武蔵野五輪弾圧救援会

2021年7月16日に東京都武蔵野市で行なわれた五輪組織委員会主催の「聖火」セレモニーに抗議した黒岩さんが、『威力業務妨害』で不当逮捕・起訴され、139日も勾留された。2022年9月5日の東京地裁立川支部(裁判長・竹下雄)判決は、懲役1年、執行猶予3年、未決算入50日の重い判決を出した。即日控訴、私たちは無罪判決をめざして活動している。カンパ送先⇒郵便振替00150-8-66752(口座名:三多摩労働者法律センター)、 通信欄に「7・16救援カンパ」と明記

本当に裁かれるべきは誰か?…「被告人」黒岩大助 最終意見陳述

武蔵野五輪弾圧裁判 「被告人」最終意見陳述書

                                                    2022年7月4日 黒岩大助

                                                    於:東京地裁立川支部

 この意見陳述にあたって最初に言っておく。私に対して問われている「威力業務妨害」は無罪である。その理由について以下、述べる。

1、東京五輪(以下、オリ・パラ)強行にあたり、福島原発事故で棄民化された被災者とその影響について

 昨年11月26日の初公判における冒頭意見陳述で、コロナのパンデミック状況と、原発事故被災者・避難者の棄民化状況においての東京オリ・パラ開催強行を厳しく断罪した。オリ・パラ福島原発事故の被災者に対しもたらしたその後の影響について、まず触れたい。
 原発立地である大熊町双葉町は、事故11年経っても帰還困難区域であり避難指示が出されている。そのうち一部がオリ・パラに併せ「特定復興再生拠点」となり避難指示は解除されたが、今なお多くの人たちが各地の避難場所に生活を構えざるを得ず、故郷に帰りたくとも帰れない。原発事故以降、生まれたこどもたちは故郷を知らずにいる。
 私は今年3月11日、東日本大震災による原発事故の日に福島県を訪問し、大熊町双葉町を訪れた。

 大熊町のある大野駅周辺のほとんどの家屋には「解体除染」の紙が貼られて無人であり、それに従事している労働者だけがいる。そして、所々に汚染土を入れた袋がまだ残っている。
 その後、町役場で行われた追悼式に赴いた。消防隊の鎮魂ラッパが突然、進軍ラッパに変わったことに驚愕した。被災者、避難者たちに「復興」を急かす進軍ラッパであろうか。

 また、町役場の敷地に衆議院議長大島理森の名で建立された「感謝」との碑があった。主語がなく、誰が誰への感謝なのか解らない。「原発事故はアンダーコントロールされている」と嘘をついてオリ・パラを呼び寄せたことに「感謝」すると言っているのか?そのために棄民化に甘んじてくれた福島の人たちへの「感謝」の言葉なのか?この碑はいみじくも現天皇即位の日に建てられた。
 隣駅の双葉駅のそばでは、来年4月に向け新興住宅の建設工事が行われていた。その看板には、故郷に戻る人たちはもちろん、「フロンティア精神あふれる人たちの移住を歓迎する」とあった。

 そして今から1か月前の6月12日、福島原発の西20キロにある葛尾村の一部が避難指示を解除され2世帯の人たちが戻った。避難先との二重生活だが、故郷が忘れられないという。棄民と復興、そして「感謝」、オリ・パラ以降も福島の人たちは国策に翻弄されている。
 また、原発汚染水の海洋放出問題についても述べておく。事故を起こした原発を冷却するために放水してきたが、その貯蔵タンクが容量を超えるとして、汚染水の海洋放出をオリ・パラ開催年の2年後に行なうことが閣議決定された。政府は、来年4月にも海洋放出を強行することを目論んでいる。オリ・パラが終わり、政府は漁業組合や各自治体などを説得しているが、猛反発を喰らっている。これらの人たちの生活破壊も、結局は原発事故の隠蔽とともに準備されてきたオリ・パラがもたらしたものだ。
 そして、この項の最後に怒りを込めて言わせていただきたい。

