはじめて,刑事罰をもってのぞむ違法性を認めようとする趣旨と解すべきであって,……あおり行為等の対象となるべき違法な争議行為が存しない以上,地公法61条4号が適用される余地はないと解すべきである。……さらに進んで考えると,争議行為そのものに種々の態様があり,その違法性が認められる場合にも,その強弱に程度の差があるように,あおり行為等にもさまざまの態様があり,……その違法性の程度には強弱さまざまのものがありうる。それにもかかわらず,これらのニユアンスを一切否定して一律にあおり行為等を刑事罰をもってのぞむ違法性があるものと断定することは許されないというべきである。ことに,……地公法61条4号の趣旨からいっても,争議行為に通常随伴して行なわれる行為のごときは,処罰の対象とされるべきものではない。……したがって,職員団体の構成員たる職員のした行為が,たとえ,あおり行為的な要素をあわせもつとしても,それは,原則として,刑事罰をもってのぞむ違法性を有するものとはいえないというべきである」

 行政法上違法とされ懲戒対象とされる争議あおり行為であっても,更に強度な質と量を具備する違法性が認められない限り,当該行為については―刑法35条の正当行為に該当するものとして―刑法上の違法性を否定せねばならないという判旨である。労働基本権の行使という側面を有する行為について刑罰を適用するには,憲法31条を根拠とする罪刑法定の原則の要請を充足するため,厳密かつ詳細な―ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念によるのと同様の―違法評価/判断,つまりは刑罰を科すに値する質と量を具備する違法性の認定を要するということである。

 以上のとおり最高裁判例のなかには,基本権行使に対する刑事規制に関して,基本権保障との抵触を回避すべく,刑罰を科すに値する違法性の質と量を要求して違法性とともにその類型である構成要件を縮減し,当該刑罰法規の適用領域を限定する試みが見られる。その思考/志向のみならず刑罰法規適用の限定の具体的な方法も,都教組事件判決に明らかなとおり,ソフトな違法一元論を前提とする可罰的違法性の概念による違法阻却を実践する試みといってよい。しかし,このような刑罰法規適用の縮減は,たんに犯罪論内部の―違法論としての―理論構成に止まらず,―近代刑法の前提をなす刑法の謙抑性・断片性・補充性の実践原理としての―罪刑法定の原則の要請である刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」の実践場面として,憲法31条によって求められているものと解さねばならない。とりわけ基本権行使の性質を有する行為について刑罰法規を適用するには,当該行為を処罰するに値するだけの違法性の質と量の認定が不可欠であり,そのような質と量を具備しない行為の処罰や,そのような違法評価/判断を欠く刑罰法規の適用は,「過度に広汎な処罰の禁止」に該当し,憲法31条に反するということである。

結語

 以上の検討により,従前よりソフトな違法一元論や可罰的違法性の概念によって主張されている違法阻却―違法評価/判断―は,憲法31条に根拠を有する罪刑法定の原則―刑罰法的適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」―の内実をなすものであることが了解されるであろう。

 さて,いわゆる「武蔵野爆竹事件」において,被告人の行為が表現の自由の行使という側面を有することについては,第1審判決も次のように判示しており,疑う余地はない。

  「……被告人が本件行為に及んだ目的,場所や時間からすると,本件行為が東京オリンピックパラリンピックやそれに関連する聖火イベントの開催に抗議するという被告人の思想・考えを示すための表現行為であることは理解できるうえ,これを制限することが,民主主義社会において特に重要な権利として尊重されなければならない表現の自由に対する制限に当たるとする弁護人の主張には一応の理由がある」

 しかし,既に述べたとおり,処罰対象は「表現そのもの」ではなく「表現の手段」に過ぎないというステロタイプのロジックにより,当該行為が社会的相当性を逸脱する―つまりは違法性を有する―場合には刑罰法規を適用し得るとして,上述の㋐~㋔の認定により,被告人の行為は威力業務妨害罪に該当するものとされた。問題は,㋐~㋔の認定による違法性の評価/判断が憲法31条―罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」―の要求を充たすものか否かであろう。とくに基本権行使の側面を有する行為については,憲法31条により,当該行為が―構成要件に該当する行為として―刑罰を科すに値するだけの違法性の質と量を具備しているか否かを厳密に検討することによって,当該行為に対する刑罰法規の適用の可否を判断することが求められており,この検討を欠く刑罰法規適用は―「過度に広汎な処罰の禁止」の要請を充たさず―憲法31条に違反するからである。

