武蔵野五輪弾圧救援会

2021年7月16日に東京都武蔵野市で行なわれた五輪組織委員会主催の「聖火」セレモニーに抗議した黒岩さんが、『威力業務妨害』で不当逮捕・起訴され、139日も勾留された。2022年9月5日の東京地裁立川支部(裁判長・竹下雄)判決は、懲役1年、執行猶予3年、未決算入50日の重い判決を出した。即日控訴、私たちは無罪判決をめざして活動している。カンパ送先⇒郵便振替00150-8-66752(口座名:三多摩労働者法律センター)、 通信欄に「7・16救援カンパ」と明記

2022.3.11 鳴り響く進軍ラッパに驚愕した福島訪問記…黒岩大助

「聖火」リレーの始まりの地、冒頭意見陳述に書いた福島を訪ねた

 訪問と言うには余りある。見学でも見物でもない。私は武蔵野市で「聖火」に抗議して逮捕、起訴されたが、そのリレーは、福島原発事故の収束作業基地であったJヴィレッジから出発した。コロナの影響により東京での公道走行は中止されたが、市部住民である私は「聖火」を区部に渡したくなかった。2021年11月26日、私は初公判の意見陳述でオリンピック・パラリンピック(以下、オリ・パラ)の開催強行がコロナパンデミックの下であること、福島原発事故による棄民化の下であることを主に主張した。コロナ状況は私を含め全世界があらゆる被害を受けたが、原発事故は対岸の火事ではなかったかと獄中で自問自答していた。

 2021年12月1日保釈で外に出た私は、福島に行きたかった。いや行くべきだった。その機会が今年3月11日にやってきた。原発事故から11か年。今回の福島行きは原発事故を少しでも全身に刻み込むためである。

 私は、大熊町とその北に隣接する双葉町を訪ねた。原発事故で最も多くの被災者、避難者を出した町である。原発立地であるこの2つの町の人たちは、ある日突然、穏やかな日常が断ち切られ、手荷物一つで遠くへ避難することを指示された。
 そもそも大都市から離れ海に面していることで、国家は原発を建設し稼働させた。「明るい未来のエネルギー」のスローガンの下、反対派の声は掻き消され多くの人々が受け入れた。様々な原発関連作業に携わり、町は潤った。しかし、結局のところ原発は国家の揺るぎない繁栄と大資本の巨大な利益を生み出す装置でしかなかった。
 そして、2011年3月11日、東日本大震災により福島原発は事故を起こした。被災者は避難所から復興住宅へ転々と移される中、家庭は破壊され、関連死は自死を含めて膨大な数にのぼる。ある畜産業を営みとしてきた人は、「町のためだと思って原発に賛成してきたが、こんなことになるなら最初から反対するべきだった」との遺書を残し、牛舎で首吊り自殺した。
 このような状況で2013年、当時の首相安倍は、「福島はアンダーコントロールしている」として、東京にオリ・パラを呼び込んだ。原発事故直後今後100年は続くと言われる原子力緊急事態宣言が出され、それからわずか10年後の2021にオリ・パラの開催を強行した。国家は日本における「スペクタル」のために、福島の人たちを棄民した。

大熊町追悼式で、黙とうの後に進軍ラッパが鳴り響いた

 福島も春が近づいている。大熊町のある常磐線大野駅を降りる。

 駅周辺は、避難指示は解除されたが帰還困難区域であり、住民は一人もいない。いるのは除染作業に従事する労働者だけだった。ほとんど全ての家には「解体除染」の紙が貼られている。(なぜか駐在所には貼られていなかった)。また今だに汚染土を詰め込んだ黒いビニール袋があちこちに残っている。大熊町図書館の時計塔は震災発生時の2時46分で止まったままだ。
 大熊町役場まで1時間半かけて山道を重い足を引きずりながらとぼとぼと歩いた。着いた時は追悼式の準備中。参列者には町から出て行かざるを得なかった人たちも多いだろう。事故当時まだ生まれていなかった子どももいる。マスコミ以外の「よそ者」は私一人だった。そして、2時46分消防団による葬送ラッパを合図に黙祷。しかし、いきなり進撃ラッパに変わり驚愕してしまった。まるで「復興せよ!復興せよ!」との号砲に聞こえた。
 役場前の広場には、原発事故の鎮魂碑とともに「感謝」との碑があった。「令和元年5月1日 衆議院議長大島理森」と書き添えてある。これまで原発を受け入れてくれたことへの感謝なのか? オリ・パラが東京に決まってから棄民化に耐えてくれたことへの感謝なのか? この原稿を書いている中この碑にある年月日にハッと気付いた。ナルヒト即位の日ではないか! 日本という国は、大熊町の人たちに対して原発で発展させてやったこと、オリ・パラのために原発事故から復興させてやることに感謝せよと言っている!しかも念には念を入れてナルヒトが天皇になった日に!

双葉町では、フロンティア精神あふれる移住者を募集していた

 怒りが収まらないうちに双葉町行きのバスに乗った。途中、「地球にやさしい原子力」の看板がひっそりと佇んでいた。双葉町はほとんどが帰還困難区域である。駅前には今回の「聖火」が引き継がれたという碑がある。その反対側では2020年度完成に合わせ公営住宅の突貫工事が行われている。看板には「ふるさとへ『帰る』人も双葉町に『移住』する人も共に『おぎない合う暮らし』」、「本プロジェクトでは『双葉町に暮らしていた町民』はもちろんのこと、『フロンティア精神あふれる移住者たち』の入居も歓迎します。」とある。

 原発事故から11年、多くの人たちが帰ることもかなわず棄民されたあげく、家族や地域に分断を生んだ。また多くの人たちが復興を望んでいるだろう。原発事故をめぐる国策は、福島の人たちを振り回してきた。今また、国家は福島人たちの声や気持ちを圧殺しようとしているのではないだろうか?
 この2つの町を3時間以上歩き回ってくたくただった。その日は素泊まりの温泉宿に逗留したが、歩き歩いた疲れよりも大熊町役場での進撃ラッパが頭から離れず、全然癒やされなかった。

 翌朝、この宿にある原子力災害考証館に行った。原発とは何か、原発事故がもたらしたものは何かをこと細かく説明しており、泣きそうになった。電車の時間が来て詳しく見られなかったのに関わらず。
 私は、最初の決意とは裏腹に、ほうぼうの体で東京に逃げ帰ってきた。しかし、私は、いや私たちは決して福島から目をそむけてはいけない。

大熊町大野駅付近。家屋を除染のため解体

大熊町図書館、 時計が震災時間午後2時46分で止まっている

大熊町での原発事故11年追悼式典。黙とうの後、進軍ラッパが鳴り響いた

大熊町役場の敷地にある鎮魂碑

大熊町役場敷地の意味不明の碑。天皇代替わりの日に建立された。誰が誰に何を感謝?

町のあちこちに今でも残る汚染土を入れた袋。通称、「黒いピラミッド」