 この最終意見陳述書執筆中の6月17日、原発事故の被災者、避難者たちが損害賠償を求めた4件の訴訟に対して、最高裁は国家の責任は認めないという判決を下した。防波堤の高さは過去の基準で、原発事故は「想定外」だという。この裁判の原告3700名の内、110名以上が病気や自死で亡くなっている。この最高裁判決は死者をも冒涜したものだ。

 国家は原発を推進し、その事故にも関わらず、オリ・パラのために福島の人たちを棄民化し、国家を訴えた人たちの思いを今度は司法が踏みにじった。断じて許してはならない!

2、ホームレスの人たち(以下野宿者たち)に対する排除・追い出しは生存を脅かす
 私がオリ・パラに反対する大きな要因は野宿者たちに対する排除・追い出しである。

私が野宿者たちの支援活動に関わり始めたのは、1994年にさかのぼる。厳寒時期の2月、新宿駅周辺でダンボールや新聞紙一枚で寝ている野宿者たちを新宿区は突然強制排除した。私は、その当時、「いのけん」(正式名称「渋谷・原宿生命と権利をかちとる会」)のメンバーとして一早く現場に駆けつけた。

 「環境美化」として野宿者たちを追い出し、粗末な食事、劣悪な環境の施設に収容した。その余りにも人権を無視した行政の収容政策に対して、多くの野宿者たちが新宿に戻ってきた。

 しかし、排除・追い出しによりますます困窮する野宿者たちを新宿福祉事務所は放置したままだった。空腹の野宿者たちにカンパンだけを配り、病人や怪我人も区が指定したヤブ病院にしか診てもらえなかった。

 今では当時と比べれば生活困窮者は生活保護を受給しやすくなった。しかし当時は、65歳以上か余程の重篤患者しか生活保護を受けられず窓口で追い返された。生活保護法第2条の「無差別・平等の原則」は完全に踏みにじられていた。
 その当時まで、野宿せざるを得なかった人たちは、日雇いや飯場(建設労働者の宿泊所)の労働者が仕事を失ったケースが多かった。今でいう非正規労働者である。しかし1994年前後、バブルが弾けて首切りの憂き目にあった会社員たちも野宿に至り、その数は増々膨大なものになっていった。

 行政はしきりに、野宿に至るのは自助努力が足らない、自己責任だ、と言うが、企業が使い棄てたあげく労働者を路上に放り出したものであり、資本主義体制の持つ構造的な問題である。
 私は、1994年から95年に渡る年末年始、仕事がなくなり、行政も閉まる一年のうち最も厳しい時期の越年闘争の医療班のメンバーだった。多くの野宿者たちが体調を悪化させ、救急車を呼んでも同伴を許されず、病院で亡くなる事態が相次いだ。野宿者たちは私たち支援者とともに、「仲間の命は仲間の手で守る!」ことをスローガンにし、それは今も引き継がれている。
 その後も行政は野宿者たちを追い詰めていった。東京都は1996年1月、新宿西口歩道のダンボールハウスで暮らす100人以上の野宿者たちに対して、「動く歩道」を設置することを名目に強制排除した。追い出された野宿者たちは新宿駅ロータリー周辺に移動したのだが、基礎疾患のある多くの野宿者たちが無念にも亡くなった。