 如上の厳密な違法性の検討は,例えば―憲法31条の要請たる「過度に広汎な処罰の禁止」のいわば実践場面をなす―ソフトな違法一元論やそれを前提とする可罰的違法性の概念といった,刑罰法規適用を抑制する自由主義的な理論と同様の方法による必要がある。本件のように表現行為に対する刑罰法規適用が問題となる場合には,違法性判断にとって積極的な―つまりは形式的な構成要件該当性を示す―事実のみならず,消極的な―つまりは違法阻却事由となり得る,あるいは違法性の低減を示す―事実も細大漏らさず考慮して,なお当該行為に対する刑罰法規適用が肯定されるか否かを検討せねばならないのである。

 しかし,本件第1審判決は,被告人の行為を「表現行為」であるとしながら威力業務妨害罪に該当するとの帰結を導出するに際し,被告人の行為は「威力」の行使に該当し業務妨害結果の危険―及び現実の侵害結果―が発生したとするが,その論理の内実は,被告人の行為が構成要件に該当するがゆえに違法性が認められる―「表現行為として相当性を欠く」ゆえに違法性は阻却されない―とするものでしかない。構成要件に―形式的に―該当する行為について,刑法上の―なお刑罰を科すに値するだけの質と量を具備する―違法性が認められるべきか否かが問題なのであって,構成要件に該当するから「相当性を欠く」―違法性が認められる―というのは論理の転倒という外あるまい。

 先ずは表現行為として「爆竹」を使用したことが問題となろう。一般に意見表明の重要かつ有効な手段とされるビラ配布・頒布に比して[13],おそらく,爆竹使用による表現活動の要保護性は高いものとはされないからである。しかも,例えば上述の立川自衛隊監視テント村事件最高裁判決のように,最判1984年12月18日の―表現の「手段」が相当性を欠く場合には刑罰法規適用は違憲ではないという―ステロタイプの論理を引きつつ,集合住宅―防衛庁立川宿舎―における反戦ビラのポスティングについて,管理権者の意思に反する立入りであるとして住居侵入罪を肯定する例もあり,爆竹使用という表現「手段」について,「相当性」が認められる余地はほとんどないとも解される。しかし―「表現そのもの」と「表現の手段」を截然と区分し得るかは措くとしても―既に述べたとおり,表現の手段の違法性を評価し判断する際には,当該手段が形式的に構成要件に該当することを示す事実のみならず,違法阻却ないし違法低減のベクトルを有する事実をも考慮せねばならない。無罪判決を下した立川自衛隊監視テント村事件第1審は,正当にも次のように判示している。不可欠なのはこうした判断なのであって,最高裁の安易な判断は罪刑法定の原則に鈍感かつ冷淡だという批判を免れまい。

  「さらに,被告人らによるビラの投函自体は,憲法21条1項の保障する政治的表現活動の一態様であり,民主主義社会の根幹を成すものとして,同法22条1項により保障されると解される営業活動の一類型である商業的宣伝ビラの投函に比して,いわゆる優越的地位が認められている。そして,立川宿舎への商業的宣伝ビラの投函に伴う立ち入り行為が何ら刑事責任を問われずに放置されていることに照らすと,被告人らの各立ち入り行為につき,従前長きにわたり同種の行為を不問に付してきた経緯がありながら,防衛庁ないし自衛隊又は警察からテント村に対する正式な抗議や警告といった事前連絡なしに,いきなり検挙して刑事責任を問うことは,憲法21条1項の趣旨に照らして疑問の余地なしとしない」

