武蔵野五輪弾圧救援会

2021年7月16日に東京都武蔵野市で行なわれた五輪組織委員会主催の「聖火」セレモニーに抗議した黒岩さんが、『威力業務妨害』で不当逮捕・起訴され、139日も勾留された。2022年9月5日の東京地裁立川支部(裁判長・竹下雄)判決は、懲役1年、執行猶予3年、未決算入50日の重い判決を出した。即日控訴、私たちは無罪判決をめざして活動している。カンパ送先⇒郵便振替00150-8-66752(口座名:三多摩労働者法律センター)、 通信欄に「7・16救援カンパ」と明記

業務に何の支障がないのに業務妨害罪を適用すれば表現行為の取り締まりになってしまう…最終弁論要旨(後編)

第7回公判、黒岩さん


第3 被告人の本件所為には違法性が認められない


1 「2020東京大会」に抗議する意思表示としての被告人の行動
(※救援会注:以下、オリ・パラの歴史的性格・問題性については全面的に鵜飼証言を参照しています)

 ⑴ 被告人の抗議の対象=「2020東京大会」の開催
   ア 「2020東京大会」とは
     2021年の夏は、新型コロナウイルス感染症とオリンピック・パラリンピックで明け暮れたといえる。7月ころから新型コロナの「第5波」が訪れたといわれ、8月13日には、都内で5773人と過去最多の感染者数を記録した。ちょうどこの時期は、2020東京大会開催時であった。東京を中心に、7月23日から8月8日までの17日間、第32回夏季オリンピック大会が、8月24日から9月5日までの13日間、第16回夏季パラリンピック大会が開かれた。1964年大会以来57年ぶり2回目の東京での開催だった。
     コロナの世界的流行を受け、2020年夏の開催日程から1年延期となり、さらに、パンデミックによる「緊急事態宣言」下に「無観客」で開催されるという異例尽くめの大会となった。
   イ 近代オリンピックそのものに内包される問題
     鵜飼証人の証言により、そもそも、1986年ギリシャアテネで第1回が開催された近代オリンピックは、国民統合の新しい思想を生み出したいと考えたフランスの貴族クーベルタンの提唱により行われたものであるが、その出発点から、身体的優越性を価値とみなす優生思想や植民地主義が背景にあり、その本質において「平和の祭典」などではありえないことが明らかにされた。現在も、オリンピックには社会統合の機能が期待され、現在のオリンピック憲章が文言の上では否定しているにもかかわらず、開催国は常に国威発揚の機会として大会を利用してきた。
   ウ 「反五輪」という思想
     このようなオリンピックに対しては、すでに創設の時期から多くの反対意見が存在した。特に、オリンピックが商業化し、メガイベント化した1980年代以降には、開催都市や開催国の住民らに多くの負の影響をもたらす側面があることが広く知られるようになった。
     大会が行われ大規模な施設が作られるたびに生じる大資本による都市の再開発、それに伴う貧困層の都市部からの排除、開催を名目とする監視や治安法制の強化、計画時から膨れ上がる開催費用、大会開催後の大規模施設の廃墟化やその維持のためにかかる多額の費用、勝利至上主義によってスポーツ界にもたらされたドーピングや選手の人権無視などの歪みなどは、大会開催の都度、問題にされてきた。そのため、開催地への立候補について住民投票が実施され、都市の立候補が否定されることも続いた。
     2008年の以降の夏季・冬期の全ての大会について、開催国の内外で大きな異議申し立ての運動が起きた。2019年7月には東京に、今後五輪開催が予定されているパリとロサンゼルスばかりでなく、開催後も運動を継続しているリオデジャネイロと平昌からも反対運動の活動家が多数来日し、集まって交流が行われるということもあった。現在のオリンピック・パラリンピックは開催地の貧しい住民たちにとって災厄でしかないという認識は広がっており、「反五輪」という思想は世界に広がっている。