 私は、その年渋谷に活動拠点を移すのだが、渋谷福祉事務所の対応も悪かった。ある調査によると新宿と渋谷のそれは最低ランクだという。行政にさえ見棄てられた野宿者たちは、自らの命を自らの手で守るか、野垂れ死にしかなかった。
 野宿者たちはある日突然に野宿状態におかれたのではない。失業し、仕事がなく、貯金がつき、家族も友人も頼るところもなく、野宿に至った。それでも生きていくために雑誌拾いやアルミ缶集めなど、いわゆる「都市雑業」で収入を得ていた。しかし多くの自治体でリサイクル条例が作られ、雑誌拾いなどは処罰の対象となり、わずかな収入さえも奪われた。学歴がなくても働ける日雇いの仕事がなくなり、また、頼る家族がいなかったり、家族関係がうまくいかなかったりして、路上の方がましという人たちが野宿するようになった。
 私たち支援者ができるのは、野宿者同士が生きること・助け合うことを支援することに過ぎない。それは、ただ物をあげることでは決してない。支援者・野宿者は立場は違えども、仲間と呼ぶ。
 仲間の主な活動としてパトロール(夜回り)がある。夜、昔から野宿している仲間や新たに野宿する仲間のもとへ赴いて話し込みをし、健康状態や排除・追い出しの情報など丁寧に聞き、当事者とともに行動してきた。仲間にとっては生死に関わる問題だからだ。
 私はテント生活者の死や自殺者を何度も目の当たりにしてきた。例えば、渋谷区が「自立支援施設」を設置するという理由で、そこで寝ていた数人の野宿の仲間たちを追い出したことがある。その翌日、そのうちの1人の高齢の仲間が凍死した。

 亡くなっても引き取り手がない野宿の仲間の最期の別れに立ち会ったり、野宿の仲間が少年の襲撃により殺された現場に花と線香を手向けたりした。毎年8月の盆に仲間と作る夏まつりでは、その年渋谷で亡くなった野宿の仲間を追悼してきた。
 また、活動の1つに、飯を仲間とともに作りともに食う、共同炊事(炊き出し)がある。誰もが水平な関係であることを理念にして、ベニヤ板の上で食材を包丁で切り、大釜の炊飯器で米を炊いた。手伝う仲間は固定するのでなく、かわるがわる調理した。多少遅くてもいい、下手くそでもいい、まずくてもいい。仲間は味よりも共同作業にこだわった。
 私が最初に活動していた「いのけん」の後身が、今も続く「のじれん」である。1998年に私も発足メンバーとして関わり、正式名称は「渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合」とした。発足当時は「渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合」だったが、2000年代、相次ぐ排除・追い出しにより人が生きていく最低限の条件、即ち、寝ることと食べることが極度に脅かされてきたことで名称を変更した。

 当たり前の生存も生活も許してもらえない。特に、行政・企業のたび重なる排除・追い出しによって寝場所を奪われ続けた。炊き出しの場所も奪われかけた。
 行政の攻撃に対して私たちは、仲間のつながり、仲間の団結で闘ってきた。話し合いを重ね、ともに飯を食い、行政と何時間にもわたる交渉を何度もやり、人々に窮状を訴え、泊まり込み、カンパを募り、闘ってきた。東京各地だけではなく、全国の野宿者運動、さらにタイやフランスなど世界中の仲間とつながり、共に闘ってきた。当初はこちらの勢いが強かったが、しかし、官民一体の圧倒的な攻撃に後退を強いられた。 
 渋谷において具体的には、2010年、区立宮下公園でテント生活をしていた仲間たちに対する行政代執行。テントや生活品を強奪するだけではなく、仲間たちも強制的に排除、追い出した。

 2011年、寝場所拠点である東京都児童会館の玄関前閉鎖。耐震性にかこつけた会館の閉館を理由に、野宿者たちや生活保護などを管轄する都の健康福祉局が、よりによってそこで寝ていた仲間たちを排除、追い出した。

 2012年には区立美竹公園での行政代執行。長年、テント生活をしていた仲間たちは生活保護への移行を余儀なくされ、共同炊事拠点も近隣の狭い場所に移らざるを得なかった。その後も宮下公園下のテント生活の仲間たちが生活保護のアパート移行をエサに排除、追い出され、美竹公園も3分の1に削られた。

 前渋谷区長桑原とその後を引き継いだ現区長長谷部は、まさに渋谷において仲間たちの一掃を図っていた。なぜ、渋谷の野宿の仲間たちはこうも狙われるのか!?それは第4項に詳しく述べるが、その前に野宿者を生んだ構造的問題について述べたい。