 そうすると,爆竹の使用という事実―そしてその爆発によって意思を制圧され,業務妨害結果が発生した,あるいは発生する(抽象的)危険があったという認定―をもって,直ちに被告人の表現「手段」が「相当性」を欠くという帰結を導くことはできない。固より爆竹は種々のイベント等にも使用に供される日常品でそれ自体とくに危険物ではないこと,爆竹の使用が本件イベント終了予定時刻を10分以上経過した後であること,使用した爆竹の量も到底「大量」とは認められないこと,爆竹の使用(点火)は1回のみで複数回にわたって執拗に繰返されたものではないこと,被告人は爆竹を会場に隣接する―本件イベント参加者の出入口であり受付場所であった―「体育館敷地内」に投げ入れたのであって―沖縄返還協定に反対して議場内で爆竹を鳴らしたという東京地判1973年9月6日の事案とは異なり―会場である「競技場(トラック内)」で使用(点火)しあるいは投入れたものではないこと等々,第1審判決が―構成要件該当性をもって「相当性」を欠くとする罪刑法定の原則に反する安易な判断により―軽視あるいは黙殺する事実を併せ考慮しても,その表現「手段」は憲法21条1項による保障の範囲外に置かれねばならないほどに「相当性」を欠くのか,つまりは刑罰法規の適用を受けるに値するだけの違法性の質と量を具備していたのか否かを問題とせねばならないのである。更に第1審判決によれば,被告人の意図は「東京オリンピックパラリンピックやそれに関連する聖火イベントの開催に抗議の意思を示そうと」する点にあるされるが,オリ・パラそれ自体や関連イベント催行の態様と被告人の―爆竹使用という―行為の態様の非対称性は,

  「……実際被告人を罰したいのは,オリ・パラなんじゃないかというふうに私は感じていて,まあ国を挙げての,地方自治体やらNHKやら……マスコミやら,あるいは大企業から……小さな企業まで巻き込んでの,総力挙げての,そして全国から警察を集めて,また自衛隊の出てきての,そういう圧倒的な力でオリンピック・パラリンピックが強行されて,それに対して爆竹というのは,余りにも桁違いに小さい,破壊力が小さいと私は感じています」

とする―オリ・パラ開催に反対の立場に立つ証人による―証言のとおりである。これも被告人の行為について違法性低減のベクトルを有する要素となろう。繰返し主張しているとおり,これらの検討を欠いたまま刑罰法規を適用することは,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」に該当し,憲法31条に違反するものといわねばならない。

 なお,業務妨害罪の成否については更に検討すべき問題が残る。構成要件は可罰的な―つまりは刑罰を科すに値する違法性を有する―行為の類型であるから,以上の違法評価/判断は,爆竹使用という被告人の行為が「威力」を行使したか否かの認定にも関わるが,問題は,仮に「威力」の行使に該当するとしても,それによって―判例は否定的だが―意思の制圧という因果経過を経て業務妨害結果―判例によればその抽象的危険,学説によってはその具体的危険―が発生したことを要することであろう。刑法の謙抑性・断片性・補充性という自由主義的な近代刑法の前提をなす公理によるなら,抽象的危険であれ業務妨害罪の「結果」それ自体は,精神的自由を含む法益主体の活動の自由に対する回復不能なほどの制圧・阻止,更にはその放棄・断念を意味するものと解さねばなるまい。構成要件結果とは,まさしく刑罰をもって保護するに値するだけの重大な結果を意味するはずだからである。業務妨害罪が抽象的危険犯であるとしても,このような意味での重大な結果発生の抽象的危険が問題となる。

 その点で,被告人の意図は本件イベントそれ自体の阻止・妨害ではなく東京オリ・パラ及びそれに関連するイベントへの反対意思の表明であるとして,本件第1審が,オリ・パラ関連イベントに外ならない本件イベント自体への影響ではなく,その運営業務の一端を請負ったイベント会社社員証人Uの―主としてイベント参加者等の受付,誘導及び案内等の―業務遂行への影響をもって,業務妨害結果(の抽象的危険)が発生しているとする点には二重の問題がある。第一には,被告人による行為が証人Uの業務を「妨害した」と評価し得るかという問題,更に第二には,証人Uの業務の妨害をもって業務妨害罪の結果とすることが妥当かという問題である。

 まずは,証人Uが業務遂行に著しく困難を覚え,あるいは断念せねばならないほどに意思を制圧され,現にそれによって請負った上記の業務を遂行し得なかったという結果(の抽象的危険)が発生したかが問題であろう。第1審判決は,現に発生していない事実―「証人Uらの……火傷」や「被告人と証人Uらが接触して転倒したりする危険」―に加えて,やはり事実によらない―「更に激しい爆発」や「複数人による同様の行為」の可能性という―虚構を根拠として,証人Uらが感じる恐怖―現実に感じた恐怖ではなくその可能性―を増幅して認定し,イベント参加者を待機させて―弁護人は争うものの認定によれば20分程度―退場を遅らせる等の現に発生した結果をも認定している。しかし検討が求められるのは,事実として確認され認定されている被告人の行為によっていかなる結果(の抽象的危険)が発生したのか,そしてそれが証人Uの活動の自由を回復不能なほどに妨げその放棄・断念の已む無きに至らしめるものであった(あるいはその抽象的危険が生じた)かどうかである。威力業務妨害罪を肯定するには,証人Uの本件イベント業務遂行の放棄・断念という結果(の抽象的危険)を要するはずだが,第1審判決は,