 ⑵ 本件イベントの位置付け
   ア オリンピックにおける「聖火リレー」の象徴性
     よく知られているように、「聖火リレー」は、1936年「民族の祭典」とされたベルリン大会でナチの宣伝省によって立案され、ドイツの組織委員会によって初めて実行されたもので、ドイツと古代ギリシャの間のつながりを誇示する象徴とされた。そして、その地域は、リレー後にナチスドイツに侵略されていったため、侵略の下調べの調査に使われたと言われることが多い。
     ベルリン五輪後も、聖火リレーはオリンピックの正統性を象徴するものとして、実施され続けた。受け継がれてきた火を開会式の最後に聖火台に着火することで五輪が開幕するというスペクタクルが、オリンピックの1つの象徴となった。そして、聖火リレーは、特に開催の準備期間において「世紀の祭典」が近づいたことを告げ知らせ、国民的一体感の高揚の輪に加わることを人々に呼びかける儀礼として、全体主義的な効果を持つものとして機能する。
     そのような象徴的意味を有するものだからこそ、聖火リレーに対してはこれまでも抗議のアピールが多数行われてきた。以前はギリシャのオリンポス市から陸路開催地まで運ばれていたリレーは、2008年の北京大会の際に、聖火が通過する各国の開催反対派によるリレー妨害が多発したため、ギリシャから直接開催国へ空輸されることに変わった。
     「聖火」という言葉は、当時のドイツの同盟国であり、次回予定国だった日本で流布したものであり、現在なお使用されているのは日本を含む漢字文化圏のいくつかの国に限られている。このことからもわかるように、日本においては、特に聖火リレー古代ギリシャとの強い関連性を意識させるものとして重視されてきた。
   イ 本件イベントの開催趣旨
     本件イベントは、A証人によれば、聖火リレーが東京都は公道が中止ということになりましたので、ステージ上で、走る予定だったランナーの人たちが、トーチキス、聖火などを繋げるというのを見ているだけ」のもので、「公道で実際にできなかった聖火リレー」の代替イベントであった。つまり、本来、公道をランナーが走り、それをつないでいく様子を広報することによって、開催に向けた盛り上がりを醸成していくはずだったのに、コロナ禍でそれを実施できなくなり、しかし、大衆の気分を盛り上げていきたいという大会組織委員会が、どうにかして大会の象徴である聖火を使う「苦渋の選択」として行われたのが、本件イベントを含む、多くの都市で行われた「トーチキス」関連イベントだったといえる。
     具体的な内容としては、調布市三鷹市武蔵野市の順番で、ステージ上でのトーチキスを行い、聖火皿への点火及びフォトセッションを行うというものであり、本件公道を走る予定だったランナー以外にランナーの関係者、本件イベントの周辺自治体、すなわち、調布市三鷹市及び武蔵野市の関係者、組織委員会が招待した人が参加した。そして、会場は、被告人の自宅から近い武蔵野陸上競技場であった。
     つまり、本件イベントは、2020東京大会を盛り上げて祝祭気分を醸成するという目的が大衆に向けても明らかにされた上で行われた、2020東京大会の前哨としての位置付けを有するイベントであると同時に、被告人にとっては、自らの生活エリア内で行われた、2020東京大会に対する自分の意思表明を行うのにもっとも適した舞台ともいえる。
   ウ 反対の意思表示を行うための公共的空間
     本件所為が行われた場所は、武蔵野陸上競技場に隣接する武蔵野総合体育館の敷地に接する西側の歩道上であり、閉鎖的な空間ではない。同所は、市役所を始め、公共施設複数が近接して所在しているため、歩道に接する車道はかなり交通量が多いが、歩道と車道とは区分され、広い歩道スペースが確保されており、エリア一帯が公共的空間として機能しており、人が滞留しても全く危険性がないような場所である。
実際に、被告人が本件所為を行った時点では、B証人を含む、イベントに反対する市民らが、プラカードやバーナーを所持して通行人やイベント参加者に示したり、拡声器を用いて話をしたりする態様で、抗議行動がまさに行われていた。
     このような場所は、さまざまな意見が披露され交換される可能性のある公共的空間としての性質を有する。そして、被告人にとっては、前述したようにいわば「地元」で2020東京大会に対する抗議の意思表示を行うには絶好の場所だった。


 ⑶ 2020東京大会開催に関する様々な意見の表出
 2020東京大会については、前述したようなオリンピック・パラリンピックに共通して指摘されてきた問題点のみならず、特有の、ただしオリンピック・パラリンピックの本質と密接不可分な、多くの反対の根拠が存在する。このことについては、鵜飼証人、B証人及び被告人が法廷で明らかにした。
   ア 「復興五輪」招致の欺瞞
     2011年3月に起きた東日本大震災は、オリンピック・パラリンピック開催の問題の政治的意味合いを複雑化・深刻化させた。政府の招致計画への関与は2012年12月に政権に復帰した自民党の第二次安倍内閣のもとで本格化したが、政府は、震災と福島第1原発事故によって引き起こされた危機的な社会状況を突破する目的で、五輪開催に戦略的な位置づけを与えた。
     地震津波による甚大な人命の喪失、生活基盤の無残な破壊に見舞われた被災地の現実、再臨界の回避と廃炉作業だけで数10年を要する原発の廃墟を前にすれば、被災者が真に望むかたちの復興作業のために、可能なかぎり多くの社会的リソースを集中して対処すべきであることには、議論の余地はなかった。しかし、実際にはこの当然の意見は無視された。東京都と政府は、被災地の現実に配慮することもなく、「復興五輪」を旗印に掲げて招致運動を展開し、なりふりかまわぬ招へいに邁進した。
     特に安倍首相は東京招致が決定した2013年9月のブエノスアイレスにおける国際オリンピック委員会(IOC)総会で、「原発事故は完全に制御されている」という、当時の東京電力の幹部でさえ耳を疑ったという明らかな虚偽を公言した。この嘘は、後に露見する賄賂工作とともに、五輪の開催権を手に入れるために、招致委員会が手段を選ばない活動を展開したことを如実に示すものであった。
   イ 新国立競技場をめぐる混乱と収奪のもくろみ
     2006年、東京都(当時石原慎太朗都知事)は2016年大会の開催都市に立候補した。この時点の招致案では、歴史的風致地区に指定され、厳しい建築制限があり、国有地、都有地、民有地が複雑に入り組んだ神宮地区では再開発が難しいので、メインスタジアムは晴海に建設するとされていた。この招致活動は失敗した。
     しかし、2005年に日本体育協会会長に就任し、2015年まで日本ラグビー協会会長でもあった森喜朗元首相は、「ワールドカップ開催の条件とされていた観客8万人収容可能なスタジアムの建設を、霞ヶ丘地区の国立競技場の建て替えによって実現する」という提案を行うことで、東京都に再立候補を働きかけた。
     この計画は神宮外苑地区全体の再開発をめぐる大規模な利権の発生と結びついていたことが後に判明した。現在、都市計画上の制限を緩和し、神宮外苑地域の歴史的景観を作ってきた樹木1000本を切り倒すという、同地域の再開発が改めて問題になっているが、大規模集会やイベントを行える場所として市民に親しまれてきた都立明治公園の廃園、その公園を生活の拠点としていた野宿生活者の排除、都営霞ヶ丘アパートの解体や住民に対する移住の強制は、東京都が2020東京大会開催に立候補した時点で織込み済みだったといえる。
   ウ コロナ蔓延による市民の忌避
     2020年初頭から、新型コロナウイルスは、その正体が十分明らかにならないままに多くの人々を犠牲にしながら、世界中に蔓延していった。
     にもかかわらず、3月16日、安倍首相はG7会議において、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として、完全な形でオリンピック・パラリンピックを開催する」と宣言し、あくまでも開催すると国際的に公約した。安倍首相は、当時、公明党代表に対して「とにかく聖火が日本に来ることが大事なので、それまでは、このスローガンを世界に発信して中止論を押さえ込む」と発言していた(鵜飼調書)。まだワクチンも開発されず、ウイルスの性質についても研究の進んでいないこの時点で行われたこの発言は、東京を始めとする日本国内に住む市民や海外から東京に来訪する市民の健康や生命よりも、メガイベントとしての2020東京大会の開催をあくまでも優先するとの姿勢を示すもので、オリンピック・パラリンピックの意義については認めている人たちにも衝撃を与えた。
     しかし、同月24日には、トーマス・バッハ国際オリンピック委員会会長と安倍晋三首相との間で、2020東京大会の1年延期が合意された。
     日本国内での新型コロナウイルス感染拡大に伴い、2020年中には、2021年の2020東京大会開催に危惧を有する市民は、増加していった。命や健康が重視されるべき、危険ではないかという意見や、コロナ禍で市民生活に深刻かつ回復困難な影響が生じている時に五輪どころではないという意見などが、ネット上はもちろんのことメディアを通じても広がった。
     そして、2021年4月25日、コロナ感染拡大にともない、東京都など10都道府県について第3回目の「緊急事態宣言」が発令された。この宣言以降は「緊急事態宣言で自粛せよと言われているんだから、オリンピックは強行できないだろう」という声が、市民社会にも広がっていた。