3、そもそも野宿者は誰が生んだのか
 1990年代半ば、バブルの崩壊によって野宿者がそれまで以上に顕在化したことは前に触れた。それは景気変動というものではなく、あくまでも資本主義体制が生んだ当然の結果である。かつて石炭が石油にエネルギー転換がなされたおり、炭鉱労働者は大企業に見棄てられた。スクラップアンドビルドの論理である。

 1980年代に始まる新自由主義体制、いわゆるネオリベラリズムは世界を席捲した。日本においても市場競争のために民営化が促進され、大企業はその利潤のために躍起になり、民衆に景気浮揚と見せかけた。バブルは一時であり、その崩壊は決して偶然なものではない。またもやスクラップアンドビルドの論理で大企業や大銀行は統廃合され、多くの正社員たちが整理解雇された。日雇い、飯場と野宿を往還してきた労働者だけでなく、大企業の会社員も野宿に追い込まれた。
 次に野宿者が顕在化したのは2008年リーマンショック以後の状況である。最もその影響を受けたのは当時労働人口の3割と言われた非正規労働者であった。不安定雇用の労働者は、首切りとともに住居を失い、野宿寸前のいわゆるネットカフェ難民となった。

 政府は、野宿状態が本格化する前に生活保護を適用し、即居宅への移行を進めたが、これまでの野宿者への対応はしなかった。新たに野宿に至る可哀想な若者には同情するが、従来の野宿者は同情しないとしきりに煽った。
 そして今も続くコロナ禍。非正規労働者は真っ先に使い棄てられ、中小企業は倒産・廃業し、膨大な数の失業者が野宿に追い込まれた。炊き出しに並ぶ女性やこども、若者たちが増えていった。シングルマザーやそのこどもたちに貧困は顕著に表れ、若者たちは生きづらさからくる孤立感・疎外感から自殺か野宿かまで追い詰められた。しかしこの状況は、決してコロナパンデミックによるものではなく、これまでの社会システムがもたらしたものである。
 これまで野宿者を生んだ原因について述べてきたが、この項の最後に、なぜ野宿者のなかに生活保護を活用しない仲間がいるのかについて述べたい。

 まず、福祉事務所に行って生活保護申請をしたものの、稼働年齢の野宿者は相談窓口で、ハローワークや自立支援施設などを紹介されただけで追い払われる。労働市場からスクラップにされた野宿者を就労による「社会復帰」によってビルドさせる。また、所持金や財産確認、扶養者がいるかどうかを強制的に調査され、扶養者がいれば縁が切れていても連絡する。

 生活保護が決定しても「貧困ビジネス」といわれる劣悪な環境の施設に収容される。そこでは、門限8時などの人権侵害、不当に高い食費などの生活保護費のピンハネが横行している。また、寮長による入所者の所持金持ち逃げなども相次いだ。このような施設に長期に渡って収容され、アパートになかなか移してもらえない。これは明らかに生活保護法第30条「居宅保護の原則」から逸脱している。こういった施設では、重篤者の放置による死亡、入所者同士あるいは入所者による寮長の殺人などの事件も起きた。私は、寮長を殺した人に拘置所で面会し、寮長による酷いいじめの話を聞き、裁判も傍聴した。

 これらのことから野宿者は福祉行政に不審をいだく。二度と生活保護申請に行こうとは思わなくなる者が出るのも当然である。生活保護は権利であるにも関わらず、「水際作戦」と呼ばれるその申請を窓口で追い払うことがいまだに止まない。これは、生活保護をめぐる福祉行政の重大な瑕疵であり、野宿状態を長期化させる原因でもある。長期化すればするほど官民一体となった排除・追い出し攻撃にさらされ、その生存が脅かされる。