  「本件犯行により,被害会社従業員は,警察官らと共に被告人を取り押さえたり,退場しようとしていたイベント参加者に20分くらいの間,待機するよう促し,その退場方法を検討したりするなど,実際の業務にも少なからず支障が生じることになったのであり,被告人が直ちに取り押さえられたため,業務が実際に中断した時間が必ずしも長時間でなかったことを踏まえても,結果を軽視することはできない」

という判示に明らかなとおり,「実際の業務にも少なからず支障が生じることになった」とするものの,本件イベントそれ自体はほぼ予定通り挙行されていること,被告人による爆竹使用に対する証人Uの反応も,証人U自身の証言によると,

  「で,(1発目の爆竹が―引用者)鳴って,多分ちょっと僕も一瞬びくって,びっくりはしたんだと思います。……(その後被告人が―引用者)柵に手を掛けられたので,私のほうがちょっとそれを(後ろから体を押さえて―引用者)阻止させていただきました」

というように極めて冷静な対処であったこと,更にはイベント参加者の―弁護人は争うものの認定によれば20分程度の―退場の遅れについても,証人Uの証言は,

  「我々は止めていたんですけども,中には,ちょっとその,自治体の人とか,それから,ちょっとこんな言い方はあれですけど,偉い人とかもいたりとかしてたので,……もしかしたら,何人か出た可能性はあるかもしれないです」

と警備・警護を要する者が退場している可能性に言及しており,被告人の爆竹使用によって会場(付近)が厳戒を要するような緊迫した状況ではなかったことが窺われること等,被告人に有利な方向に働く事実・事情を軽視し,あるいは黙殺している。業務妨害罪の成立に求められる―精神活動を含む人の活動の自由を回復不能なほどに妨害し制圧してその放棄・断念に至らしめるという―重大な結果(の抽象的危険)が発生したのか否かの判断について,明らかに第1審判決は必要にして十分な検討を欠いている。注意すべきは,業務妨害罪の結果を抽象的危険の発生と解すると,このような検討の欠如が常に生じ得ることであろう。結果発生の抽象的危険の有無の判断は,行為の危険性判断―当該行為が結果を発生させる危険をどの程度有するかという判断―に解消され,当該行為が「威力」の行使である以上,妨害結果の抽象的危険が存するという―きわめて安易かつ不当な―判断に傾きやすいからである。