   エ 運営上の混乱
     2020東京大会は、大手メディアがすべてスポンサー企業に名を連ね、テレビでは国威発揚のための五輪宣伝が行われた。それにもかかわらず、運営の混乱や隠蔽された違法性の存在を窺わせるような事象についても、多数報道されることとなった。 
     最初の大会エンブレムは盗作であることが判明し廃案となった。新国立競技場建設に従事していた23歳の下請会社の現場監督がパワハラを告発する遺書を残して過労自殺した。そして招致活動において国際オリンピック委員会内で票を買ったという賄賂疑惑のため、2016年からフランスの司法当局の捜査対象となっていた竹田恒和日本オリンピック委員会会長は、五輪開催予定の前年に退任を余儀なくされた。そして、大会開催前の2021年6月7日には日本オリンピック委員会の会計担当の幹部が自死し、憶測をよぶことにもなった。
     2021年2月2日、森喜朗オリンピック・パラリンピック組織委員会会長は、「新型コロナがどんな形でも五輪は開催する」と発言したが、その翌日、「女性は競争意識が強い」「会議に時間がかかる」といった理由を挙げて、女性理事の増員に否定的な姿勢を示すなど、ジェンダー平等の規範を真っ向から否定するような発言を行った。この女性蔑視発言に対して国内外から強い批判が起こり、同月11日、森氏は辞任に追い込まれた。
     また、聖火リレー開始の1週間前には、オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出面の統括責任者である佐々木宏氏が、女性タレントの容姿を侮辱するような演出案を提案していたことが明らかになり、翌日辞任した。

   オ 開催反対の声の全国的広がり
     2021年初頭には、オリンピック開催を中止ないし延期すべきであると考える人の割合はおよそ8割に達していたが、五輪開催に反対する世論は、同年2月の森会長辞任の時期ころから大きく広がっていった。聖火リレーのランナーに予定されていた著名人の辞退が相次ぎ、同月17日には島根県知事が県内の聖火リレーの中止検討を発表、オリンピック自体も中止すべきであると発言した。
     緊急事態宣言発令後は、医療従事者によるオリンピック中止要請がさまざまなかたちで発信されるようになったが、同年5月には来日したバッハ会長が「五輪開催のために誰もが犠牲を払うべき」と発言し、市民の反発を招いた。さらに、同年6月2日、政府の感染症対策分科会の尾身茂会長は、衆議院厚労省委員会で東京2020大会について、「今のパンデミック状況でやるのは、普通はない」と述べたが、丸川珠代五輪担当大臣は、大会中止を検討する意思はないことを示した。
     一方、日本オリンピック委員会理事の山口香氏は、「国民の多くが疑義を 感じているのに、国際オリンピック委員会も日本政府も大会組織委も声を聞く気がない。平和構築の基本は対話であり、それを拒否する五輪に意義はない」と述べ、東京2020はもはや「平和の祭典」とは言えないという認識を示した(5月19日)。同月下旬、信濃毎日新聞西日本新聞沖縄タイムス琉球新報などの地方紙が、また東京五輪のオフィシャルパートナーである朝日新聞も、社説で相次いでオリンピック・パラリンピックの中止を要請するに至った。また、元日弁連会長の宇都宮健児弁護士が呼びかけた中止を求めるオンライン署名には、5月14日に提出した第1次で35万筆、7月15日に提出した第2次で45万筆を超える署名が集まったと報じられており、きわめて広範な人たちが積極的に反対の意思表示を行った。
     以上のような状況からは、2020東京大会をめぐっては、まさに国論二分状態と評価できるような状態が存在した、ということがいえる。

 ⑷ 権利のための闘争 
    憲法第12条が「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と述べていることからも明らかなように、権利及び自由は、憲法典に書き込まれることによって自動的に獲得できるものではない。憲法自らが「権利のための闘争の義務」を市民に課しているのである。
    2020東京大会が上述したような問題点をはらんでいることは、さまざまな観点から広範な論者から指摘されており、書籍や雑誌などでもそのような意見を採り上げた特集が行われていた。また、反五輪の運動は、国際的な反対運動ともつながりながら、招致運動中から展開され、運動の中で反対論も深化していった。2020東京大会は、政治的問題をはらみ、国論を二分するような状態のもとでその開催の是非が問われるようなイベントだったのである。仮に本件イベントがアイドルのコンサートだったと想定してみた場合、その違いは明らかであり、2020東京大会の招致・開催の是非や開催方法についてはきわめて政治性の高い、思想的な問題であり、このイシューについて意思表示をすることは政治的な表現に含まれ、その表現の自由は、一般的な表現行為以上に高度に保護されねばならない。
    しかも、オリンピック招致については、住民投票が必須とされているものではなく(もちろん住民投票が行えないわけではなく、そのような機会が保障されることがめざされるべきではある)、議員や首長の選挙を通じて間接的に意思表示をするしかない。また、いったん招致が決定されてしまうと、開催までの間にどのような事態が発生したとしても、開催を止める方法が限定されてしまう。
    実際に、2020東京大会では、住民は1回も直接的な意思表示を行っておらず、招致がもくろまれた後に、震災、コロナウイルス感染拡大というような、社会全体を震撼させるような事態が発生しているにもかかわらず、開催を見直す機会は与えられなかった。
    そのような中で、2020東京大会に反対するという意思表示を行うためには、直接的な表現を行うしかなく、被告人は「権利のための闘争」として本件所為に立ち上がったのである。