4、野宿者に排除・追い出しをもたらすメガイベントとジェントリフィケーション批判
 2020東京オリ・パラに向けた新国立競技場建設のために、明治公園で暮らす野宿の仲間たちは東京都・JSC(日本スポーツ振興センター)によって立ち退きの恫喝を受けていた。私たちは最大時40名いたテントなどで暮らす仲間のもとをパトロールし、健康や排除・追い出しのことを気にかけていた。私たちも新国立競技場建設の反対運動に参加した。

 都・JSCの立ち退き攻撃が強まり、そこに住む仲間たちの生活やつながりが破壊された。私たちは都・JSCと団体交渉を何度ももち、連日泊まり込み、監視を続けた。その最中、話し合いを無視して、いきなり鋼板(工事用の長い鉄の板)の設置が強行された。また、明治公園を管轄する都から無償で土地を譲渡されたJSCは、東京地裁に土地明渡しの仮処分申立を提訴した。

 そして2016年4月、ついに明治公園の仲間たちは仮処分によって強制排除され、その荷物は何台ものトラックで運ばれた。この追い出しや荷物の強奪について国家賠償訴訟を提訴し、のじれんの支援者も原告の1人として今も闘っている。
 振り返って1964年の東京オリンピックはどうか?関連施設の建設はもとより、新幹線や道路建設のための突貫工事が行われ、動員された出稼ぎなどの底辺下層の労働者が多数死亡している。2020東京オリ・パラでも同じく、労働者の過労死や、過労が原因の自殺が相次いだ。オリ・パラというメガイベントのたびに労働者の命は犠牲にされてきた。
 また、1964年大会のために霞ヶ丘団地に移転させられた住民たちは、今回のオリ・パラで立ち退きを再度強制され、長年つちかってきた生活基盤やコミュニティを破壊された。
 1970年の大阪万博の時は、寄せ場(労働者の供給地)である釜ヶ崎に全国の労働者が集められ、その建設工事に従事した。しかし万博の後、釜ヶ崎の単身労働者は狭いドヤ(宿)に押し込まれ、日雇いや飯場の労働がなくなると野宿する労働者が一気に増えた。
 今世紀に入ると、橋下大阪維新府政は2012年に西成特区構想を打ち出し、釜ヶ崎が真っ先に狙われた。野宿者の排除・追い出しが強化され、1970年、万博と同じ年に開設された「あいりん総合センター」は2019年に閉鎖された。さらに2020年、大阪府はセンター周りで生活している仲間に対して土地明渡しの仮処分を大阪地裁に提訴、2021年に仮処分は却下されたが、2020年の本訴の判決では府の申立を認めた。同時に判決が確定するまでは仮執行宣言は出してはならないとも言った。 
 その間にも大阪維新府政は、大企業と手を組み、釜ヶ崎においてリゾートホテル開設を皮切りにして特区構想を実現するためジェントリフィケーションを着実に進めている。2025年に予定されている大阪万博は野宿者の排除・追い出しの上に準備されてきたが、ジェントリフィケーションもまた野宿者の排除・追い出しの上で成り立っている。釜ヶ崎の仲間たちはそれに対して必死で闘っている。   
 話を東京に戻す。渋谷においては、前区長桑原は経済特区に指定されることで渋谷駅周辺の再開発を強行し、「100年の計」と豪語した。現区長長谷部も官民一体となって高層ビルを林立させ、グーグルやサイバーエージェントといった世界的大企業を呼び込んだ。宮下公園は今では屋上が公園で、下の総合施設には有名ブランド店が軒を並べる。金を出せるものだけが楽しめる公園になり下がった。

 そして、現在、仲間たちのテント拠点であり、のじれんの共同炊事拠点である区立美竹公園と隣接する都立児童会館跡を再開発し、ビルを建設しようという計画が進行している。野宿者の寝る場所と食べる場所を奪い、金をかけずにのんびり休む空間を人々から奪い、渋谷においてジェントリフィケーションを貫徹しようとしているのだ。それに対して渋谷の仲間たちは多様な戦術をもって闘っている。
 何度でも言う!仲間の生存を奪う排除を絶対に許さない!メガイベント、ジェントリフィケーションのごとき官民一体となった追い出しを絶対に許さない!