 次に更に重要な問題として,証人Uの業務遂行の放棄・断念(の抽象的危険)を業務妨害罪の結果とすることの是非が検討されねばならない。上述のとおり,被告人の意図は東京オリ・パラ開催に対する反対意思の表明であり,関連イベントに対する抗議―本件における爆竹使用は終了時刻終了後でありイベント催行の阻止・妨害に該当しない―はその手段と位置付けられる。本件のように,威力によってイベントに関わる証人Uのようなイベント会社社員の業務遂行等を阻止・妨害したとして業務妨害罪の罪責を問うとすれば,当該イベントそれ自体の催行の―内容・日程等の大幅な変更を含む―放棄・断念という結果(の抽象的危険)が発生したか否かにかかわらず,その因果のプロセスのいずれかの段階を切取って業務妨害罪を適用し得ることになる。現に本件は,本件イベント自体の催行を妨害し阻止したとは認め難いとして,証人Uに対する業務妨害罪で起訴され有罪とされたのであろう。こうした因果のエポク―強要・脅迫,住居侵入,逮捕・監禁,業務妨害等々の構成要件の形式的な充足―を切取って,当該行為(及び結果)の違法性を認定するという機会主義的・便宜主義的な刑罰法規適用は,刑罰法規適用の機会を増大させるという点で,すくなくとも刑法の謙抑性・断片性・補充性という近代刑法の不可欠な前提をなす公理に背反し,その限りでその実践原理である罪刑法定の原則―の趣旨―にも反するものといえよう。とくに基本権行使の側面を有する行為について,機会主義的・便宜主義的に因果のエポクを切取って刑罰法規の適用を求めるような起訴は,文字通り上述の市民的治安主義の実践であり,一般刑法の市民的治安法化を更に促進するものでしかない。それは,刑法の原初的暴力性への退行という象徴的意味に止まらず,市民的自由に対する現実的な脅威を意味し,刑事司法に対する市民の信頼の喪失という帰結に至ることになろう。上述のとおり判例は,優越的な保護を要する表現の自由についても,それに対する刑罰法規適用の憲法適否を手段の相当性の問題に矮小化し,当該行為が形式的に構成要件に該当することをもってその違法性を認定し,刑罰法規を適用する。そのような刑罰法規適用が,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」に反して憲法31条違反であることは繰返し主張したところだが,こうした判例の姿勢は如上の―刑法の原初的暴力性への退行,更には市民的治安主義による刑法の治安法化の促進・全面化という―危険を包蔵するものという外ない。本件におけるような機会主義的・便宜主義的な刑罰法規適用を求める起訴については,本来的には,当該起訴の正当性・合法性を否定し,公訴権の濫用として公訴棄却の判断を下すべきであろうが,周知のとおり,公訴権濫用論は文字通り「死に体」で「お蔵入り」となっている[14]。本件のように,イベント自体は内容的にも時間的にもほぼ予定通り催行されたという場合,現実的には,証人Uに対する妨害結果(の抽象的危険)の発生は因果関係の錯誤として救済することも可能であろう。

 もちろん,「可能であろう」というだけのことに過ぎない。本来問題とされるべきは上述のとおり,被告人の爆竹使用等の行為が「威力」の行使に該当するか,該当するとして威力業務妨害罪を適用して刑罰を科すに値するだけの違法性の質と量を具備するかという点であり,これらについて第1審判決の検討は全く不十分でありその帰結にも疑問がある。また同じく,証人Uの業務遂行に対する妨害は威力業務妨害罪を成立させるほどに重大な―人の精神の自由を含む活動の自由の放棄・断念に至らしめる―結果(の抽象的危険)とし得るかについても,やはり第1審判決の検討は全く不十分でありその帰結にも疑問がある。本稿において検討したとおり,本件行為が威力業務妨害罪に当たるか否かについて第1審判決は,罪刑法定の原則の要請としての刑罰法規適正の原則が要求する―違法性を阻却ないし低減する方向の事実も細大漏らさず併せ考慮するという―厳密かつ詳細な違法性の検討を怠り,刑罰法規適正の原則から導かれる「過度に広汎な処罰の禁止」に反する刑罰法規適用という帰結を導出している。第1審判決の検討が不十分であり,かつその帰結にも疑問が呈されるのはその故である。

 刑事裁判が―まさに国家による攻撃という最も峻厳な攻撃に晒されている―市民の自由を保障する場であるならば,「国家権力の専権から国民の民主主義的自由と権利を守るための最後の防塁」としての罪刑法定の原則を固守せねばならない[15]。これを等閑に付した第1審判決は破棄を免れないというべきである。

 

----- 脚注 ------ 

[1] 実体法における近代刑法原理と犯罪論は,構成要件は罪刑法定の原則の,違法性は行為原理/侵害原理の,有責性は責任原理の要請を充たさねばならないという点で対応関係にあるが,例えば藤木英雄『可罰的違法性』(学陽書房・1975年)34頁によると,可罰的違法性とは,

  「刑法を社会統制手段の一つとしてとらえ,他の社会統制手段に委ねることでは足りず刑罰が果たすべき役割を考察し,……刑罰権の発動を要請される不法とは何か」

という問題であり,可罰的違法性は社会的相当性の逸脱であるとして構成要件段階でのみ機能する―つまり社会的相当行為は構成要件該当性が否定される―ものだとされる。構成要件該当性を問題とする点で,可罰的違法性が罪刑法定の原則と連結していることを意識させるものとはいえようか。もっとも,この見解には―構成要件該当性判断の類型性と斉一性を害する点で―賛同できないし,藤木英雄『可罰的違法性の理論』(有信堂・1967年)「はしがき」において,可罰的違法性の理論は,