2 被告人の本件所為の表現としての性質

 ⑴ 被告人のこれまでの活動

   ア 被告人は、人生を通じて、野宿者と共に生きる活動に精力を傾けてきた。
     特に、1998年からは、「渋谷・野宿者の生活と生存を勝ち取る自由連合」(のじれん)という団体で活動し、共同炊事、夜回りによる生活状況の確認や応相談、生活保護申請同行などの活動に従事してきた。
   イ その活動の根幹には、支援者・野宿者という区分ではなく、共同で支え合うと言う理念があり、「命と健康を守る安否確認と共に、やはりいろいろなところで追い出しの動きや排除の動きが強まると共に、私たちが支援としてそのまま行動に移すというふうなところではなく、その野宿者と共に、この追い出しや排除に抵抗すると、それを止めていくというふうな運動を、運動というか活動をしていました」
 ⑵ 被告人の活動の延長上にあった「反五輪」の行動
     新国立競技場の建設では、都立明治公園内「四季の庭」で長年にわたって起居してきた野宿生活者が、問答無用の断行の仮処分の手続を利用して追出しが強行された。都営霞ヶ丘アパートも取り壊され、暮らしてきた高齢の住民のコミュニティが破壊された。
     被告人は、「そこに居住している、あるいはその施設の建設に、立地に住む野宿者が排除されることが、(2020東京大会反対運動に参加した)主な理由です」と述べ、緑があってテントを張りやすく定住する者も多かった、都立明治公園内の四季の庭に、最大で40名くらいいた野宿生活者が、新国立競技場の新設工事により追い出されることをどうにかしたい、という気持ちから反対運動に参加したことを明らかにしている。
     メガイベントにおける都市の「浄化」、困窮者の追い出しは、世界各国で行われているが、被告人は、2020東京大会でも、野宿生活者たちが、野宿生活者に対して初めて使われた断行の仮処分という手法がとられ、1回の審尋期日を経て、「大量の警備員や警察官が動員されて、中にいる人たちを、その持ち上げたりしまして、あるいは、こう、荷物を外に持ち出して、強引に持ち出したりするようなこと」をするというような手法で追い出されたことを実際に経験してもいる。
     つまり、被告人にとって、2020東京大会に反対の意思表示をすることは、自分自身がずっと行ってきた活動からそのまま派生する、いわばアイデンティティから切り離すことのできないような自己の尊厳に関わるような思想の表出でもあった。

 ⑶ 現実に被告人が参加した市民による活動
     被告人は、2021年6月6日に行われた、2020東京大会に反対する意思表示をするために、吉祥寺で行われたデモのための公道利用を申請し、自身もこのデモ行進に参加しているが、被告人が反対運動に参加するようになったのは、招致決定前からである。
    特に、2013年、東京での開催が決定された後に行われた調査団の調査に際して、代々木公園に近接する道路の歩道にある野宿者のテントや荷物が排除され、移動されて、何もなかったかのようにされたことについて、調査団に対する抗議行動を行った。
    本件における本件所為は、そのような反五輪の活動の一環として行われたものである。


⑷ 今大会聖火リレーに対して行われた抗議行動
   ア 今大会聖火リレーの特徴
     2021年3月25日、福島県楢葉町広野町所在のJヴィレッジから聖火リレーがスタートした。Jヴィレッジは東京電力株式会社が福島第1、第2原子力発電所の立地周辺自治体に寄贈したサッカー練習場で、原発事故以後は収束作業の拠点に転用されていた。出発地点に選ばれた理由は、「復興五輪」という理念を象徴的に現わすものとされたからだ。リレーのコースは、浪江町水素ステーションなど国の政策の広告塔的な施設を点と点でつなぐ形になっており、復興工事が完了した表通りのみを通過するであった。このことによって、いまだ復興に程遠く除染も不十分で住民の帰還率が低い苛酷な地域の現実を覆い隠すイメージ操作が行われた。
   イ 聖火リレーに対する抗議の意思表示
     同年4月1日、長野市に到着した聖火リレーに対し市民による反対の声が挙がった。NHKはライブストリーミングによる中継中、この抗議の声を伝えないために30秒間音声をオフにした。
     同月、沖縄本島で行われた名護市の市民会館周辺では市民が会場前で抗議行動を行った。
     また、立件されてはいないが、2021年7月4日、茨城県内の公道でのリレーに対して、おもちゃの水鉄砲から水を発射した抗議行動では逮捕者も出た。
     このように聖火リレーに対する抗議は、さまざまな形で全国に波及し、被告人も個人的にそれらの情報に接し、影響を受けていた。

   ウ 抗議の意思表示を行った者に対する弾圧
     しかし、一方で、これら抗議の声を上げる者に対する弾圧も厳しかった
B証人は、2013年初頭から「反五輪の会」のメンバーとして活動していたが、デモや街頭での訴え、集会や学習会、国内外でオリンピックに対する反対運動を行っている人たちとの情報交換・交流、イベントに対する抗議活動などを行う中で、重警備を目にし、さらには、「警察官に取り囲まれて連れて行かれる人に駆け寄ったところ、警察官の人に突き飛ばされて、地面に後頭部を打って出血」するという経験をしている。