5、私はなぜ、聖火リレーイベント(以下、聖火イベント)に対して爆竹を鳴らさなければならなったか
 まず、最初に起訴状、並びに論告のいう「妨害」の対象について述べる。私の爆竹という抗議の対象は聖火イベントそのものであり、オリ・パラそのものであって、決して(「妨害」の「被害者」とされた)イベント会社S社社員のUさんの業務を対象としたものではないことをはっきりと言いたい。

 勾留状ではイベントの主催者として「公益財団法人東京オリンピックパラリンピック組織委員会事務総長武藤敏郎」とうっかり書面にしたためた。どこかからの圧力があったとしか思えないが、以降検察側は、起訴状はもちろん、Uさんの証言、証拠提出、被告人質問、論告にいたるまで武藤の名前を消した。証人申請も却下された。

 そう、私の抗議は武藤に向けられたものであり、IOC会長バッハ、首相菅、組織委員長橋本、東京都知事小池に向けられたものであり、その他の何ものでもない!Uさんはいわば、それら連中の人身御供にされたのであり、私の抗議を矮小化するための生贄にされたのだ!
 弁護側が提出した小金井市議会のオリ・パラ反対の意見書、オリ・パラを批判する新聞記事が証拠採用された。いかにオリ・パラが醜悪なものか、Tさん、鵜飼さんが証言してくれた。しかし検察側はこの公判において、そもそもなぜ私がオリ・パラに反対するのか、つまり行為の動機という重大な論点に少しも触れることはなかった。

 医療従事者や人々の反対を無視してオリ・パラは強行され、コロナ感染者を増大させ、その結果たくさんの人が死んだ。私が有罪というのなら、その死の責任を誰もとらないことを説明しろ!オリ・パラが人々の命よりも大切というのなら、その本質について少しでも述べてみろ!

私がなぜオリ・パラに反対するのか、その趣旨を再度述べる。
①国家による国威高揚のための競争主義。
②オリンピック貴族といわれる者たちの特権の維持。
③大手イベント会社、放送局などの巨大企業の利益の独占。
貧困層の住居の立ち退き、オリ・パラに反対する人たちに対する暴力と虐殺。
⑤ロシアによるウクライナ侵略などこれまでの戦争のたびに行われてきた政治利用。
⑥テロ対策、治安対策を名目にした警察、軍隊の装備、監視、管理システムの強化。
⑦自然や環境、聖地の破壊。
⑧優生思想に基づく支配と分断。
⑨創立期から現在まで続くジェンダー差別。
⑩大会のたびに積み重なる準備・開催費の負担。
 そして、オリ・パラというメガイベントにより仲間が排除され、追い出されることである。今回のオリ・パラ開催のために仲間が排除され、追い出されたことを断固糾弾する!私は、30年近く仲間の支援活動に関わってきたが、絶対に許すことができない!

 私の聖火イベントに対する抗議の意思表示について、検察官は論告でこう言った。イベントが終わる時間に行ったのなら抗議の対象がいないので、「後の祭り」ではないかと。そしてトランジスターメガホンやビラまきなど反対の意思を示す穏当な代替手段があったにも関わらず、爆竹という意思表示はいけない、と。

 「後の祭り」など余計なお世話である!昨年7月16日、コロナ急増の中、オリ・パラはまだ始まってもいなかった。だからイベント終了後に抗議しても、十分に意味はあったのだ。同時に私は、行動には様々な方法があり、多様性があると思っている。検察官にトラメやビラまき以外やるなと言われる筋合いはない!

 その上で、こう指摘したい。検察官の言うところの「穏当な手段」によるオリ・パラ反対の抗議行動は、「表現の自由」の下で本当に保障されていたか?絶対にそうではない!