  「……ひとつの基本原理体系から演繹されたものではなく,理論以前に刑事司法実務における直観的思考の集積として,ひとつの潜在的体系としての実体を有したものであることは大きな特色である」

とされているように,藤木自身も可罰的違法性と罪刑法定の原則を意識的に連結させているわけではない。「理論以前」の「実務における直観的思考の集積」という理解は,可罰的違法性自由主義的側面を十分に考慮するものとはいえまい。

[2] 内田博文『治安維持法の教訓 権利運動の制限と憲法改正』(みすず書房・2016年)9頁。

[3] 刑事規制の厳格な必要性・相当性については,既にフランスの「人及び市民の権利宣言」(人権宣言 1789年8月)第8条前段において,「法律は,厳密かつ明白に必要な刑罰でなければ定めてはならない」として求められていたものである。

[4] 小野清一郎についてはさしあたり,宮本・前掲267頁以下及びそこに引かれる諸文献参照。

[5] 刑法改正準備会『改正刑法準備草案:附・同理由書』(刑法改正準備会・1961年)88頁。

[6] 吉川経夫「日本における罪刑法定主義の沿革」東京大学社会科学研究所編『基本的人権4』(東京大学出版会・1968年)同『吉川経夫著作選集 第2巻 罪刑法定主義と刑法思想』(法律文化社・2001年)33頁。なお吉川刑法学ついては,前田朗「吉川経夫の刑事法学」同『黙秘権と取調拒否権―刑事訴訟における主体性』(三一書房・2016年)224頁以下参照。

[7] 吉川経夫「罪刑法定主義」長谷川正安・宮内裕・渡辺洋三編『新法学講座第4巻 現代法の基本原理』(三一書房・1962年)同・前掲『吉川経夫著作選集 第2巻 罪刑法定主義と刑法思想』20頁は,実体的デュー・プロセスの思考に触れつつ,罪刑法定の「原則の死守」が課題であるとして次のように指摘している。

  「このように,罪刑法定主義は,日本国憲法によって再確認された。しかし,これを憲法における抽象的な宣言にとどまらせては無意味である。先にみたように,国民によって闘い取られた歴史をもたないわが国の罪刑法定主義は,支配階級によってつねに形骸化されようとする危険をはらんできた。しかし,現在の時点においてこの形骸化を許すことは,国家権力の専権から国民の民主主義的自由と権利を守るための最後の防塁を奪い去られることを意味する。施行後,日なお浅い日本国憲法のもとでの民主主義を,ナチズムやファシズムの反動から守るためには,国民ひとりひとりの抵抗によって,罪刑法定主義の原則を維持しなければならない」

[8] 内藤謙『刑法講義総論(上)』(有斐閣・1983年)23頁。

[9]  この点は既に早く,芝原邦爾『刑法の社会的機能』(有斐閣・1973年)186頁以下がその可能性を指摘していたが,いわゆる「司法の危機」対処による司法・裁判所の―一層の―保守化傾向の下で,残念ながら実務による展開・実現には至らなかった。

[10]  内藤・前掲40‐41頁参照。本文で言及している判例も内藤によった。なおこれらの合憲的限定解釈に対し,最判1985年10月23日刑集39巻6号413頁は,福岡県青少年保護育成条例(いわゆる「淫行処罰条例」)違反について,同じく限定解釈を試みて,

「10条1項にいう『淫行』とは,広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきではなく,青少年を誘惑し,威迫し,欺罔又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性行又は性行類似行為のほか,青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱っているとしか認められないような性行又は性行類似行為をいう」

と判示したが,解釈それ自体の不明確性は別途問題とせねばならないとしても,「明白性原則」に関する「本件事案に関する限り明白」という論理との類縁性を感じさせる。本件解釈の不明確性は,それがおそらくカズイティッシュな事例包摂の手段でしかなく,刑事規制を伴う法規適用の縮減に関して,基本権実現という理念から導出される原理的な明証性を持たないからなのであろう。限定解釈を試みても,それが基本権実現という理念から類型性・斉一性を首肯できない結果となるなら,そのような解釈はむしろ基本権保障に対する不安定性をもたらすだけであり,限定解釈によって法規の法令違憲を救済することは許されない。そのような場合は,当該法規の「刑罰法規適正性」を否定して違憲・無効とすべきである。以上についてはさしあたり,宮本弘典「実践的拘制としての罪刑法定原則」同『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房 朔・2009年)58‐60頁,66頁参照。