⑸ 「象徴的言論」としての本件所為
   ア 「象徴的言論」とは
    (ア)象徴的言論(シンボリック・スピーチ)とは、特定の信念を伝えるための行動の形をとる非言語的コミュニケーションの一種とされ、あるメッセージを、見る人に、それと分かる形で伝える行動をさす。具体的には、バリケードを設置する、旗やバーナーをふる、旗や絵や物(たとえば徴兵カードや政府の指導者を模した人形)を焼く、裸になるなどが典型的なものとされる。
    (イ)最高裁は、猿払事件で、意見表明そのものの制約と、その行動のもたらす弊害の防止を狙いとする制約を区別して論じ、言論と行動を二分して規制を区別する考え方を前提としているようにもみえる。
       しかし、言葉や文字といった純粋な言論に基づく伝達手段のみならず、外形的な行動を伴うことによって、より端的に効果的に第三者にアピールできるということがあり(そのこと自体は誰も否定できまい)、表現行為も第三者に伝えることが目的である以上、何らかの行動が伴うことは例外的なことではなく、「行動を処罰しても意見表明そのものが傷つけられない」という言い方は、単純な二元論から導かれた表現内容中立規制があり得ることを前提として、多様化し続ける表現手段を単純に分類し処罰の対象とすることになり、結局表現の抑圧につながるのではないかが危惧される。
       象徴的言論が、上述したとおり、思想の伝達を目的とした言論によらない態度によって、何らかの思想や見解を表明するものであるとすれば、そこで用いられる象徴とその象徴が用いられた文脈(コンテクスト)から、表現者が表明しようとした主張や見解の内容が明らかになれば、思想を伝達しコミュニケーションする効果を生じるものであって、言語記号と同列に位置付けることのできる言論機能を有する象徴といってよい。
    (ウ)裁判所が、言葉以外の態度に思想伝達機能が備わっていると認めるかどうかについては、その表現者の態度に何らかのメッセージを伝えようとする意図が存在し、周囲の状況においても、それを受け取った者たちによって、そのように理解される蓋然性が高ければ、言語の使用がなかったとしてもそれは「表現」として保護されるべきである。
   イ 爆竹を利用した意思表明
    (ア)今回の本件所為は、上述したような位置付けがなされている本件イベントの開催にあわせて、その開催場所に近接する出入り口付近で、爆竹を鳴らすなどしたものであるから、一般人がみれば、これが2020東京大会に反対するというメッセージを現場で表現したものであることは、一見して明白であるから、当然に「象徴的言論」にあたるといえる。
   (イ)この点について、鵜飼証人は、「私は、今回のオリンピックは、先ほども述べましたように、社会的な弱者、それから災害の被害者を棄民化する、非常に暴力的な性格を持っていたと思います。黒岩さんは、まず、長年、東京の野宿者の支援に関わってこられて、その視点から、今回のオリンピックがどのように招致が決定され、どのように開会準備がされてきたのか、つぶさに御覧になってこられたと思います。しかも、それは、8年間と、非常に長い時間なわけですね。そして更に、そこにコロナという事態になり、これでもオリンピックは中止にならないと。そして、多くの人が自宅で亡くなっていくような惨禍が起きている中で、どうしてオリンピックを祝うことができるのかという、非常に深い憤りをもたれていたのではないかと思います」と、本件所為の「象徴的言論」としての性質をとらえている。
   (ウ)また、門前に立って、被告人とは別途に抗議行動を行っていたB証人も、「東京オリパラを強行をしなければ失われなかった命というのがあると思っていて、コロナ感染患者に対しての医療がもうちょっと、東京オリパラをやらずにそちらのほうに注力できれば、死ななかった人がいると私は思っていて、それに比べて、黒岩さん人を傷つけていないし、というふうに思います。当時、あの当時はほんとに8割の人が東京オリパラに反対しているとも言われていて、言われていても、やっぱり声を上げると言うことは難しかったし、声を上げても聞こえないふりをされていたということがあって、そういうときに爆竹の音というのは、私にとっては、そういう閉じ込められた声を解放する感じの音でもあった、そういう表現だと私は受け止めています」と述べており、閉塞状況のもと、被告人の届けようとしたメッセージは、被告人の意図したとおり、広がったといってよい。

3 本件所為と「表現の自由」との関係

 ⑴ 表現の自由の優越的地位
   ア 日本国憲法は、個人の尊重(13条)を最高の価値とし、個々人の個性・思想のかけがえのなさの尊重がその本質に包含されている。思想はその本質上、外に発表されることを欲するものであるから、個人の尊重は、必然的に表現の自由の尊重を要求するものである。よって、個人の精神作用の所産を外部に発表する精神活動の自由である「表現の自由」は、個人の全人格的な発展、自己実現のために不可欠であって、人間の精神活動の自由の実際的・象徴的基盤として、人権の中でも「優越的地位」を占める。
     特に、政治過程においては、政治・社会に関する知識・思想などが不断に流通し、自分の意見を表明する権利が与えられ、他人の意見を聞く権利が与えられることなしに、選挙権を効果的に行使することはできないし、日常的に政治に参加し、政治に働きかける自由がなければ、主権者は代表者の暴走を次の選挙時まで忍従しなければならないことになるから、政治に関する多種多様な情報が自由に流通している状態を確保することが制度的に保障されていなければならない。また、政治的表現の自由は、他の全ての人権の成立・展開を支える原動力となるものであり、憲法上特別な価値付与がなされているといえる。さらに、多数派や支配層に対して批判的な表現が迫害にあってきたことは、歴史上明らかな事実であり、この点についても特殊な配慮が必要になる。
   イ よって、表現の自由の中でも、特に政治的表現の自由については特別な地位が認められるべきであり、このことは、判例・学説の等しく認めるところである。前述したとおり、被告人の表現は政治的な内容に関するものであり、政治的表現であることが十分に考慮されなければならない。