 オリ・パラ反対の行動は、大量の警察官・機動隊・自衛隊まで動員して圧殺されたではないか!

 長期間の道路規制と会場付近の立ち入り禁止など過剰警備が行われ、公安は歩道上で面割りを行って反対する者の通行を妨害した。「一般人」は通れるが、「反対の人」は通れない歩道が会場の周りに広がった。新国立競技場の近くで暮らすオリ・パラに反対してきた友人は、近所に出かけるのにも警察の尾行がつき、通行を妨げられ、日常生活に大変な支障が生じた。聖火リレーに水鉄砲で抗議した人、パラリンピック開会に抗議した人など、全く「穏当」な抗議にも警察は逮捕で応じた。オリ・パラ反対の情宣活動をする人は大量の公安警察に常にカメラ撮影され、大きな精神的苦痛を被った。

 反対運動に参加した仲間たちが告発するこれらの過剰警備・人権侵害の事実は、インターネットなどでもたくさん記録されている。検察は「穏当な反対の意思を示す代替手段があった」などと言うが、これ自身が権力によるオリンピック弾圧の実態を覆い隠すための虚偽のベールである。   
 私は、持病が悪化して体調をくずし、オリ・パラ反対の行動に十分に参加することができなかった。しかし、私の地元に隣接する市部の武蔵野から聖火を区部にリレーされることを止めたかった。そのために爆竹を鳴らすという自分なりのささやかな抗議をした。

 そもそも爆竹は、花火のような玩具で人に危害を加えるものではない。私もそうだが、傍聴人も弁護人も検察官も裁判官も、こどもの頃遊んだ人はいるだろう。私は聖火イベントに対する抗議として爆竹を鳴らしたが、誰一人を傷つけるつもりはなかったし、検察官も論告の中で怪我人等はなかったと言っている。私は聖火イベントに抗議しただけだ!それでも爆竹は穏当な手段でないとすれば、どんな手段をとればよかったのか!?菅や小池、武藤らは、デモによる抗議も、医療従事者の声も、都民の8割の反対世論も無視するだけだったではないか!

 

天安門を見よ!
 民主化を求める学生、穏当な手段をとった学生、市民、労働者たち多くの人民に対して、軍は虐殺したではないか!
 香港を見よ!
 弾圧の強化に穏当な手段で抗する多くの人民が、拘束されたではないか!
 そして現在、ロシアの地で何万もの人民が逮捕も辞さず、極めて穏当な手段でウクライナ侵略戦争反対の声をあげている!
 私は、例え、彼たち、彼女たち、人民が穏当な手段を超えても、闘う人民を全面的に支持し、連帯する!

6、まとめとして
 (「被害者」とされた)Uさんは証言で、聖火リレーイベントは「(滞りなく)基本的には終わりました」「おおむねはうまく進行しました」と言っている。しかし、私は、「威力業務『妨害』罪」に問われ、不当逮捕され、不当起訴され、不当にも139日間身柄を拘束された。

その中で、「バクチク無罪!五輪有罪!」との仲間の声、「自分はできないけれどよくやった!」との声に励まされた。多くの人たちのカンパ、檄文、差し入れなどが獄中生活の大きな支えとなった。本当に感謝している。この場であらためてお礼を言わせてください。

 最後に、竹下裁判長、朝倉裁判官、田中裁判官に問う!

 本当に裁かれるべきものは何なのか?本当に裁かれるべきは誰なのか?私は、その答えを聞きたい。
 私は、聖火リレー、オリンピック・パラリンピックに抗議して爆竹を鳴らした。
 例え、いかなる判決がくだされようとも、人民の名において私は完全に無罪であることを宣言する。
 以上。

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武蔵野五輪弾圧裁判判決
9/5(月)14:30集合・前段集会、16:00開廷
東京地裁立川支部

最終意見陳述をする黒岩さんと竹下裁判長・朝倉裁判官・田中裁判官

最終意見陳述中の黒岩さん