[11] 内藤・前掲40頁。

[12] 本稿の検討課題に直接の関連を有しないものの,自由主義的な側面を有する1967年のこの判決が,後に「司法の危機」問題とされる官公労働者の争議(あおり)事件について無罪判断を示した一連の判決の時期―第4代長官・横田正俊の長官在任期―と重なることには注目してよいであろう。この時期の最高裁裁判官は,第3代長官・横田喜三郎や第4代長官・横田正俊の在任中に就任しており,次の第5代長官・石田和外の長官在任中(1969年1月11日~73年5月19日,最高裁裁判官就任は1963年6月6日)に退任した11名の裁判官の後任人事によって,ささやかながらも最高裁に育まれつつあった自由主義的な息吹が完全に断たれたことは,既に註11で言及したとおりである。この影響は実体刑法に関する判例のみならず,刑事手続に関するものにも及んでおり,1960年代には,無罪率や令状請求却下率が上昇し,下級審判例では代用監獄例外説,別件逮捕・勾留違法説,更には接見に対する一般指定違法説等の判断も示され,最高裁判例にも違法排除を重視する観点から自白の証拠能力を否定する例が現れ,当事者主義やデュー・プロセスの理念の実現に希望を抱かせる状況が垣間見られたものの,「司法の危機」が喧伝された70年前後以降,無罪率や令状請求却下率は減少の一途をたどり,最高裁も自白法則の厳格な適用について消極に転じ,任意捜査における有形力の行使が適法とされ,強制採尿令状の創設による強制処分法定主義の弛緩も顕著となった。以上について,川崎英明「刑事訴訟の半世紀と展望」村井敏邦/川崎英明/白取祐司編『刑事司法改革と刑事訴訟法 上』(日本評論社・2007年)14‐15頁参照。

[13] ビラ配布に対する刑罰法規適用の問題性についてはさしあたり,立川自衛隊監視テント村事件や国公葛飾事件を検討する岩倉秀樹「民主主義の条件としての表現の自由―最近のビラ配布事件の検討」高知県立大学文化論叢1号(2013年)9頁以下,立川自衛隊監視テント村事件を念頭にビラ配布について「住居」概念を検討しつつ刑罰法規適用の縮減を主張する松宮孝明「ポスティングと住居侵入罪」立命館法学297号(2004年)等参照。

[14] その先駆となるのはチッソ川本事件最決1980年12月17日刑集34巻7号672頁で,判旨は次のとおりである。

  「検察官は,現行制の下では,公訴を提起するかしないかについて広範な裁量権を認められているのであって,公訴の提起が検察官の裁量権の逸脱によるものであったからといって直ちに無効となるものでないことは明らかである。たしかに,……検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効ならしめる場合のありうることを否定することはできないが,それはたとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られるものというべきである」

 この判旨について,内田博文『刑事判例の史的展開』(法律文化社・2013年)321頁は次のように指摘している。

  「これにより,公訴権濫用論は,実務上は舞台からほぼ姿を消すことになった。翌年に出された最判昭和56・6・26刑集35-4-426(赤崎町長選挙違反事件)も,上記の基準に則って,……当該公訴提起を有効とした」

[15] 吉川・前掲「罪刑法定主義」20頁。



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宮本 弘典(みやもと ひろのり)

主要著作

『警察監視国家と市民生活』(共著 白順社・1998年)
『治安国家拒否宣言 「共謀罪」がやってくる』(共著 晶文社・2005年)
『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房 朔・2009年)
『冤罪・福岡事件 届かなかった死刑囚の無実の叫び』(共著 現代人文社・2011年)
『転落自白 「日本型えん罪」はなぜうまれるのか』(共著 日本評論社・2012年)
『歴史に学ぶ刑事訴訟法』(共著 法律文化社・2013年)
『国家の論理といのちの倫理 現代社会の共同幻想と聖書の読み直し』(共著 新教出版社・2014年)
『近代刑法の現代的論点 足立昌勝先生古稀記念論文集』(共編著 社会評論社・2014年)
『刑罰権イデオロギーの位相と古層』(社会評論社・2020年)
など。