 ⑵ 表現手段の多様性と選択の自由
    ア 表現手段の多様性の意味
     大衆が利用できる表現方法としては、ネットへの投稿、集会や公道での発言や演説、ビラ配布・投函などがありうるが、それぞれにその伝播の範囲などに特徴がある。
     一方で、本件所為のようないわば大衆的示威行為ともいうべき「象徴的言論」には独自の意義があり、一方で、一定の場所の占有や第三者との接触を伴うことから、恣意的な公権力の規制を受けやすいという性格を有する。
     しかし、公権力が、「別な方法もある」ことを理由にして、表現方法を制約することは許されない。たとえば、「ビラまきが認められているのだからデモ行進を禁止してもいい」「街頭演説が認められているのだからビラまきを禁止してもいい」ということが不当であることは明らかだ。ある表現者にとって、その手段が特別な意味を有するものであるとすれば、その表現者にとってその表現方法をとること自体が表現の自由の内容である。表現内容は、その性質上、表現方法(表現の手段、場所)や受け手によって規定されるものだからである。
   イ 表現方法の選択の自由
     表現者は自分の伝えたいメッセージの宛先・内容にとって、もっともふさわしく表現しやすいと判断する表現方法を選択することができる。
     また、表現の自由の保障の機能として自己実現の契機を重視する立場にたてば、自己が伝えたいと望む情報を自己が望むような形で相手にメッセージとして手渡すこと自体が保護されるべきである。
   ウ 権力による表現方法の制約
     2020東京大会に対する抗議活動においては、前述したように、警察官らによる厳重な警備が行われることで、イベントに対する抗議行動や街頭宣伝が制約され、警察官らが抗議行動参加者に対して手を出して傷害を負わせると言うことまで生じていた。言論に基づいた行動が自由に行われるような状況にはなかったのが現実である。
     そうであるから、手段の選択の幅は広く認められなければ、実質的に表現の自由が保障された状態にあるとはいえない。
   エ 正当性判断の審査基準
     前述したように、本件所為は「象徴的言論」にあたる。これが処罰の対象とされる場合、それが正当行為として保護されるかに関する判断には、憲法適合性が判断される必要があり、その審査基準は、言論と同様に厳格な審査基準によって審査されなければならない。

⑶ 業務妨害罪と表現の自由の侵害
   ア 「業務」に着目した表現行為の封殺
    もちろん、業務妨害罪は、表現の自由の行使を直接規制するものではないが、同罪は構成要件に濫用の可能性がはらまれる犯罪類型であり、これを、市民的自由を抑圧する目的で、広範な捜査権限・起訴裁量のもとで適用してくることは、構成要件該当性が不明確な犯罪類型を新たに作り出すことと同じである。
    本来、価値中立的な法規を利用して、権力にとって都合の悪い言論を弾圧する。本来の趣旨とは離れて、法律が使われるという事態が生じている。
    表現行為の取締りを本来の目的としない法令を、表現行為の取締りに用いるという「脱法的行為」は、法律の重要な機能である「予測可能性」を著しく害する。今まで犯罪とは考えられてこなかったことが、ある日突然「市民的犯罪」として検挙される。この検挙の際、表現内容が問題とされたことはあからさまには示されないが、その本質的な目的が批判的言論の取締りであることを誰もが知っている。何が犯罪であり、何が犯罪でないのか、その境界が著しく不明確となってしまう、このような状況の中では、検挙を覚悟しなければ、批判的言論を発することができない。このことは表現者にとって、きわめて強い圧力となる。
    被告人を逮捕し、起訴することで、批判的言論に対する萎縮的効果が生み出され、2020東京大会に対する反対の意思表示を萎縮させ、表現を制限することになることは当然想定されており、むしろ、そのような効果をもくろんでいたことが窺われる。

   イ 業務妨害罪に問擬することで隠蔽された本質
    (ア)業務妨害罪は、旧刑法第2編第8章の「商業及び農工の業を妨害する罪」を前身とし、経済的基盤としての信用を保護する信用毀損罪と同じ章に規定されていることからすれば、本来、人の経済活動を保護法益とするものである。その保護範囲は、経済的範囲に限定されるものではないとしても、一定の社会活動を保護するものと評価すべきである。
   (イ)被告人の勾留状における「被疑事実」においては、「第32回オリンピック競技大会開催に伴い、公営財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長武藤敏郎が主催し、・・武蔵野陸上競技場において開催中の・・イベント」と本件イベントの内容が簡略に示されていたが、起訴状においては、その説明すら省略され、被告人が妨害しようとした業務については、「同社員らの整理誘導業務」(勾留状)、「同イベント参加者等の誘導、案内等の業務」(起訴状)のように、イベント自体ではなく、イベントの主催者から委託を受けた業者の使用人の業務とされている。しかし、被告人の主観的意図、本件所為から通常人が受領するメッセージからすれば、被告人が意見表明しようとした対象は「本件イベント」ないし本件イベントが付随するものとしてある2020東京大会なのであって、業者がイベント主催者から委託を受けていた、狭い「業務」に対するものではない。
   (ウ)近時、労働争議に関連して、労働組合やその支援者らが行う抗議行動について、抗議活動の制圧のために委託された警備員らの業務を妨害するものとして、「業務妨害罪」として立件する事案が相当数みられる。本件にも共通する問題だが、このように、本来、表現者の抗議の対象とは異なる、表現者により身近に接触する立場にある警備員や整理誘導員が行う「業務」が妨害されたと措定すれば、何らかの混乱が予想されるような事象について警備や誘導などの業務を委託された場合には、その事象そのものについてではなく全て警備誘導業務に対する妨害が成立する、すなわち、実質的には「業務が混乱なく何の問題もなく円滑に終了すること」が保護されるべき利益とされることになり、整理誘導業務従事者との間でなにかしらのトラブルが生じれば、それは、表現者が抗議の対象としていた事象(活動)に何の支障が発生しなくても、業務妨害罪が成立するということになる。
   (エ)しかし、このような事態は、本来の業務妨害罪が予定していたものではない。業務妨害罪の保護法益である「経済活動を中心とする一定の社会活動」を広く超えた「社会活動の平穏」を保護する結論になり、本件所為が有する社会的な意味、要保護性の本質を隠蔽するものとなってしまう。このことは、労働争議に伴う労働組合などの抗議行動やストライキに伴うピケットに業務妨害罪が問擬された例を想定すれば容易に理解できる。
   (オ)前述したとおり、本件所為は、業務妨害罪の構成要件該当性が認められず、仮に認められる余地があったとしても、本来業務妨害罪が予定していた法益侵害性がきわめて乏しい行為である。このような行為についてあえて業務妨害罪に問擬して刑事責任を問うことは、まさしく、表現者の表現活動の取締りを本来の目的としない法令を、表現行為の取締りに用いるという「脱法的行為」といえる。

⑷ 「正当行為」としての違法性阻却
    本件所為のこのような位置づけは法的にいえば、本件所為は「正当行為」として(違法性が阻却され)保護に値するものなのか。「正当行為」に相当しないと解することによって業務妨害罪の成立を認めることは、(業務妨害罪自体が法令上合憲であることは前提としても)適用上違憲の問題を生ずることになる。
    これまで論じてきたとおり、本件所為が象徴的言論にあたるものであり、これは憲法21条の権利行使として「正当行為」にあたり、違法性が阻却される。
被告人の行為について業務妨害罪の成立を認めることはできない。

4 可罰的違法性の不存在

 ⑴ 「可罰的違法性」について考慮すべき事情
   ア 「可罰的違法性」を論ずる意味
     藤木英雄教授は、可罰的違法性の理論とは、刑罰法規の構成要件に該当する形式外観をそなえているように見える行為であっても、その行為がその犯罪類型において処罰に値すると予想している程度の実質的違法性を備えていないときは、定型性を欠き、犯罪構成要件にはあたらないのだということを認めていこうとするものである。換言すれば、構成要件該当性、定型性と言うときには、形式的・外形的判断に留まらず、その罪において予想される、あるいはその罪として処罰に値するだけの定型的な実質的違法性-違法の軽重という量的意味のみならず、法益保護の目的からみた質的面を含めて-をそなえていることが前提とされていると解すべきだ、という主張である。具体的には、刑法の解釈につき、杓子定規な形式的解釈によらず、実質的観点から、合理的・縮小的解釈を行うべきだという主張であって、刑法葉法益保護のための最小限の害悪に止まるべきだという謙抑主義の立場と、実質的・合目的的解釈とをむすびつけたものである」と述べている(『可罰的違法性』(学陽書房・法学選書、1975年)9~10頁)。そして、「同じ犯罪構成要件にあたる行為であっても、違法性が非常に重いものもあれば、違法性が極端に軽いものもあることを認めることを前提とし、その上で、違法性の程度が軽いものについて、はたしてこれがその犯罪構成要件を定めたことによって法が処罰を予想するものだろうか、と言うことを問題にしようとするのが、可罰的違法性の理論の趣旨である」(同書12頁)。
   イ 可罰的違法性について考慮した裁判例の検討要素
     違法な行為であったとしても、その違法性が実質的に考察して処罰に値しない程度であることを理由に犯罪の成立を否定するという、可罰的違法性の犯罪論における機能は、実際の裁判例でどのように果たされているのか。
     前田雅英教授は、可罰的違法性を欠き無罪と結論づけた裁判例が、絶対的軽微性を理由とするものだけではなく、法益侵害行為が存するものの、それが一定の正当な目的を有する事案を対象としている」場合、「労働争議行為や抗議活動に際して行われたものであること、つまり、行為が一定の価値を担っていることが暗黙の内に加味されて、『軽微概念』が弛緩してくると推測される」(『可罰的違法性論の研究』(東京大学出版会、1982年)436~7頁)として、具体的には、①結果・手段の軽微性、②目的の正当性、③手段の相当性・必要性という各要素が検討されているとする(同書531~556頁)。
   ウ 表現の自由に関する最高裁判決補足意見
     なお、表現の自由に関連して本件所為の違法性について検討した、参照すべき最高裁判決が存在する。
    (ア)1984年(昭和59年)12月18日判決は、駅係員の許諾を受けないで駅構内において乗降客らに対しビラ多数を配布して演説を繰り返し、駅管理者からの退去要求を無視して約20分間にわたり駅構内に滞留した被告人らの行為について、鉄道営業法35条及び刑法130条後段違反が成立するとしたものである。同判決の伊藤正己裁判官の補足意見は、「他人の財産権、管理権・・の侵害が不当なものであるかどうかを判断するにあたって、形式的に刑罰法規に該当する行為は直ちに不当な侵害になると解するのは適当ではなく、そこでは、憲法の保障する表現の自由の価値を十分に考慮したうえで、それにもかかわらず表現の自由の行使が不当とされる場合に限って、これを当該刑罰法規によって処罰しても憲法に違反することにならないと解される」「ビラ配布の規制については、その行為が主張や意見の有効な伝達手段であることからくる表現の自由の保障においてそれがもつ価値と、それを規制することによって確保できる他の利益とを具体的状況のもとで較量して、その許容性を判断すべきであり、(中略)この較量にあたっては、配布の場所の状況、規制の方法や態様、その意見の有効な伝達のための他の手段の存否など多くの事情が考慮されることとなろう」という内容である。これも実際のところ、表現の自由が結果として規制される場合に、具体的な比較衡量が必要であるという立場にたったものといえる。 
    (イ)なお検察官は、上記補足意見について「パブリックフォーラムにおける表現行為として尊重されるべきものとして挙げられているのはビラ配布であり、火を点けた爆竹を投げるなどの行為は想定されていない」と主張する。
      しかし、前出補足意見は、ビラ配布行為に対する刑罰法規の適用の適否が問題となった事案であるからビラ配布行為に重点を置いて述べられているに過ぎない。同意見は、
      「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもつている。
      特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといつてもよい。
      一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくない。道路、公園、広場などは、その例である。これを「パブリツク・フオーラム」と呼ぶことができよう。
      このパブリツク・フオーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要があると考えられる。
道路における集団行進についての道路交通法による規制について、警察署長は、集団行進が行われることにより一般交通の用に供せられるべき道路の機能を著しく害するものと認められ、また、条件を付することによつてもかかる事態の発生を阻止することができないと予測される場合に限つて、許可を拒むことができるとされるのも(最高裁昭和56年(あ)第561号同57年11月16日第3小法廷判決・刑集36巻11号908頁参照)、道路の有するパブリツク・フオーラムとしての性質を重視するものと考えられる。
        もとより、道路のような公共用物と、一般公衆が自由に出入りすることのできる場所とはいえ、私的な所有権、管理権に服するところとは、性質に差異があり、同一に論ずることはできない。
      しかし、後者にあつても、パブリツク・フオーラムたる性質を帯有するときには、表現の自由の保障を無視することができないのであり、その場合には、それぞれの具体的状況に応じて、表現の自由と所有権、管理権とをどのように調整するかを判断すべきこととなり、前述の較量の結果、表現行為を規制することが表現の自由の保障に照らして是認できないとされる場合がありうるのである。」
     と、道路における集団行進を例に挙げつつ表現行為全般との関係でパブリツク・フオーラムに言及しているのであるから、検察官の主張は失当である。
以下、本件について、上記イの各要素を検討する。

 ⑵ ⑴イの各要素について
   ア 結果・手段の軽微性
     第2で既に述べたように、本件所為は本件イベントに何ら影響を及ぼしておらず、A証人の業務に限定しても妨害の結果は生じていない。また、誰かがけがをする、何かが破壊されるといった、派生的な結果も生じていない。その結果、A証人は検察官が被告人に何か言いたいことがあれば言うようにと促されて、「正直、特にはないです。けが人とか、うちのスタッフがけがをしたとか、お客様がけがをしたとかっていうことはないので、その男性の方に、特にもありません」と述べているように、全く被害者としての意識を持っていないのである。
     よって、本件所為には、明らかに、結果・手段の軽微性が認められる。
   イ 目的の正当性
     第3の1及び2で述べたとおり、被告人は、2020東京大会に抗議の意思表示を行うために、政治的表現の自由の行使として本件所為に及んでおり、被告人の目的は正当である。
   ウ 手段としての相当性・必要性
    (ア)相当性
      「象徴的言論」については、そもそも単なる表現ではなく、一定の行為(それは必然的に第三者や周囲に対する一定の影響をもたらす)が前提となっていることから、手段として効果的である、一定の範囲で用いられているということが認められれば、手段として社会的に許容されるものであれば、相当性を認めてよい。
       爆竹を鳴らすという行為で抗議や怒りの意思を表明することは、世界的にも広く行われているものであり、一定の範囲で抗議の手段としても散られている。
       また、B証人は、「実際、黒岩さんを罰したいのは、東京オリパラなんじゃないかというふうに私は感じていて、まあ国挙げての、地方自治体やらNHKやら電通やらマスコミやら、あるいは大企業からスパイダー社のような小さな企業まで巻き込んでの、総力挙げての、そして全国から警察を集めて、また自衛隊も出てきての、そういう圧倒的な力でオリンピック・パラリンピックが強行されて、それに対して爆竹というのは、あまりにも桁違いに小さい、破壊力が小さいと私は感じています」と述べたが、まさにそのとおり、本件所為は、国家の総力を挙げて国家の事業として行われた行為に対する、貧困の側に立つ市民による、せいいっぱいの抗議の意思表示として手段としての相当性が認められる。
    (イ)法益衡量
     「もはや許された範囲を著しく逸脱したもの」のように手段の不相当性を強調すればそれはあまりにも硬直した判断になってしまうため、「具体的目的のためにはどの程度までの侵害が許されるか」という観点から衡量を行うべきである。
         被告人の保護されるべき法益は、憲法上優越的地位が認められた政治的表現の自由である。これに対し、妨害されたという業務は、起訴状によれば非常に限定されたものに過ぎず、しかもその業務に従事していたA証人は業務を妨害されたという明確な意思をもっていない。
        このことからすれば、本件所為によって実現される法益を尊重すべきである。
   (ウ)必要性・相当性
            手段が必要かつ相当なものであったかという点については、行為が目的達成のために必要なものか、あえてその場で行為を行わざるをえなかったのか判断すべきである。
    コロナ禍で2022東京大会に直接的に反対の意思表示を行う場面は非常に限定されたものになった。その中で、被告人は、「そのほうが人を傷つけず、目立った行動であると思ったからです」「柵の中には結構大きなスペースというものがあって、そこで人を傷つけずに、自分のこのオリンピック・パラリンピック、そしていわゆる聖火リレーに対する抗議の意思表示をしようと思いました」として、象徴的言論としての効果と人に傷害を負わさないということを両立し、自分にも容易に実現可能な手段として爆竹を鳴らすという手段を選択したものであり、手段としての必要性・相当性も認められる。

⑶ 小括
   本件は、結果・手段の軽微性が優に認定できる事案であり、しかも前述のとおり、業務妨害罪が本来予定している法益侵害性が認められないから、絶対的軽微性類型に相当するといえる。したがって、その余の要素を検討するまでもなく、可罰的違法性はない。
     仮に、法益侵害性が認められるとの立場に立っても、その程度はA証人の証言に現れたようにきわめて軽微であること、一方、被告人らの保護されるべき法益は、憲法上優越的地位が認められた表現の自由、とりわけ尊重されるべき政治的意味を有する表現の自由であること、手段の相当性が認められることなどを総合考慮すれば、可罰的違法性は認められない。

 

第4 結語

   以上述べたとおり、被告人の本件所為に威力業務妨害罪は成立しない。
被告人は無罪である。


以 上